山口藍展「あのね」
25/5/14(水)~25/6/14(土)
ミヅマアートギャラリー

《知る波の浜》(部分) 2025 檜板、和紙、アクリル絵具、貝殻(しじみ)、陶板 165×27×5cm 撮影:宮島径 © ai yamaguchi・ninyu works Courtesy of Mizuma Art Gallery
山口藍は、女の子の存在に自身の美意識を託し、その姿に揺れ動く感情や時間の気配を重ねながら、見る者の記憶の奥に触れるような作品世界を描き続けてきた。本展では、彼女たちの凛とした佇まいが「木」に見立てられ、まるで地に根を張るように、静かに、確かな存在として立ち現れる。制作の背景には、一本のプラタナスの木の記憶がある。かつて近所の校庭に立っていたその木は、消火栓ボックスを飲み込んで大きく成長していた。改築に伴って伐採されることになり、消火栓が取り除かれると、その幹には四角くぽっかりと口をあけた大きな穴が残されていた──自然がかたちづくった人工物のようにも見えるその風景は、「ある」と「ない」のあわい、自然と人工の境界の曖昧さ、そして移ろいの在りようとして、山口の記憶に強く刻まれた。
この出来事を起点に、山口は「+」と「−」をつなぐ一本の線、「|」の存在に着目します。−に|を加えれば+となり、|を除けば再び−に戻る。わずかな違いが、すべての意味を反転させることがあるように、「|」は実在と不在を行き来し、相反するものをつなぐ小さな媒介のような存在である。陰と陽、光と影── 一方があることで初めてもう一方が立ち上がる。ささやかで日常的な気づきではあるものの、山口にとっては制作の核となる、大切な感覚だという。
プラタナスの木と消火栓の関係に見た、「ある」から「ない」へ、そして「ない」から「ある」へ。本展では、その軌跡のようなものを、自身の新たな美意識のかたちとして、女の子たちの佇まいに重ねた。着物の裾は根のように地を這い、空間に静かに呼応するように、その場にとどまる。障害物を避けるでもなく、包
み込むようにして根を広げていったあのプラタナスの木のように。抗わず、拒まず、ただ在る。そのしなやかで揺るぎない存在には、人の手の及ばないものへの畏れと、そこに身を委ねる感覚が静かに息づいている。
本展を彩るのは、日々の暮らしのなかでふいに芽吹いた思考や感覚、小さな気づきの積み重ねから生まれた新作たち。言葉になる前の、まだ輪郭を持たない感触を、山口はひとつひとつすくい取り、絵のなかに丁寧に重ねている。作品の前に立ち、一本一本丹念に描かれた髪の流れや、沈黙をたたえた眼差し、指の先に続く景色を辿っていくとき、「あのね」と、作品がそっと語りかけてくるような、静かな対話の時間が訪れることだろう。