Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play

GEZAN マヒトが語る、本に見出した可能性 「文明に対する反抗のスタンスでもある」

リアルサウンド

20/12/31(木) 11:00

 オルタナティブロックバンドGEZANのフロントマンとして、完全フリーフェス「全感覚祭」の主催、自主レーベル「十三月」を運営、映画出演など、ボーダレスな活動で注目を集めるマヒトゥ・ザ・ピーポー。2019年には初小説『銀河で一番静かな革命』(幻冬舎)を発表し、今年11月には初エッセイ集『ひかりぼっち』(イースト・プレス)を刊行。2018年から2年にわたり綴った文章を1冊にまとめたという本作には、白か黒かで語ることができない曖昧さを肯定する優しさと、「幸せになりたい」というシンプルな願いが込められている。

 リアルサウンドブックでは、マヒトの文筆家としての一面をクロースアップ。圧倒的な観察眼で紡がれる言葉、文章を書くことに見出した可能性、好きな作家についてなど、大いに語ってもらった(編集部)【インタビューの最後にサイン本&チェキプレゼント企画の詳細を掲載】

文章に宿る温度感

ーー今回のエッセイ集『ひかりぼっち』もそうですが、マヒトさんの文章には「温度」を感じます。小説『銀河で一番静かな革命』の文章には一冊を通して「冷ややかさ」や「湿り気」を感じるんですけど、『ひかりぼっち』からは「温もり」を感じました。そういった「文字に宿る温度感」みたいなものは意図して書いていますか?

マヒトゥ・ザ・ピーポー(以下、マヒト):そこまで意識してはなかったですが、どうなんだろう、根がいい奴なんじゃないですかね(笑)。いい奴ではないかもしれないけど、悪い奴ではないかなっていう気がします。

 ちょっと話がズレるけど、生き物に対してリスペクトがあるんです。例えばコロナの時期、ZOOMでミーティングすることが一般的になって、この先AIがもっと発展していくならば、人と人とのコミュニケーションがどんどん変化していくんだろうなと。そういう技術が加速すればするほど、生き物が持つ「温度感」や「手触り」の代えがたい価値が自ずと高まっていくと思っています。

 縄文時代や弥生時代、食べ物がたくさん採れたらみんなでシェアすることは当たり前だったと思うんですね。そういった意味でGEZANで主催している投げ銭フェス「全感覚祭」も真新しい祭りというよりは、プリミティブな祭りだと思っています。貨幣経済が誕生してからの時間よりも、その何十倍も何百倍もプリミティブな「人間の生活」があるわけで、それと同じような意味で「温度感」というものの、非代替性をこれから痛感していくんだろうなと思う。そのことは自分の中で大切にしていきたい部分なので、それが文字の上にも乗っているんだろうなと思います。

ーーフリー入場、フリーフードなど、「全感覚祭」がプリミティブな祭りに回帰しているという印象はあります。

マヒト:コロナの時期にライブハウスで活動できなかったり、「全感覚祭」が開催できなかったり、宴や祭りが消えてしまうんではないか、この先どうなってしまうんだろうという思いがあったんですが、偶然、人が焚き火を囲み音楽を鳴らして祭りをしている場面を描いた古い壁画を見たとき、ここ最近何かのブームで音楽を真ん中においたパーティーが始まったわけではなく、人類はDNAレベルで宴や祭りを求め続けてきたんだと感じて、宴や祭りの形自体はそう簡単には変わらないんだと思いました。逆に言うと、人と人が出会い、音を中心に据えて、時間を共有することの信頼を感じられたから、別に1年休んでも大丈夫だって思えた。いろんな制限をかけて意地でライブすることもできたと思うんですけど、そんな簡単に音楽とか祭りは消えないんだなと思えたのは、自分にとっていい気づきでした。

ーータイトルの『ひかりぼっち』にもあるように今回「光」をテーマにエッセイを書いた理由を教えてください。

マヒト:眩しいだけじゃない曖昧な光や、白と黒のグラデーション、その曖昧さを曖昧なまま扱うこと、曖昧なものに輪郭を与えることを大事にしているんです。たとえば、本に出てくるフジロックの日は大切な日だったけど、それ以外の364日、363日もずっと時間が続いている。365日のほとんどの日がそういう曖昧な日でできているんだけど、そういう曖昧なものもちゃんと「光」と呼べる自分でありたいなというのが、この本を書いているときの心境でした。

