山中貞雄

1927年、学校の先輩マキノ雅広の紹介で映画界入り。各社を転々とした後、嵐寛寿郎プロで監督デビューし、秀作を続々発表したが、1938年、戦死。いずれも映画技法に新鮮さを持つ作品と言われるが、現在フィルム消失。天才・山中の素晴らしさは、わずかに現存する作品で知るしかない。