水先案内人のおすすめ

評論家や専門家等、エンタメの目利き&ツウが
いまみるべき1本を毎日お届け!

映画のうんちく、バックボーンにも着目

植草 信和

フリー編集者(元キネマ旬報編集長)

タンゴの後で

ベルナルド・ベルトルッチ監督の代表作の一本といわれている『ラストタンゴ・イン・パリ』(1972)。全編を貫く過激な性描写が、映画界のみならず宗教界にも波紋を投げかけた“問題作”だ。本作『タンゴの後で』は、その『ラストタンゴ・イン・パリ』に抜擢され、世界的に注目された女優マリア・シュナイダー(当時19歳)の、その後の悲劇的な人生を描いた「伝記的映画」。 原作は、マリア・シュナイダーの従妹にあたるヴァネッサ・シュナイダーのノン・フィクション『あなたの名はマリア・シュナイダー:「悲劇の女優」の素顔』。では、マリアは『ラストタンゴ・イン・パリ』で、どんな「心の傷」を負ったのか? そしてそれは、彼女のその後の人生をどのように変えたのか? 監督のジェシカ・パルー(ベルナルド・ベルトルッチ監督作品『ドリーマーズ』(2003)でインターンをしたことがある、と媒体資料には書かれている)は、語る。 「撮影前、ベルナルド・ベルトルッチはマリアに対し、『もっと踏み込む』とだけ伝えました。しかし、“バターのシーン”では、一線を越えました。マーロン・ブランドがマリアのズボンを引き下ろし、バターを手に取る──この描写は、脚本には存在しません。若きマリアは、不意を突かれ、床に倒されました。その後のインタビューで、ベルトルッチ自身がマリアの了解を得ていなかったことを明確に認めています。 彼は、『マリアの本物の涙、本物の屈辱がほしかった』と語っています。この映画では、マリア・シュナイダーの視点に立つことで、彼女が体験したその瞬間を、観客にも追体験させることを目指しました」。 彼女がいう“バターのシーン”とは? 公開時に最も話題になった、マーロン・ブランドがマリア・シュナイダーを背後から抱きかかえて、バターを塗って行われるアナルセックスのシーンのこと。同シーンはこの映画の代名詞のようになって、世界中に流布した。彼女はこうも語る。 「マリアは、虐待を告発した最初の女優のひとりでした。しかし、当時は誰も彼女の声に耳を傾けませんでした。創造とは、屈辱や苦痛、軽蔑の上に成り立つものなのか? この映画が問いかけるのは、芸術の限界、侵害された尊厳、彼女が感じた裏切りです。そして、それらの問いを、マリア・シュナイダーの視点を通して投げかけます」。  マリア・シュナイダーは、『ラストタンゴ・イン・パリ』のそのセックス・シーンの撮影で傷つき、それが元で薬物依存に陥りながらも、女優を続けた。そして、2011年2月、58歳の若さで乳がんの合併症で亡くなった。映画界での#Me Too運動の始まりが2017年だから、それよりも45年も前に、性加害を訴えていたマリア。今フランスでは、マリア・シュナイダーの復権とエンタメ業界の問題の改善が取り組まれている、という。 マリアを演じているのはヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞作『あのこと』、『ミッキー17』のアナマリア・ヴァルトロメイ。マーロン・ブランドをマット・ディロン、ベルトルッチをジュゼッペ・マッジョが演じている。 『暗殺の森』『暗殺のオペラ』『ラストエンペラー』などの傑作で、今では「世界的な巨匠」として語られているベルトルッチ、泉下でこの事態をどう見ているのだろうか。

25/8/13(水)

アプリで読む