1956年、岩波映画に入り、1年後にフリー。羽仁進作品の編集などを経て、国鉄のPR映画で監督デビュー。1965年のTV『水俣の子は生きている』に始まり、水俣病をテーマとするドキュメンタリーを作り続け、その名は国際的に知れ渡った。