この映画の救いのなさは、山本薩夫監督・市川雷蔵主演の『忍びの者』に匹敵する。
歴史ロマンとか、戦国絵巻とか、天下統一とか、戦乱をおさめて平和な世にするための戦いとか、いままで信長・秀吉の時代につけられた美辞麗句を徹底的に否定し、破壊した映画だ。
微塵もなく破壊されて、荒野となったそこには屍(しかばね)、つまり「首」しかない。
2020年の大河ドラマは長谷川博己が明智光秀を演じた『麒麟がくる』、今年に入ると、木村拓哉が織田信長を演じた『レジェンド&バタフライ』、松本潤が徳川家康を演じる大河ドラマ『どうする家康』、そしてこのビートたけしが豊臣秀吉を演じる『首』で、「本能寺の変」が、殺す光秀、殺される信長、黒幕めいている家康、最も得をした秀吉と、関係者4人それぞれの視点から描かれ、4つの「新しい本能寺」を見ることになった。
そのなかで、『首』は異色さが際立つ。
まず女っ気のなさ。最近の歴史ドラマは女性が堂々と主張し、男を動かしていくものが多い。だが『首』には、台詞のある女性そのものが、ほとんど出てこない。徹頭徹尾、「男たちのドラマ」として展開する。
男性間同性愛は剥き出しの性欲として描かれて、BLなんてきれいごとにしない。
旧来型の男と男の友情も、主君と家臣の関係も、性欲で結ばれた同性愛であることを暴き、結果として、きわめて現代的になっている。
なによりも、主要登場人物がみな「悪意」に満ちている。誰も好きになれない。尊敬できない。憧れない。
そこが、最大の面白さだ。