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水先案内人のおすすめ

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古今東西、興味のおもむくままに

藤原えりみ

美術ジャーナリスト

諏訪敦 眼窩裏の火事

髪の毛や睫毛の一本一本、首や脇の下の皺、筋張った筋肉と浮き上がる血管......。諏訪敦の超絶技巧的な写実描写は、モデルとなる人物の身体のすべてを克明に描き出す。静物では、枯れかけた柿の葉の虫に食われた跡、押せば潰れそうな豆腐の感触、光を透過し反射するガラス製のグラス、ぬるりとした烏賊の光沢……。「もの」あるいは「人」の「存在」と向き合う画家の眼差しはなにひとつ見逃さず、残酷なまでに明晰だ。 だが、「見たものを」あるいは「見えたものを」描き出すその描写技術に驚くと同時に、描かれた「人」も「もの」も、描かれた後に実体が蒸発してこの世から存在しなくなってしまったような、奇妙な希薄感が残る。これほど緻密に描かれているのに、そして、モチーフやモデルの存在に肉薄する画家の眼差しの強靭さに圧倒されているのに、その眼差しは「この世に存在するもの」を突き抜けて、彼方を(つまり彼岸を)凝視しているように思われてならない。 今回の個展は、太平洋戦争の敗戦直後に満州で飢えとチフスにより亡くなった祖母の姿や、1999年に亡くなった諏訪の父親の死顔から始まる。父の死後に残された手記から祖母の死を知った諏訪は、「満州で父が見たもの」を追う取材の旅に出る。亡くなった時の祖母の相貌と年齢に近いモデルの身体をベースに、諏訪は女性の肉体から肉を削ぎ取り、チフスの発疹を描き加えていった。生の名残ある肉体から死体そのものへ。この肉体の変貌の時間が、制作当初から完成までの記録映像として大型のモニターに映し出される。私たちが体験するのは、諏訪自身が制作を通して追体験した肉体の「死へのプロセス」に他ならない。 また、亡くなった娘や息子の肖像画を依頼されることもあるという。諏訪はモデルの人物像を掘り下げるために家族に取材し、さらに両親や弟妹の肖像画も描き、必要とあればモデルの骨格を確認するために半身立体像を自ら制作したり、手の義肢製作をプロの義肢装具士に依頼したりもする。 今回の謎めいた展覧会名「眼窩裏の火事」は、諏訪が抱え込む閃輝暗点(せんきあんてん)という血流の障害による視覚異常に由来する。視覚を酷使したり眩しいものを急に見たりするときに、視野の一部が陽炎のように揺らぎ、強烈な閃光が見えるという。人物画や静物画に描きこまれた霧のような霞のような白い揺らめきは諏訪にしか見ることのできない「美しい幻覚」だ。 見ることの限界と見えないものへの希求。リアリズムを超える試みに時が止まるような思いに駆られる。静謐なる時への誘い。此岸と彼岸の境界へようこそ、と。

23/1/7(土)

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