 小説家の町田康さんが『銀河で一番静かな革命』を読んで「マヒト君は『視力』が良い」と言ってくれたんですけど、自分自身いろいろなものを目で見て、画として認識しているんです。「聴覚」が先行している人もいるし、五感の何を1番手がかりにしているかは人それぞれだと思うんですけど、俺は自分の深層心理や、相手の気持ちとかを「色」で感じることが多いので、「光」は自分の中のベースの話だなと思っています。

ーー「視覚」が自分の中の強みとしてある?

マヒト:強みというよりは「光」がベースにある感覚。普段から「光」のことはすごく気にしていて、物理的な部屋の明るさや、太陽の光の強さということだけではなくて、こうやって会話している時にもそれは感じる。ムードとしての明るさとか暗さは、光の明暗ではないけれど、明るい暗いっていう言葉が置かれている理由は、そこに心理的な影だったり、気持ちがあったりするから。だからそれも「光」の話で、それが自分のベースになっているんだろうなと思っています。

絶対的に幸せな人も絶対的に不幸な人もいない

ーー本作は「幸せ」への言及が多く、「幸せとは?」という問いが根底にある作品だなと思いました。マヒトさんにとっての「幸せ」を教えてください。

マヒト:「幸せ」が何なのかは分からないけど、幸せになりたいですよね(笑)。もう、生きているだけで褒めて欲しい。毎日、膝や肩を誰かに撫でてほしいし、こんな世の中で真っ当に生き残っているだけでも、すごいことで、表彰もんだなと思うんです。

ーー今の時代、「何かを達成しなくてはいけない」という焦燥感をみんな抱えていて、だけどそれをみんなができるわけじゃない。そういった価値観やジレンマがある気がします。

マヒト:いわゆる個性だったり、その人しか持っていないセンスとか、才能という言葉に集約されがちで、別に特別な何かを持っていなくてもいいはずなのに、それがないと幸せになれないという強迫観念があると思うんです。InstagramとかSNSの更新って、人に自分の生活を見せて「いいね」を貰っているようで、本当は「自分が今日一日ちゃんと生きて幸せだったんだ」と納得させるための鏡なんだと思っています。「私は今日もちゃんと生きることができた」という証明。別に誰かにしてもらわなくても、自分で存在を証明することはできるはずなんだけど、自らの幸せを他人に証明してもらおうとSNS上で世界を作り込む。それってすごく異常なことだと思っていて、自分で自分の幸せを肯定できない構造が、社会のベースにある。常に何かに焦ってたり、ちょっとだけ不安だったり、このコロナの時期で混乱していたり。これは自分自身に向けて言っている節もあるけれど、「幸せになってもいいんだ」ということを何が邪魔しているんだろうといつも考えている。誰かと比べることでしか、この当たり前の言葉を言えない、そのいびつさはなんだろうといつも考えていますね。歌っていても文章を書いていても。

 もちろんダイヤモンドに価値があるのはわかるけど、グリコのおまけについてくるガラスの指輪だって、自分がそれを綺麗だと感じたらそれでいいわけで。結局、誰にどう言われようが、自分自身で納得するしかないという結論があって、例えば人が死ぬとき、その人が幸せだったか幸せじゃなかったかということを多数決で「幸せだったと思う人手挙げてー! はいじゃあ、幸せじゃなかったと思う人が多いんで、彼は幸せじゃなかったです」ってどうでもいいわけですよね。

 最後息を引き取るとき、どんな人生だったかを振り返ると、良いことも悪いこともあったなって曖昧な結論になると思うんですけど、やっぱり自分自身でその最後のジャッジをする。「いろいろあったけどいい人生だった」。もしくは「いろいろあったけどダメな人生だった」と。紙一重だけど最後の瞬間どちらの言葉を選べるかで、だいぶ違った人生になると思います。自分が優しいなって思えるのは、嘘かもしれないし、強がりかもしれないけど、そういう瀬戸際みたいなとき、今この時代もキツいこともいっぱいで、いい時代だとは思ってないけど、俺はこの時代を「いい時代」と呼ぶ側に立っていたい。だって今日もちゃんと生活しているし。そのことは常に思っていますね。

