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黒沢清、10人の映画監督を語る

テオ・アンゲロプロス

全11回

第3回

18/8/8(水)

アンゲロプロスの影響は今日まで続いている

 自分が映画を撮ることに直結した影響を、テオ・アンゲロプロスからは露骨に受けました。僕が大学4年生の時に、長谷川和彦監督作『太陽を盗んだ男』の撮影現場で制作進行をやっていたんですが、それがようやく終わると大学5年生になっていました。だから数ヶ月間、映画を観られる状況じゃなかったんです。やっと終わって時間ができて、次は自分の8ミリ映画を撮りたいと思っているまさにその時、アンゲロプロスの『旅芸人の記録』を観たんです。これだって思いましたね。こう撮りたい、こんなカットを撮ってみたいと思って自分で撮ったのが『しがらみ学園』いう8ミリ映画なんですけど。全然アンゲロプロスとは違うんですが、めちゃくちゃ長回しをやって、単純にそういうことがやりたくなったんです。

 アンゲロプロスの影響は今日まで続いていると思います。全編をアンゲロプロス風にやろうとはなかなか思わないんですが、脚本の時点でも、「これ、アンゲロプロス風に語ったらどうなんだろう?」と。第2回で触れたフェリーニとも共通するんですが、つまり山場だけが串団子状に次々とつながっている物語。なかなかそういう脚本を書くのは、言うは易しでも難しく、特に他人にもわかってもらおうと考えると、ついつい起承転結の物語になってしまいがちです。まあ娯楽映画はそれでいいと今では割り切っていますが。

 アンゲロプロス本人とは2回会ったことがあるんですが、初めて会った時は緊張しました。人がただ歩いてどこかに到達するだけで、目を見張るドラマと言っていいのかどうか分かりませんが、映画的な興奮がそこに作られるのがアンゲロプロスの得意とするところなので、そのことを本人に伝えました。自分ではそう意識したことはないが言われるとそうなのかなという風に言ってましたけど。

 映画の中で歩くシーンがいいというのは憧れます。ただ、これが本当に難しい。どうしたら歩くシーンが胸を打つようになるのか。これまで何度もトライしていますが、A地点からB地点に移動するだけなので、物語上はさして重要じゃなかったりするんです。だから、やってみても半分以上は編集でカットしています。たぶん歩く場所も大きいと思います。ある場所があって、そこを彼なり彼女なりが歩いている。歩くことによってその場所とその人物の関係性がそこはかとなく匂ってくると、あっと目を見張ることになるのかなと思うんですけど。アンゲロプロスの場合は、たぶんギリシャの街並みが異様というか曖昧なんですよ。徹底して街が持っている風俗とか日常とか余計な情報のようなものを排除しているんでしょうね。いつの時代とも誰が住んでいるともわからない街を延々と人が歩いている。これが独特な何かを生み出しているのであろうと思うんですが、そんな街を作り出すのって実はかなり大変なことなので、日本のその辺の街で適当にやってもなかなかそうはいかないんです。ウズベキスタンで撮った今度の僕の映画(『旅のおわり、世界のはじまり』)はアンゲロプロスまではいきませんが、ちょっといい歩くシーンが撮れているはずです。今回はきっちり編集で使っています。

 今はもうあまり深刻に考えなくなりましたが、『旅芸人の記録』を観た直後や、商業映画を撮り始めたころは、1カットをどれくらい回せばいいんだろうというのは悩むところでした。すごく長く回したいっていう欲望にとらわれるわけです。近年はデジタルのカメラが普及して、全編1カットですとかいう映画はいくらでもあります。そこまででなくても、1シーンは必ず1カットでという発想もあります。ところが作る側の都合上1シーンって呼んでいますが、脚本上はくっきりと区別されている1シーンと1カットの違いって、完成した作品だとほとんど意味を持ちません。観ている方からすれば、どこで割るとか関係なくシーンもカットも編集で直結されるわけです。10年後であれ3秒後であれ、ぜんぜん違う場所であれ、編集で繋ぐと一瞬にして次に繋がるんですね。だから1シーンを1カットで撮ることに、何のいいことがあるんだろうというのは考え出すとわからない。全編1カットというと、よくそんな物語をひねり出したなとは思いますけど、観てる人にとっては、だからどうしたっていう感じですよね。

