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「ゆけ!ゆけ!歌舞伎“深ボリ”隊!!」今月の歌舞伎座、あの人に直撃!! 特集

中村歌六 『熊谷陣屋』白毫弥陀六「義太夫狂言の爺役には力が要るんですよ」

第35回

壇ノ浦の戦いで源義経に敗れた平知盛、一ノ谷の戦いで熊谷直実に討たれた平敦盛。源氏に敗れた平家方の武将たちが実は生きていたら? 人形浄瑠璃や歌舞伎の中の平家物語は実に自由で大胆な設定ばかり。義太夫狂言の傑作、超重量級の時代物『熊谷陣屋』でも、「実は」という設定が物語を思わぬ方向へと展開させていく。

<あらすじ>

源氏の武将熊谷直実の陣屋には「一枝を伐らば一指を剪るべし」と武蔵坊弁慶によって書かれた制札が立っている。熊谷は妻の相模に、息子小次郎の活躍と平敦盛を討ったことを明かす。そこへ恩義のある敦盛の母藤の方が姿を現し、熊谷をなじる。やがて源義経による敦盛の首実検が行われ……。

何度見てもそのたびに苦しくなる。そして無常観に襲われる。熊谷と相模は何のために十六年間小次郎をいつくしみ育ててきたのだろう。またこのとき人生の絶頂期にあったのが義経。熊谷に冷徹な命を下していた彼についても、この後の運命を思うとやるせない。そんな熊谷と義経、熊谷の息子小次郎のドラマに加え、もうひとつ、白毫弥陀六と義経、平敦盛のドラマがこの『熊谷陣屋』の後半で繰り広げられる。

石屋のおやじ・弥陀六。だがどう見てもただの好々爺ではない。今月の深ボリ隊はこの弥陀六をロックオン。「壽初春大歌舞伎」の夜の部『熊谷陣屋』でこの弥陀六を勤めるのは中村歌六さんだ。なんと今回で11回目となる。

なぜ弥陀六は梶原景高を討ったのか。義経と弥陀六との間でどんな思いが交わされたのか。稽古が始まる前のある日、歌六さんを直撃した。

Q. 義経に真正面からぶつかっていく弥陀六のパワーの源は?

平成22(2010)年新橋演舞場「五月花形歌舞伎」『熊谷陣屋』で白毫弥陀六を勤める中村歌六さん (c)松竹

――歌六さんは72年に四天王で『熊谷陣屋』に出られて、その次の出演が2010年、新橋演舞場で白毫弥陀六を初役で勤められました。弥陀六は今回で11回目ですね。

中村歌六(以下、歌六) 前の月に弥陀六をなさっていた天王寺屋のおにいさん(五世中村富十郎)から、「弥陀六やるんだって? ダメだよ、僕に聞いても! あれは僕の勝手でやってるから僕には習わないでください」と言われまして(笑)。なので僕のは見覚えた先輩方の舞台の記憶や持っているビデオを拝見して作ったものです。

――このお役は好きなお役ですか。

歌六 申し訳ないけど弥陀六が出たらもう20分間は出ずっぱりでワンマンショー(笑)。ここからは俺の時間だ!という気分になりますね。相模さんも藤の方さんもじっと後ろ向きにさせたままだし、義経さんもいらっしゃるのにね。

――弥陀六の第一声で、舞台のそれまでの空気がガラリと変わりますね。舞台から梶原は引っ込んでしまったし弥陀六もまだ姿は見えない。そこに弥陀六の「ええい!」という声だけが上手から響き渡り、梶原の断末魔の声が揚幕の向こうから聞こえてくるという、お客さんにとっては「何が起こったんだろう」というちょっとスリリングな時間です。

歌六 あの「ええい!」は、梶原さんと竹本のタイミングに合わせています。舞台袖でモニターで確認しているわけじゃないんですよ。竹本の「と、言い捨て駆け出す後ろより、はっしと打ったる手裏剣に、骨を貫く鋼の石鑿」で、「えい!」と言わなきゃいけない。なので梶原さんにはそれまでに引っ込んでおいてもらわなきゃいけないんです。もしも引っ込み終える前に石鑿に打たれて花道で倒れたりしたら、熊谷が後で引っ込むときに困るでしょうね。なので、梶原役の方は皆さんどなたも必死に引っ込まれています。

