Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play

水先案内人のおすすめ

評論家や専門家等、エンタメの目利き&ツウが
いまみるべき1本を毎日お届け!

映画のうんちく、バックボーンにも着目

植草 信和

フリー編集者(元キネマ旬報編集長)

チャイコフスキーの妻

幼少期、「偉人伝」のたぐいでチャイコフスキーの名を知った。長じて三大バレエ組曲「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」、「交響曲第六番・悲愴」などを愛聴、ロシアが生んだ世界的な作曲家に親しんだ。だが1972年公開のケン・ラッセル監督作品『恋人たちの曲/悲愴』で、その偉大な作曲家が同性愛者として描かれていたのに、ショックを受ける。 本作『チャイコフスキーの妻』はそのタイトルどおり、19世紀後半の帝政ロシアを背景にしたチャイコフスキーの妻アントニーナ・ミリューコヴァの数奇で悲劇的な生涯を描いた女性映画。『恋人たちの曲/悲愴』より数倍も過激に、チャイコフスキーの性の問題とアントニーナの悲劇に深く踏み込んでいる音楽映画でもある。 物語は、1893年、サンクト・ペテルブルグでのチャイコフスキーの葬儀から始まる。そしてすぐ回想シーンに転じ、1877年のモスクワでのふたりの愛憎劇へと進んでいく。チャイコフスキーに一方的に惹かれていたアントニーナは彼の住所を調べ、ラブレターを送り、部屋に誘い、求愛する。彼が性的に同性にしか興味がない人間だとも知らずに。素気無くされても執拗に男に迫るそのストーカーぶりは、『アデルの恋の物語』のアデルを彷彿させる。 舞台になる19世紀のモスクワやサンクト・ペテルブルグはもちろんセット撮影だが、その再現が実にリアルだ。泥濘の市街地、物乞いするボロをまとった貧者たち。全編を貫くそのリアリズム描写は、チャイコフスキーに見捨てられて次第に精神を病んでいくアントニーナの悲劇性をより際立たせ、奥深いものにしている。チャイコフスキーはなぜ愛がない女性と結婚したのか……。「金銭目的」(彼女は地方貴族出身で持参金があることをほのめかす)、「同性愛を隠すため」などいろいろな説があるようだ。だが、彼女は、「史上最悪の悪妻」の汚名を着せられ、その名を歴史に刻まれてしまう。アントニーナは、チャイコフスキーの代表曲「白鳥の湖」における「黒鳥」なのかもしれない。悪魔によって「白鳥」にされた王女オデットは魔法が解かれて人間に戻って愛をも得るが、アントニーナは呪われた「黒鳥」のまま生涯を終えた。 監督は『LETO -レト-』『インフル病みのペトロフ家』のキリル・セレブレンニコフ。『チャイコフスキーの妻』は第75回(2022年)カンヌ国際映画祭コンペティション部門で高評価を得て、フランスでは17万人もの観客動員があったと媒体資料にはある。史上まれにみるチャイコフスキーとアントニーナの愛憎劇。チャイコフスキーにとっては天才であるが故に「神に与えられし試練」だが、アントニーナはチャイコフスキーが没してからの24年、そのほとんどを精神病棟で過ごした。「チャイコフスキーの妻アントニーナ」の人生とはなんだったのだろうか?

24/8/17(土)

アプリで読む