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映画は、演技で観る!
相田 冬二
Bleu et Rose/映画批評家
まる
24/10/18(金)
TOHOシネマズ日比谷
堂本剛には、ずいぶん若い頃から、永い永い放浪の旅を終えた後の風情があった。 達観、というのとは少し違っていて、もし達観だとしても、もう何度目かの達観で、何周も廻って、気がつけば達観がみずみずしさに到達している。こちらはその様子に驚くのだが、本人はいたって平然で、すこやかに自然体。 この、「堂本剛」としか呼ぶことのできないフォルムに、なかなかスクリーンで出逢えぬことは残念でもあったが、しかし、そう簡単に遭遇できてしまっては申し訳ない。ありがたみが薄れる。そんなアンビバレンツな感慨もまた、堂本剛というイメージの附属品(アクセサリー)のように感じていた。 久しぶりの映画、それも主演。 こちらは気負うが、堂本剛のたたずまいには、当然のように無駄な力が全く入っておらず、いま・そこにある吸引力がただただ当たり前に微笑んでいる。 売れない画家であり、また優秀なアシスタントでもある青年が自転車事故で骨折し、食い扶持を失う。が、自身が描いた“まる”によってスターダムに祀りあげられ、翻弄されていく。 ひょんなことから芸術に価値が生まれ、高騰する。それは現実にせよ虚構にせよ珍しいことではなく、この映画は寓話であり社会批評であり抽象的な風刺でもあるだろう。シュールでファニーでストレンジな肌触りの作品だが、そうした幾つもの要素のいずれにも堂本剛は靡かない。その、転がり続ける受動態が本当にオリジナルで目を見張った。 何かに巻き込まれ、意志に反して、アップ&ダウンさせられているにもかかわらず、主人公には不変=普遍の頑なさがある。焦ったり、困ったりすることがないのだ。ひょっとしたら、この人物は生まれてこのかた、一度も焦ったり、困ったりしたことがないのではないか、と思わせるほどに、完全無欠のマイペース。乱れることのない、そのありように静かにしびれる。 主人公には夢があり、その夢は叶えられてはいないのに、堂本剛の風情を見つめていると、不思議な安堵が訪れる。彼は満たされていないのに、いいじゃないか、君は君なのだから、圧倒的に君でしかないのだから、それって凄いことだよ、と心の中で呟いている。 本作は、彼が部屋でひとりで居る場面がたくさんあり、わたしが想う堂本剛の本領が無菌状態で発揮されており、その存分な贅沢に酔いしれた。 彼には“含蓄”があるのだ。理屈に還元されない、言葉に置き換えられない、こちらの想像など軽くうっちゃってしまうような“含み”がある。それは哲学でも倫理でも美学でも生態でもない。堂本剛にしか備わっていない“含蓄”にわたしは惹かれ満たされる。敵わないという愉悦。 時に、にやっと笑っているかのような“含蓄”。時に、ま、いっかと納得しているかのような“含蓄”。孤高であると同時にフレンドリーでもある“含蓄”。油断できないが愛らしくもある“含蓄”。 芸術家がひとりでいる時、なにを想い、なにを露呈しているのか。その静謐な“含蓄”を、堂本剛は彼にしか表現できぬ無限の境地(しかし、それは何度でも繰り返すことができるループだ)を通して、わたしたちに知覚させる。 極めて高尚でありながら、どこまでも身近に在る、その存在のテクスチャ。流転しつづけるオーラ。それらを満喫できることの果てしない幸甚。 堂本剛は、終わらない“含蓄”だ。
24/9/25(水)