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文学、ジャズ…知的映画セレクション
高崎 俊夫
フリー編集者、映画評論家
一月の声に歓びを刻め
24/2/9(金)
テアトル新宿
三島有紀子の十作目に当たる『一月の声に歓びを刻め』は、彼女が幼少期に受けた性被害をモチーフに据えた作品である。47年もの間、ずっと自ら封印し、胸中に秘めていた過酷な記憶に向き合い、映像化を試みるというのは、自ら傷口のかさぶたを剝がすような名状しがたい痛みを伴う行為であることは想像に難くない。 しかし、急いで付け加えれば、『一月の声に歓びを刻め』は、かつて三島自身が体験した、おぞましい事件そのものを描くセンセーショナルな作品ではない。第一章「北海道・洞爺湖」、第二章「東京・八丈島」、第三章「大阪・堂島」という相互に関連性がない場所を舞台にして、「れいこ」と名づけられたヒロインをめぐる三つの変奏としての静謐な一つの物語が紡がれるのだ。 「洞爺湖篇」は、47年前、性暴力で亡くなってしまった娘れいこを忘れることができないトランスジェンダーのマキ(カルーセル麻紀)の抱える深い喪失感と煩悶を描いている。ここでカルーセル麻紀がみせる壮絶なまでの自己懲罰の身振りは、まさに鬼気迫るものがある。 「八丈島篇」は、妻を交通事故で亡くし、娘・海(松本妃代)の妊娠を知って動揺を隠せない父親・誠(哀川翔)の懊悩をスケッチしてみせる。 「堂島篇」は一転、沈鬱なトーンのモノクロームの映像となり、三島有紀子の生まれ故郷・大阪の堂島を舞台に、性被害のトラウマを抱えたれいこ(前田敦子)が、5年前に別れた元恋人の葬儀に出た後、淀川を彷徨うなかで出会ったレンタル彼氏と一夜を過ごす。翌日、忌まわしい事件の現場に二人は向かうが、その顛末が丹念に掬い取られている。 『一月の声に歓びを刻め』は、くだくだしい状況説明は周到に排除され、ダイアローグは極端に切り詰められている。むしろ、この映画において得も言われぬポエジーが画面に充溢するのは、台詞が突然、<叫び>そのものと化してしまう瞬間である。「人間なんてみんな罪びとだ!」と糾弾する松本妃代、前田敦子がレンタル彼氏に向けて放つ激しい面罵、そしてエピローグで響きわたる「れいこ、お前は、美しい。世界で一番、美しい!」というカルーセル麻紀の悲痛なまでの<声>は、過去の呪縛から解き放たれようと希求するすべての存在が発する<叫び>にほかならないのだ。 この映画には、船の甲板から花束が洞爺湖に落下していくのを真俯瞰でとらえたカット、あるいは堂島出入り橋の上で投身自殺しようとする女性を仰角気味でとらえた場面など、ストーリーとは一見、無縁な、しかし永く記憶に残るさりげない印象的なショットが散見する。『一月の声に歓びを刻め』は、これまで不分明だった三島有紀子の詩人としての資質が露わになった作品といえるだろう。
24/2/7(水)