――そもそも弥陀六は、あそこでなぜ梶原を討って義経のピンチを助けたのでしょう。義経は平家を滅ぼしつつある憎い存在だったのでは。

歌六 この前の段の「御影浜浜辺の場」で弥陀六は美しい若者に頼まれて石塔を建てます。その時から「この人自身が敦盛ではないか」とは何となく思っているのでしょうね。そこで弥陀六は梶原景高に捕らえられ、熊谷の陣屋に連れて来られて奥で詮議されるはずだったのですが、梶原からすれば、義経と熊谷との間で交わされている話の方がもっと重要な情報だった。そのとき梶原に聞こえていた内容は、当然弥陀六にも聞こえたでしょう。義経たちの首実検の様子や、暗に「敦盛さまの替わりに熊谷が息子の小次郎を差し出しましたよ」ということも。梶原も言っています、「石屋めが詮議にことよせ窺うところ、義経、熊谷、心を合わせ敦盛を助けし段々、このこと鎌倉へ注進する」と。

弥陀六からしたら、あの浜辺で会ったのはやはり敦盛だった、生きていたと、ここで確証を得るんです。と同時に、鎌倉方に敦盛が生きていると知られ詮議されたら元も子もない。なので「お前方の邪魔になる、こっぱを捨ててあげました」と、義経のためと言いつつも、平家のため、敦盛のために、梶原をここで仕留めておく必要があったんでしょう。梶原がいなくなり警備が手薄になったから、弥陀六も縄を解いて出て来れたのかな。

――そして義経たちの前をそろそろと歩いて通り過ぎていく。三味線がとーんと入り、空気がピンと張りつめます。

歌六 あそこでは、義経に勘づかれないように早く通り過ぎたいなと思っています。でも義経に「弥平兵衛宗清!」と呼び止められる。これはヤバいぞと。ビクッとするけど知らん顔して、「弥平さん弥平さん」と周りを探す振りをします。さも自分は弥平ではありませんよと言わんばかりに。でも眉間のほくろを言い当てられて観念するんですね。

――ここはどんなふうに呼び止められたいですか。

歌六 ここは義経のしどころですから皆さん実にいろいろです。何しろ僕はこれまで9回勤めて10人の義経さんに呼び止められていますからね。海老蔵時代の現・團十郎さん、(片岡)仁左衛門兄さん、播磨屋の兄さん(二世中村吉右衛門)、(中村)梅玉兄さん、弟(中村又五郎)、(中村)萬壽さん、(中村)錦之助さん、代役で(中村)隼人……。皆さんそれぞれ声の調子も違うし十人十色の義経さんです。鋭く呼び止める方、やさしく呼ぶ方。「爺よ、満足満足」の言い方も、かわいくおっしゃる方、強くおっしゃる方、いろいろですね。あそこで子供のころの義経に返るという方もいらっしゃる。

石屋の爺と侍とを瞬時にスイッチする

――正体のばれた弥陀六は、花道から本舞台に戻り、三段に腰かけ、義経とグッと見合います。

歌六 「かく弥平兵衛宗清と見られた上は、いかに」で肌脱ぎして「義経どの」で正面を向き直ります。それまではずっと義経と見合ったまま。ここで頭巾も取り、弥陀六実は宗清だと明かします。

――手にしていた数珠は三段に行ってから懐にしまっているんですか。

歌六 僕は花道から戻ってくるときに、数珠は後見に渡し、草履も脱いでいます。これもいろんなやり方があって、数珠は懐にしまい、草履を三段の下に蹴り込むという方もいます。あるいは三段の間に数珠を落とすとかね。

――義経に呼び止められて戻ってくるときには声はもちろんのこと、もはや体つきさえ変わっているように見えます。

歌六 石屋からもう侍の宗清に戻ってますからね。声も強くなります。

三段で宗清となり義経と対峙する H.31(2019年)2月歌舞伎座「二月大歌舞伎」より (c)松竹

――そして宗清が嘆く長い台詞があります。

歌六 自責の念ですよね。いい人のつもりで頼朝と義経を助けてしまったために平家は滅亡した。平家が滅びたのは自分のせいだ、自分は重罪だと。ただこの狂言の基になっている平家物語では、宗清は義経のことは助けてはいないんですよね。頼朝のことは確かに助けているんですが。

――確かにこの弥陀六の長台詞の中でも、頼朝については「頼朝を助けずば」ですが、義経については「あの時こなたを見逃さずば」というニュアンスの違う言い方になっています。

