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文学、ジャズ…知的映画セレクション

高崎 俊夫

フリー編集者、映画評論家

聖地には蜘蛛が巣を張る

今世紀の初頭、イランの聖地マシュハドで実際に起きた16人もの娼婦を殺害した連続殺人事件をベースにした衝撃的なクライム・サスペンスである。しかし、この映画は、たとえば、『羊たちの沈黙』(91)や『ゾディアック』(07)のような同工のモチーフを掲げたアメリカ映画の模範的な秀作とはまったく異なった感触をもって迫ってくる。 監督であるアリ・アッバシはイラン出身で、現在はスウェーデンを拠点に映画を撮っている。そして事件の真相を追うジャーナリスト、ラヒミを演じたザーラ・アミール・エブラヒミはテヘラン出身の人気女優だったが、私的なセックステープが流出するというスキャンダルによってフランスに亡命を余儀なくされたという経緯がある。 映画は、逮捕された連続殺人犯であるサイード(メフディ・バジェスタニ)が、なんら反省することなく、むしろ居直り、娼婦という存在をあからざまに差別し、殺害することは「街を浄化する」意図にほかならぬと抗弁して、一般大衆がSNS等で彼を英雄視するという理不尽極まりない事態へと至る。 アリ・アッバシ監督は、この未曽有の事件の顛末をリアルに再現しながら、その深層にわだかまっているイラン社会を覆いつくすミソジニー(女性蔑視)のおぞましさを熾烈に告発しているのだ。ラヒミは自ら娼婦を偽装して街角に立ち、サイードと対決するが、その形容を絶する恐怖と向き合う気丈な姿には、ある感銘を覚える。ラヒミを演じたザーラが迫真的な存在感によってカンヌ国際映画祭女優賞を獲得したのは当然と言えよう。 この映画は、イラン社会の抱える暗部にメスを入れて、その不分明な病巣を摘出するという果敢な試みである。それゆえに、イラン国内では撮影許可が下りず、ヨルダンのアンマンで撮影された。不抜のコンビである監督と主演女優が自由を希求するコスモポリタンでなければが実現しなかったのではないだろうか。 かつてイラン映画を世界に知らしめた巨匠アッバス・キアロスタミは、自動車の助手席にキャメラを据えて運転するヒロインと次々に乗り込んでくる人々との対話を定点観測するという実験作『10話』(02)を撮った。あの映画にも娼婦と思しき女性が登場し、一瞬、軽い驚きを禁じ得なかったことを覚えている。恐らくキアロスタミは、『10話』で不可視のタブーに触れたのだ。以降、キアロスタミは、イラン国内で映画を自由に撮れなくなってしまったからである。

23/4/16(日)

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