 だからあえて幸せを定義するとしたら「幸せだって言い切ること」。絶対的に幸せな人も絶対的に不幸な人もいなくて、自分自身をどういう言葉で定義したいかという一つの輪郭の話。自分はパンクスです、自分は物書きです、ライターですとか、自分の肩書について語ることと「幸せ」を定義することは同じレベルの話だと思うんです。本質は、この生活、この時間をなんと呼びたいかということ。自分はパンクスですと名乗るみたいに、これが幸せですって呼んであげてもいい。

解像度には「自覚」と「責任」が必要

ーーマヒトさんは圧倒的に観察者なんだという印象をもちました。『ひかりぼっち』に登場するトシちゃんが、「マヒトさんは世界を立体で見ている」と話したエピソードがあって、まさにその通りだなと思ったんですよね。でも世界を見る解像度が良すぎると疲れてしまうと思うんです。見なくていいものまで見えてしまうし、いろいろなものが自分の中に入ってきてしまう。その辺りの上手な付き合い方はありますか?

マヒト:付き合い方は自分は圧倒的に下手だと思います。普通に落ち込むし、めちゃくちゃ人に頼るし。アドバイスできるほどテクニックはないんですけど、解像度が高い人がいろんなものを拾ってしまうというのは間違いなくある。富士山とかも「わあ! 綺麗な山だ! 大きいなあ」という解像度の人と、麓にあるゴミまで見えてしまって綺麗と言い切れない人もいる。樹海で自殺した人の靴が転がっているのまで見えてしまったら、綺麗という言葉ではもう呼べないだろうし。山をひとつの塊で見る人、森の連続で見る人、木の連続で見る人、葉っぱの連続で見る人というのは、同じ景色を見ていても捉え方は全く違うはずで、高すぎる解像度を持つ人がこの世界で生きていくのは大変だと思います。

 さらに言えば解像度には「自覚」と「責任」が必要で、SNSには自分の力で答えに辿りつくことなく簡単に解像度を高めてしまうような「事実めいた答え」がたくさんばらまかれていて、嫌な意味で賢くなれてしまう。「自覚」のない解像度は、一瞬で暴力にすり替わってしまうから、あるトピックについて理解が足りない人たちを過剰に叩いたり、追い詰めたり、そういうやり方で自分が今日存在していたことを確認する。俺はその「無責任な解像度の高さ」みたいなものがこの時代の抱えている飢餓感や欠落感を生んでいる気がしています。

ーー自分の思考と体験から得たわけではない「無責任な解像度の高さ」は、自身の原体験と結びついていないから誰かを傷つけてしまうのかなと思います。

 これも「観察」という話に繋がるんですが、本書の中でマヒトさんは、自分の身体をかなり丁寧に観察し描写しています。別の人間の目線で自身の肉体を観察しているのではないかと錯覚させるような描写力がありました。

マヒト:自分の特殊なところの1つだと思うんですけど、俯瞰する癖が小さい頃からあります。例えば今日、こうして喫茶店で喋っていても、全体を俯瞰して、それぞれの場所、それぞれの人を観察してしまう。一人でコーヒーを飲んでいるお姉さんとか、奥の卓で打ち合わせしている人がいるなぁとか、そういう出来事を俯瞰して見ていると同時に、今ピザトーストを食べていて、明らかに体温が上がって饒舌になっていく自分の主観的な部分があるわけだけど、それすらただの駒みたいに、大きな筋書きの1つとして捉えている。温度というものから一番遠い感覚が同居していて、「俯瞰」と「主観」という真逆なものが文章の中に同居している感じはあります。

 あと俺、コスプレみたいな気持ちで自分の本名と付き合っていて、それは自然にそうなっているんだけど、いつの間にかマヒトゥ・ザ・ピーポーが本名の俺を飲み込んでいるんだなと思った。例えば病院の受付で名前を呼ばれたとき、本名の俺は俺ではないから強気でいられるんですよね。いつもは赤い服着ているのにそういう日は自然と黒い服を着ていたりする。いつの間にかマヒトゥ・ザ・ピーポーと本名のマヒトが反転して、本名のマヒトの方がどうでもよくなった。別にどう思われようがいいと思えるようになって、だから最近俺は表現者になれたんだなと思いました。俺は文章とか音楽とか何かに向かえるものがあって本当に良かったなと思いますね。それを見つけられただけでも自分はセンスがいいと思える。