歌六 頼朝がお父さん(源義朝)と逃げているとき迷子になってしまい、そこを助けてやったんですよ。宗清は平家の侍ですがそれほど身分の高い人ではなく、平頼盛の家人でした。その母の池禅尼を通じて平清盛に助命嘆願したんです。頼朝はこの時の恩を覚えていて、平頼盛は後に鎌倉幕府に呼ばれて重用されます。でも宗清は共に行かなかった。それを頼朝が嘆いたと言われていますね。

そして宗清は平重盛公の忘れ形見の娘と、祠堂金と偽って三千両の黄金を預かり、武門を離れ石屋となって、播州一国那智高野、平家のゆかりの場所に石塔を建てていくんです。

――あのくだりで、この人はどれだけの距離を歩いて石塔を建てて菩提を弔ってきたのだろうと想像させられます。

歌六 実際に熊野道にはお地蔵様があるらしいんです。「弥蛇六(ルビで「やたろく」)」という名の男を追悼した石碑も。ちなみに熊谷ゆかりの碑は京都の黒谷にあって、蓮生となった熊谷と敦盛の石塔が並んでいます。終盤に「我はこれより黒谷の」という熊谷の台詞がありますからね。南座出演の時、朝のウォーキングがてら行ったことがありますよ。

――この浄瑠璃の作者はそのあたりもきっちり取材して書いているのでしょうね。

歌六 どこにゆかりの石碑があるか、おそらく全部知っていますよ。この時代の作家はほんっとに物を知っていますから。この狂言に限らず、役を勤めていて「この作者、さては現場まで行ってるな」と思うことがあります。

――そして宗清は「獅子身中の虫とは我がこと」と嘆きます。前回歌六さんに登場いただいてお話をうかがった『義経千本桜 すし屋』の弥左衛門や、『摂州合邦辻』の合邦のような子供を亡くした父親の嘆き方とも違いますね。

歌六 侍ですからね。わあわあとは泣かない。怒りと悔し泣きですよ。くわ~~っと両手を頭につっこんでかきむしるから、鬘がぼさぼさになってしまうんです。なので床山さんには毎日なでつけてもらわなきゃいけなくなるのですが、そうさせてもらっています。それと肌脱ぎしたときに下に着ている着物に書かれているのは、亡くなった平家の武将達の名前なんです。相当昔の公達の名前もあるんですよ。義経が活躍する時代よりずっと前の時代のね。皆さんご存じの有名人ばかりでもない。武将たちの名前が書かれてない衣裳を使う方もいますね。

心で還俗する弥陀六と、この世から離れたい熊谷

――義経が鎧櫃を持ってこさせます。そこで「この鎧櫃、届けてくれよ、こりゃ弥陀六」と声をかけると「面白い」と。この弥陀六の「面白い」という歌六さんの声がまた低くてカッコいいんです。

歌六 義経の物言いに対して、ふふんと鼻で笑い、このやろう、この小僧、面白いじゃないか、という感じです。義経が宗清ではなくあえて弥陀六と呼ぶのなら、石屋の爺として応じようと、やわらかい声で「頼まれましょう」と言うんですね。そして櫃の中を確認するとそこには敦盛が潜んでいる。ここではっきりと、やはり敦盛は生きていた、身替わりとなったのは熊谷の息子の小次郎だったかと知るんですね。制札の「一枝を伐らば一指を剪るべし」の意味を改めて知る。田舎芝居では敦盛がここでちょっとだけ顔を出すこともあるらしいです。面白い演出ですよね。

――この鎧櫃を背負って立ち上がるのがまた大変そうで、これは間違いなく人ひとりが入っているのだなと思わせます。

歌六 いかにも重そうな立ち上がり方だよね。ここも竹本との兼ね合いで息を合わせて立ち上がります。

令和3(2021)年3月歌舞伎座「三月大歌舞伎」より (c)松竹

――ここで弥陀六は義経に鋭い質問を投げかけます。

歌六 源氏と平家、代々どちらが勝つか負けるかでやってきたわけですよ。何世代にもわたってね。自分が頼朝と義経を助けて平家が滅んだように、今ここで敦盛を助けたために平家が勢いを盛り返すかもしれない。それでもいいのかと尋ねる。義経は、恨みは受ける、受けて立つよと力強く言うんですね。

