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『花束みたいな恋をした』は“最後の砦”? “コミュニケーション”を軸に考える近年の恋愛映画

リアルサウンド

21/2/14(日) 10:00

 また、私たちを苦しめる恋愛映画が爆誕してしまった。他でもない、『花束みたいな恋をした』だ。あの二人がダメなら、もうダメじゃん。そんなふうに匙を投げて帰り道、歩道のタイルの模様ばかり見て映画館を後にした人は何人いるだろうか。

 映画全体に蔓延るカルチャーリファレンスの数々に、この作品が“サブカル恋愛映画”と名付けられてしまっても無理もないと感じる。近年、若者から支持の厚い恋愛映画はこういった雰囲気を孕んだものが多い。そして描写の生々しさと、拗らせた主人公という共通点。『勝手にふるえてろ』や、『寝ても覚めても』、『愛がなんだ』、『劇場』、『生きてるだけで、愛。』。一癖も二癖もある、印象的な恋愛映画を振り返りながら、同じ若年層にヒットしている『花束みたいな恋をした』がその系譜の中で、“最後の砦”のような存在だったことを改めて痛感した。

昨今の恋愛映画で描かれるコミュニケーションの種類と重要性

 上で挙げた作品は、大きく2つに分けられる。付き合う前の関係性を描いたものか、付き合った後の関係性を描いたものかだ。『勝手にふるえてろ』は、恋愛経験のない主人公のヨシカ(松岡茉優)が妄想に妄想を重ねながらも一宮(イチ/北村匠海)に想いを募らせ、一方で霧島(ニ/渡辺大知)に好意を持たれる片想い映画であり、『愛がなんだ』は主人公のテルコ(岸井ゆきの)がマモル(成田凌)のことを一方的に好きになり、都合のいい相手になってしまうというのが物語の発端だ。

 この2作品は、付き合うまで(付き合えなかった)過程にフォーカスされている。一方で、付き合ってからの関係性に一定期間があるのが、『寝ても覚めても』『生きてるだけで、愛。』『劇場』、そして『花束みたいな恋をした』である。

 『寝ても覚めても』は、主人公の朝子(唐田えりか)が麦(東出昌大)という男と恋仲になるも彼が失踪、2年後に彼と瓜二つの男・亮平(東出昌大)と出会い、彼に告白され付き合うが、突如現れた麦と一緒に逃げ出す。しかし、最後はふと我に帰り、亮平の元へと帰っていく。亮平はそんな彼女を一生信じないと許さないが、どことなく二人の関係性が続いていくような気配で物語は終わった。

 『劇場』は、劇作家志望の主人公の永田(山崎賢人)が専門学生の沙希(松岡茉優)と出会う。彼女のアパートで同棲を始めるも、永田はヒモ状態になり、彼の負の情緒が、付き合うことになった当初は笑顔が明るかった沙希にも影響を与えるようになる。負い目を感じ沙希を避けるようにした結果二人の心はすれ違い、気がついた時には永田は沙希を失う術しか持ち合わせていなかった。

 『生きてるだけで、愛。』では、躁鬱で過眠症の主人公・寧子(趣里)と、3年間付き合って同棲していた津奈木(菅田将暉)の別れまでが描かれる。

 恋人になる前と、なってからの関係性の違い。ここに焦点を置きながら上で例にあげた作品をなぞりつつ、いかに『花束みたいな恋をした』という作品が“最後の砦”なのか書きたいと思う。そして、詰まるところ恋愛にとって大切なものはコミュニケーションしかないのだなと、強く感じた。

 正直、片想いは簡単だ。一方的な感情を持ち合わせていればいいだけで、それを放棄することだって自分自身で自由に選べる。「片想い=切ない」なんて、とんでもない。片想いほど楽なコミュニケーションはない。『勝手にふるえてろ』のヨシコのように、自分の見ていたい世界を見ることができるし、当の本人にそれをぶつけない限りその世界の均衡は保たれる。もちろん、彼と本当の関係性を求めるならそこから一歩も二歩も踏み出さなければいけないが。『愛がなんだ』のテルコはそれで言うと、かなり踏み出していた。彼に気に入られるためなら、なんでもした。一緒に朝を起きて、横で歯を磨いても恋人ではない。簡単に言えば、愛を搾取され続ける日々である。テルコの恋心と執念にも近いような努力は結果、関係性をやめたいというマモルの申し出で散ってしまう。それでも、テルコは恐らく本記事で挙げた恋愛映画の中で一番の幸せ者である。なぜなら、その後も相変わらずマモルの近くにいようと、彼への確固たる愛を持ちつづけることができたから。確信的な「恋人ではないよね」というコミュニケーションを避け続け、その結果落ち着いた最強の一方通行のコミュニケーション。

 片思いの関係や、付き合う前の二人の関係以上に、付き合った後のカップルにとって、このコミュニケーションの重要性は飛躍的に上がる。むしろ、それが全てと言っても過言ではない。そして別れてしまったカップルはその大半がコミュニケーション不足によるものだと思うのだ。

