丸根賛太郎

1935年、日活京都撮影所入社。1939年、自らのオリジナル脚本を映画化して監督デビュー。歯切れの良いテンポのユーモア時代劇で一躍注目された。「狐の呉れた赤ん坊」(1945)などの秀作を作るが、1959年の「高丸菊丸・疾風篇」を最後に映画を離れた。