――歌舞伎の他の狂言の中の義経と比べ、この『熊谷陣屋』の義経は、彼の人生の絶頂期だとよく言われますね。

歌六 この後はどんどん落ちていきますからね。

――弥陀六は「この弥陀六も時を得て、また宗清と心の還俗」と言い、熊谷は逆に「我は心も墨染に」と出家をすると言います。対照的なふたりですね。

歌六 このふたりは表裏なんです。片方は心だけでも還俗する、気持ちとしては侍に戻りまだ一戦やるぞと。熊谷は頭まるめて出家、完全に俗世を離れたいと。そして「ご縁があらば女同士、命があらば男同士」という台詞があって、義経が「堅固で暮らせよ」と。この両者に声をかけているのでしょうね。

――弥陀六のこしらえについても教えてください。これは役者さんによってバリエーションがあるのでしょうか。

歌六 僕は袴は縦縞のものにしています。皆さん基本は横縞のものですが、初代播磨屋のおじさん(初世中村吉右衛門)の弥陀六の写真を拝見したらそうなっていたので、衣裳さんに写真を見せて、こういう袴にしてくださいと。

平成24年3月南座「三月花形歌舞伎」公演より (c)松竹

――縦縞と横縞とでは弥陀六の印象が変わる部分も?

歌六 どうでしょう? 全く何も考えていません(笑)。初代吉右衛門の写真の通りにやるというのが僕の弥陀六の理想なんです。だからおじさんがなさったやり方と衣裳でやる。もうそれだけ(笑)。写真を見てもうひとつ思ったのは、鎧櫃をかついだ時の姿がかなり猫背でしたね。

反戦劇の中で、弥陀六の揺れ動く心情をみせられれば

――11回目となる弥陀六ですが、これまで勤めて来られて、ご自身で「ここは変わってきたな」という部分はありますか。

歌六 やりやすくなってきたことがあるとすれば息の使い方かな。どこを張ってどこを落としたらエロキューションが面白くなるか、楽に出せるか。若い時はカーッと力任せにやろうとしていました。逆に最近はその力そのものがありませんから自然にできるのかな(笑)。

義太夫狂言の爺役って力が要るんですよ。年取ってからいきなり初役だときついかもしれない。弥陀六も今回が初役だったら辛いだろうな。『逆櫓』の権四郎、『野崎村』の久作、もちろん合邦もですし、まだやったことはないんですが『賀の祝』の白太夫も。息を詰めるのってある程度体力が要りますからね。義太夫狂言は婆も大変です。竹本の太夫さんには若いかたもおられるし、皆さん若いころから演っているわけですが、僕らの場合は50代ごろに初役で勤めて、60、70代になってようやく役と自分の心身のバランスがよくなったりするんです。

――改めてこの『熊谷陣屋』という狂言の魅力はどんなところでしょう。

歌六 やはり反戦劇なんですよね。子供を犠牲にしてでも戦うことの悲劇。そしてカッコよく生きていく熊谷ではなくて、しぼんだ坊主になることを選ぶその心の哀れさ。弥陀六からすれば平家を潰してしまった自責の念と敦盛を助けてもらった恩、そのない交ぜの気持ちですよね。源氏を敵と思っていいのか恩人なのか。そんなふうに気持ちが行ったり来たりするのが見えてくるといいのかなと思います。

――それにしても、何度拝見しても相模が気の毒過ぎて苦しくなります。

歌六 ほんとに昔の男どもは勝手ですよね。うちのかみさんもいつも、「私だったら子供は殺させない! おかしいでしょ、あれは」って観るたびに怒ってるよ(笑)。

取材・文:五十川晶子 撮影(舞台写真除く):源賀津己

プロフィール

中村歌六(なかむら・かろく)
1950年10月14日生まれ。四代目中村歌六の長男。弟は中村又五郎、いとこに中村時蔵、中村錦之助、中村獅童がいる。55年9月歌舞伎座『夏祭浪花鑑』の倅(せがれ)市松ほかで四代目中村米吉を名のり初舞台。73年名題昇進。81年6月歌舞伎座『一條大蔵譚』の大蔵卿で五代目中村歌六を襲名。2015年「伊賀越道中双六」(国立劇場)で第22回読売演劇大賞優秀男優賞、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。16年日本芸術院賞受賞。18年紫綬褒章受章。23年、重要無形文化財「歌舞伎脇役」各個保持者(人間国宝)に認定。

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