 『劇場』がその良い例だ。付き合ってすぐの頃は、誰もが大抵は楽しいから盛んにコミュニケーションを取る。一緒にテレビを見て笑ったり、出かけて物事に対する考えを交換したり。しかし、永田は自分に対する劣等感を沙希に向けてしまい、無意識に彼女を押さえ込もうとしてしまった。沙希は彼の弱さを全て理解した上で受け入れていたのにも関わらず、そう伝えることさえも永田の自尊心を傷つけるとわかっていたから、何も気づかずにいるフリをしていた。会話もなくなり、お互いに何を考えているのかわからない状態で暮らしを共にすることになる。対話がないと、それは誤解を生み、必要以上に疑心暗鬼になったり悩んだりして結果心を消耗しやすい。永田だって、気がつけば沙希が何を考えているのか理解できなくなり、怖くなった。明らかなコミュニケーション不足だったこの二人が、もし素直に腹の内を割って話していたら、別れることもなかったと思うのだ。なぜなら、お互いをしっかり受け入れあっていたから。愛があったから。沙希は最終的に、その愛がすり減りすぎて空っぽになってしまったのだが。

 コミュニケーション不足は、『生きてるだけで、愛。』でも問題となっていた。気性の激しい寧子と津奈木がなぜ共に暮らすことができたのか。それはまともに取り合っていなかったからだ。もちろん、時と場合と相手によっては自分もどれだけ関わるべきか関わらないべきか、その境界線が重要になってくる。お互いの精神を守るためにも適度な距離感は必要なことだが、津奈木は寧子のSOSにも答えなくなっていく。面倒くさいから。疲れるから。とはいえ、寧子も日々、津奈木からのコミュニケーションを拒絶していたので当然の流れだと思う。お互いの、お互いに対する関係性への“諦め”が浮き彫りになっている。

 もちろん、別れた方がお互いにいいことだってある。昨今、相手に直してほしいことがあったら会話、コミュニケーションをとって、恋人同士で改善し合うということが難しくなってしまったように思える。「そんな僕を受け入れられないなら、君とは一緒にいれない」、そりゃあそうだけど、そうして耳を塞いでばかりでそれに慣れてしまうと、人はどうなってしまうのだろう。コミュニケーションを取ることを諦めてしまのではないだろうか。それは、関係を持つこと自体を諦めるということだ。

  その点でよく頑張ったのが、『寝ても覚めても』だ。朝子があれだけ亮平の気持ちを踏み躙ったにも関わらず、亮平は最後に彼女を完全に拒絶しない。一方、朝子も簡単に諦めずにしがみつく。彼女がどれだけ麦のことを考えていようが、亮平と恋人として過ごした5年間は間違いなく真実で、それを亮平も理解していたからだと思う。お互い好きな気持ちが残っている中、傷つき、感情的になった状態でその関係性を切り離せば絶対あとで後悔する。だから、亮平は朝子を罵り、朝子は亮平に素直な思いの丈を叫んだ。泥試合のようなラストシーン。今後の関係性を保つには、弛まぬコミュニケーションの努力が必要なカップルだけど、なんとか頑張ってくれと思う。亮平は偉い。今後、何かある度に朝子のあの時の行動を引き合いに出し始めたら終わりだけど。

『花束みたいな恋をした』の絶望感

 お待たせしました、そしてようやく『花束みたいな恋をした』なのだが、もうお分かりいただけるように本作のカップルはこれまでこの記事に登場した者より、何倍も素直で普通だ。そしてめちゃくちゃ仲がいい。ちゃんと一方通行ではない、まともな恋愛をしている。対話も問題ない。なぜなら、それは映画や漫画、本、音楽、それらのカルチャー的な共通言語を無限に共有していたからだ。話題は尽きないし、お互いが別に変なマウントを取り合うわけでもない。同棲しても、仲良くやれていた。どれだけ同じ空間で過ごしても、お互いにうんざりすることもなかった。サブカル界隈が夢見る、魔法のような恋人の日々。もちろん、彼らも時には喧嘩をする。しかし、お互いがちゃんと言いたいことを言い合っていて、良い喧嘩の仕方だったように思えるのだ。

 それでも、二人が社会人になるとコミュニケーションが減っていってしまった。麦(菅田将暉)は自ら絹(有村架純)との間にあった共通言語(例えば『ゴールデンカムイ』)を捨てる。これがとても悲しい。そして最も悲しい事実とは、そうやって人が変わっていくことを誰も止めることもできなければ、その権利もないことだ。人は、変わる。諸行無常。あれだけ理想的なカップルでも、やはりそうなのだという事実が胸に突き刺さる。

 最後の砦、それは「至極真っ当なお付き合いの仕方で、これだけ問題のない仲睦まじい相手と過ごせたのなら別れる心配はない」と誰もが信じていた二人の関係性。それが木っ端微塵に砕け散ったことで、『花束みたいな恋をした』の絶望が色濃くなる。