 ある時から僕は1シーン1カットとか長回しとか関係なく、トータル3秒でも3分でも、ここからここまではひとつながりの時間として見せたいという欲望が監督の個性なんだなと思うようになりました。まあ、普通は切って編集でつなげるところを、あえて切らずに進めると、観客は案外驚くというのもあるんですけど。いずれにせよ、アンゲロプロスを意識的に見始めてからは、よりはっきりと今撮ろうとしているカットは、どこまで撮って繋げるかを決めるのが撮影現場の監督の大きな仕事であり、一種の作家性でもあるなと思っています。

相米慎二とアンゲロプロスの長回しの違い

 そういう意味で、僕は相米(慎二)さんの『セーラー服と機関銃』に助監督で付きましたので、超長回しの極意と問題点を両方まのあたりにしました。相米慎二には神代辰巳とか長回しの先輩は他にもいるんですが、露骨にアンゲロプロスの影響を受けています。それで3シーンを1カットで撮るとかいきなり言い出す。それはすごいんですけど、相米さんは説明の仕方が独特で、スタッフはみんな「ええっ!」となりますし、僕も「それアンゲロプロスじゃん。いや、アンゲロプロスどころじゃないかも」と最初はワクワクするわけです。それで準備を始めるわけですが、そういうスペクタクルな長回しの場合は、俳優はもちろん、あらゆるスタッフの総合力が試される。全員参加して、冷静で綿密な計画の元にやらないと出来ません。ところが相米さんの魅力的だけれども暗示にとどまる指示に、最終的にスタッフも俳優も混乱してしまうのです。

 忘れもしませんが、薬師丸ひろ子さんたちが夜の新宿の公園で何かやっていて、しばらく歩くと暴走族が来て、バイクの後ろに薬師丸さんが乗っかってそのまま新宿通りを走って、大ガードの下を抜けて行くっていうのを1カットでやった時のことです。ものすごいなと興奮していました。僕の役目は途中で新宿通りの車を止めることで、例え信号が青でも、来ようとしている車を止めなきゃいけないという係だったんですけど、バイクがどう来るのかが全く分からないんですよね。すったもんだしているうちにバイクの一団が来たんですけど、バイクの速度が異常に遅くて、これでいいのかなと思いました。あとでラッシュを見ると、それはそれで凄まじいカットだったのですが、アンゲロプロスには程遠いものでした。最初の芝居は計画的かつ客観的に撮られていてすごく良いんですが、バイクに乗ってからは、先導するカメラの主観性と一般道路を走行する混乱のようなものが露骨に漂ってきて、この二種類のカットをひとつにつなげる意味って何なのかしら、と戸惑ったのを覚えています。しかも、薬師丸さんが乗ってるバイクはスピードが出せないからノロノロ走る光景を延々と撮ってる。想像していた大暴走シーンとはだいぶ違うものになりました。せっかく青信号でも車が行けないように止めてたんですけどね。この時に、こういうおそるべき長回しは、よほど段取りよくすべてのスタッフに連絡が行った上で計画を着々とやる、それが演出なんだっていうことを学びました。アンゲロプロスのようなことをやりたければ綿密な計画を監督が率先して立てないと結構チグハグな仕上がりになるなっていうのがわかりました。

 その点、アンゲロプロスは段取りを細かく指示してそうなタイプでした。関係者からなんとなく聞いた話によると、アンゲロプロスの脚本って、ペラペラらしいですね。どのように進行するかだけが書かれている。だから脚本としては一種の設計図みたいなもので、読み物ではないらしいですね。僕は設計図を書いたりするのが昔から大好きだったんですよ。セリフを書くのとか本当に面倒くさくて、やってて辛いんですけど。細かい段取りとかパズルを埋めていくとか、そういうのが結構好きで。アンゲロプロスとそこは似ているのかなという気はしました。もちろん、そんなことは怖いから本人に言いませんでしたが。

(取材・構成:モルモット吉田/写真撮影:池村隆司)

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