小津安二郎の映画がそうであったように、ホームドラマという形式は、優れた現代批評である。
物語の舞台は2003年。約20年前の近過去ということになるが、最終盤で作品を席捲し、家族の心身を分断することになるSARSの存在が、わたしたちの目を現代に向かわせる。そう、わたしたちはもはやコロナをなかったことにはできない。いや、いまもその渦中にいる。このことに向き合わざるを得ないのだ。
監督の自伝的要素を反映した、アメリカ帰りの台湾姉妹とその母親、合衆国では暮らせなかった父親との、共にいながら、どこか別居しているようにも感じられる4人一家の肖像が、密閉された空間描写の中で見つめられる。
バラバラな家族が、SARSによって一致団結するのではなく、バラバラのカケラとしてのひとりひとりを認識し、そこから再出発しようとする様は、鏡に映ったわたしたちの姿だ。
地球規模の危機であるコロナ禍に、世界は一致団結することができなかった。このような状況下で、海の向こうでは戦争が起き、我が国では暗殺が遂行された。コロナ、戦争、暗殺。その捉え方も様々で、そこからあふれ出ているのは、多様性ではなく、シンプルな分断。わたしたちは孤独に、この現実に向き合うしかない。
甘すぎることもなければ、辛すぎることもない映画。だからこそ、どん底から、自然体で立ち上がる契機になる。
がんばりすぎるな。だが、気を抜くな。
『アメリカから来た少女』には、わたしたちを正気にする、平常心のつぶやきがある。