 なぜあの二人が別れる必要があったのだろう、と考える。麦がファミレスでどうにかして関係性を維持しようと、必死に彼女を説得しようとするシーンは胸が痛くなるのだが、絹が言った通り、それは一時的な感情であって、また日常に戻ればそこには少し前にお互いが諦めたコミュニケーションの残骸が転がっているだけ。根本的には何も解決していないから、また遅かれ早かれ二人の間に「別れ」という考えが浮かぶ。そして何より、彼らは「現状維持」の意味がお互いに違っていたように思える。麦が絹に「自分の夢は、絹ちゃんとこうして現状維持すること」と言っていた。絹も愛おしそうにそれに応える。しかし、麦にとっての現状維持とは、どんな形になっても絹と一緒に暮らし続けることであり、絹にとっての現状維持とは“そう言ってくれた時と変わらない中身の彼”と暮らし続けることだったのだ。先にも言った通り人が変わることは自然なことで、誰もそれを責めることはできない。だからこそ、そのどうしようもない事実に絹も麦も咽び泣いた。

 だからこその、コミュニケーション。変わりゆく相手と、常に対話をし続けることで理解し合うこと。アップデートしていくことが長く関係性を保つ上で、とても重要なのだと思う。しかし、現代の若者はそこまで“労力”を使う選択肢を選ぶだろうか。ここまで紹介した作品でも「別れ」という結果が描かれやすく、そういった恋愛のヒット作が多いのも何か関係があるのかもしれない。

 「次いこ、次」と言いやすくなった時代性も考えられる。少し前なら、気の合う男女が出会うことは容易くなかった。それがデートを重ね、お互いのことを知って、好きになったりならなかったり。携帯のなかった時代は、時計台の下で待ち合わせをしていたのだぞ。遅刻しても相手に伝える手段なんてない。そういった決して簡単ではない状況下でようやく出会えた男女が、そう簡単にその関係性を諦めることなんてないのだ。しかし、今はLINEでいつだってデートをドタキャンできるし、「なんか違うかも」と思ったらよく確かめもせずにマッチングアプリで明日のデート相手を見つけることができてしまう。対話というコミュニケーションは、ひどく労力を使う。時には喧嘩という形でお互いを罵り合い、直してほしいところを指摘する方もされる方も消耗するものだ。そんな疲れること、しなくたって代わりを見つければいい。そうして逃げて、次の恋でまた同じ問題にぶつかっている人も少なくはないだろう。これは諦めることに慣れてしまったことへの対価だ。

 そう、私たちは諦め慣れてしまった。上の世代の人たちは、もっと戦うのだと思う。どれだけ考え方が違っても、価値観が違っても、生活スタイルが違っても、「愛するこの人と一緒にいる」ために、お互いが歩み寄ってきたはずだ。しかし、私たちは結婚をしたって離婚への抵抗も減り、付き合っているのかいないのか曖昧な関係が増えたり、恋人との間に「別れ」という選択肢を選びやすくなってしまった。

 別に、恋愛が全てではないから、やめたっていい。全てではないが、恋愛に限らず誰かと対話を続けることは自分以外の人間、他者を理解することではないだろうか。それを諦めてしまうことは、社会を諦めることと同じだ。だからこそ、恋愛という形のコミュニケーションはありとあらゆる対人関係の練習にもなるし、誰かに愛し愛されることで自己形成にも繋がっていく。

 この記事で取り上げてきた恋愛映画が映した苦味は、全て真実だ。『花束みたいな恋をした』は特に、ふたりの過ごした時間のディテールが描かれているだけに、鬱度が高い。正直、あの映画を観終わって「よし、恋をしよう!」と恋愛に対して前向きな気持ちにはならなかった。本音を言えば、もうどうしたってダメだろくらいに思っている。

 それでも、私たちは恋をするだろう。恋に落ちてしまうだろう。誰かを気になり始めて、好き好かれ、関係性をまた始め出す。それをどう維持していくのか、そればかりは何度も対話を重ねていく他なく、始める前から諦めたくもない。トライアンドエラーを繰り返して、学んでいくのだ、また誰かをしっかり愛せるために。

■アナイス(ANAIS)
映画ライター。幼少期はQueenを聞きながら化石掘りをして過ごした、恐竜とポップカルチャーをこよなく愛するナードなミックス。レビューやコラム、インタビュー記事を執筆する。ハッピーバレンタインズデー!InstagramTwitter

■公開情報
『花束みたいな恋をした』
全国公開中
出演:菅田将暉、有村架純、清原果耶、細田佳央太、韓英恵、中崎敏、小久保寿人、瀧内公美、森優作、古川琴音、篠原悠伸、八木アリサ、押井守、Awesome City Club、PORIN、佐藤寛太、岡部たかし、オダギリジョー、戸田恵子、岩松了、小林薫
脚本:坂元裕二
監督:土井裕泰
製作プロダクション:フィルムメイカーズ、リトルモア
配給:東京テアトル、リトルモア
製作:『花束みたいな恋をした』製作委員会
(c)2021『花束みたいな恋をした』製作委員会
公式サイト:hana-koi.jp

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