評論家や専門家等、エンタメの目利き&ツウが
いまみるべき1本を毎日お届け!
政治からアイドルまで…切り口が独創的
中川 右介
作家、編集者
ナチスに仕掛けたチェスゲーム
23/7/21(金)
シネマート新宿
ナチスを題材にしているが、実話ではなく、シュテファン・ツヴァイクが1942年に書いた小説『チェスの話』の映画化。この小説を書き終えた後、ツヴァイクは睡眠薬の過剰摂取で亡くなったので、最後の作品。 小説も映画も、フィクションを通してナチスの非道さを訴えているだけでなく、人間の本質に迫ろうとしている。それは、「言葉なしで生きていけるか」ということだ。 ナチスがオーストリアを併合したのは1938年で、その直後の物語。ウィーンで貴族の財産を管理している公証人が、その財産を狙うナチスに捕まり、預金番号を教えろと迫られる。拒否すると、白状するまでホテルに軟禁される。ホテルなのでベッドもあるし、バス・トイレもある。食事も運ばれてくる。快適かと思われたが、食事を運ぶ人に話しかけても挨拶すら返されない。本も新聞も与えられず、「言葉のない世界」で何か月も過ごすことになる。これこそが、ナチスの考えた精神への拷問。 私は、どこへ行くにも文庫か新書を一冊、カバンに入れ、常に何か読んでいないと落ち着かない人間なので、主人公の置かれた状況の苦しさ理解できる。耐える自信はない。すぐに白状するだろう。 だが、主人公は耐え抜く。取り調べで部屋を出された際に、偶然手に入れた一冊の本があったからだ。しかしそれは読み物ではなく、チェスのルールブックだった。彼はそれを何度も読み、ルールだけでなく、これまでの様々な対戦での手を暗記してしまう。 この軟禁生活は「過去」で、映画の「現在」では、主人公は解放されて客船に乗っている。髭があるのが「過去」で、「現在」の彼は髭がない。これは、過去と現在を区別するためではなく、髭は彼が失ってしまったもののメタファーなのだろう。 チェスのルールを知っていれば、より面白いかもしれないが、知らなくてもかまわない。 主人公の公証人を演じるオリヴァー・マスッチは、『帰ってきたヒトラー』でヒトラーを演じた俳優。演技力を買われての起用だろうが、深い意図があるのかもしれない。
23/7/14(金)