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吉田 伊知郎
1978年生まれ 映画評論家
脚本家 黒澤明
22/8/2(火)~22/11/27(日)
国立映画アーカイブ 展示室、 国立映画アーカイブ
リアルタイムで体験していないと、わからない感覚がある。黒澤明がめっぽう面白い娯楽映画を撮る〈映画監督〉というなら、今、初めて黒澤映画を観た観客も、80年前にデビュー作の『姿三四郎』を目にした観客も、同じ感覚を共有できるだろう。だが、現在の観客が優れた脚本家として認識できるかといえば、難しいのではないか。 同時代に黒澤を観てきた作家の小林信彦が、『銀嶺の果て』(黒澤が脚本を提供した谷口千吉監督の山岳アクション)について、こう記していた。 「なんといっても〈脚本・黒澤明〉が魅力的だった。黒澤明は、第一作『姿三四郎』を発表する前から、すでに〈面白く、すぐれた脚本を書く新人〉として知られていた。」(『コラムは誘う』ちくま文庫) 実際、『姿三四郎』以前に、映画雑誌には黒澤による『達磨寺のドイツ人』などの脚本が発表されており、『姿三四郎』が不意に現れた未知の新人によって撮られた作品ではなかったことがうかがえる。戦後も『肖像』『殺陣師段平』『戦国無頼』など脚本提供作品は多く、国立映画アーカイブの企画展「脚本家 黒澤明」は、監督のみの視点で語れることが多かった黒澤の脚本家としての才気を一望することができる待望の展覧会となる。 とはいえ、脚本の展示となると難しい。随所に推敲や書き込みの跡があるとか、有名なシーンが脚本では全く異なる記述をされていたとか、わかりやすく目立つものがあれば良いが、そんなお誂え向きな脚本ばかりとは限らない。 個人的な話になるが、筆者が本展示を見たときは、「時代劇に戦車やヘリコプターが出てくるなんて子供だましだ」(『日刊スポーツ』1979年12月16日)と『影武者』を撮影中の黒澤が発言したことで知られる某SF時代劇の準備稿から決定稿、撮影稿、差し込み台本などをチェックして脚本の差異をまとめる作業に追われていた。これが実に骨が折れるもので、あからさまに大きく設定が変わっていれば良いが、実際は推敲されていくにつれて差異はごくわずかにとどまり、一行ずつ、ト書きと台詞を対比させないと違いがわからないことも多かった。これを、ごく短い解説を付けて、誰にでも違いが分かるように展示せよと言われたら途方に暮れただろう。 本展示の「第4章 創造の軌跡Ⅰ 『隠し砦の三悪人』をめぐって」「第5章 想像の軌跡Ⅱ 改訂の過程をたどる」では、その途方に暮れるような行程を、ポスターやプレスで目を愉しませつつ、立体的に再構築してみせてくれる。 殊に『隠し砦の三悪人』の黒澤、小国英雄、菊島隆三、橋本忍という、笠原和夫が言うところの〈クロサワ・タスクフォース〉による共同脚本がどのように執筆され、決定稿へと昇華されていくのかを、デジタル展示システムを活用することで具体的にたどることが可能になったのは、脚本展示の可能性を広げる画期的なもので、一見の価値がある。 最新のデジタル機器に頼りきっているわけではなく、フリップに的確にまとめられた解説とともに脚本の改訂過程をたどっていくと、発見も多い。『天国と地獄』では、麻薬街のシーンが脚本では細部が記述されておらず、撮影中の差し込みで設定が作られており、ラストシーンが二転三転していく過程も具体的に確かめることができる。 手塚治虫にアニメーション・パートの協力を求めた手塚プロダクション所蔵の『黒き死の仮面』、黒澤が降板した『虎 虎 虎』の準備稿など、陽の目を見なかった脚本も含め、脚本家視点で黒澤を見つめれば、未知なる領域の広さに圧倒されることになる。 なお、本展示の図録が国書刊行会から9月30日に発売された。書店でも入手可能なので、遠方の方には、ぜひ手にとって展示の雰囲気を味わってほしい。
22/10/4(火)