ーー韓国のシンガーソングライター、イ·ランさんとのエピソードで、イ·ランさんやマヒトさんは愛の歌を歌えないという話がありました。

マヒト:そうなんです。だからイ·ランと「愛の歌を歌えない」という歌を一緒に作ろうと思って。コロナが落ち着いてまた会えるような状況になったら、「愛の歌を歌えない」という愛の歌を歌うかも知れないですね。

ーーどうして愛の歌を歌えないんですか?

マヒト:愛という感覚自体は理解をしていると思うんです。綺麗事を言うと、愛が自分のベースにありすぎて、そのことが特別なものとして歌えない。折坂悠太が愛の歌を歌うのは、パートナーや子どもを特別な存在として扱えるから、それが愛です、と歌えるんだと思う。俺にとって愛という感覚が特別じゃないんですよ。もう、誰かに飴をあげるみたいな感覚に等しい。そこまで愛を振りまいている人間だとは思わないけど、感覚的に出し入れし過ぎてしまっている部分はあって、それが割とトラブルの元になったりもするんですけどね(笑)。

ーー恋愛小説だったら書けそうですか?

マヒト:うーん、やはり普段の暮らしのなかで愛を特別なものとして扱えてないから難しいと思う。でもちょっと頭をひねって、嘘つけば書けると思うけど、今のところできないですね。いつか書いてみたいけどね。

ーー恋愛が文章に影響を与えている感覚はありますか?

マヒト:あんまりない気がします。自分の歌は割と永遠がテーマにあるというか、仮に恋愛みたいな刹那的なテーマを歌ったとしても、少し離れたところから俯瞰しているような目線がずっと残ってしまう。たとえば『ひかりぼっち』でも、最後に書いた文章には、10年後とか、そういう未来から振り返ったときの目線みたいなものが入っていたりする。自分がその瞬間しか生きていないという気持ちと同時に、もっと長い時間のなかで、その瞬間を俯瞰している感覚もあるんですよね。だから恋愛の影響を受けているのかもしれないけど、限定的だと思う。その瞬間の切実さよりも、人類って恋をして、ダンスして、こうやって生きてきたよねみたいな、そういうすごく冷めた目線がある。やっぱり自分にとって特別ではないことは、歌や文章にできないんだろうなって今話していて思いました。

声のないシンガロング

ーーアメリカツアー中に「Absolutely Imagination」でシンガロングが起きたときのエピソードがあり、「音楽の可能性にシンプルに感動した」とありましたが、そういった可能性は文章にも見出せそうですか?

マヒト:どうなんだろう。シンガロングにかわる何か、この時代を共有する何か……『鬼滅の刃』とか書いていたら時代を動かしてる感覚とかありそうですよね。

ーー存在そのものとして信じてはいるけど、自分自身の中ではどういう形かわからないということですかね。

マヒト:顔も知らない誰かが、寝る前にちょっとずつ本を読むとか、そういう意味での見えない連帯はあると思っています。『ひかりぼっち』は自分がひかりぼっちだというよりは、いろいろな場所にいる顔も知らないひかりぼっち達へというイメージで書きました。だからそういう声のないシンガロングみたいなものは静かにあると思うんですけど、ただそれはやっぱり目には見えないから、イメージしづらいですね。

ーー反応がダイレクトに返ってくる音楽とは違いますもんね。小説家・柳美里さんの『ゴールドラッシュ』の話も出てきますが、柳美里さんや他の作家に影響を受けた部分があれば教えてください。

マヒト:柳美里さんの文章からは、皮膚感覚みたいなものが切実に感じられて、初めて読んだときから好きです。ちゃんと生き物の匂いが行間からする。これから時代が未来的なほうに進めば進むほど、生き物とか皮膚感覚とか温度みたいなものが重要視されていくと思うので、柳美里さんが「全米図書賞」の翻訳文学部門を受賞したのは、そういう目線でも語れる気がする。いつか会ってみたいですね。

ーー温度を感じる文章に魅力を感じたと。

マヒト:うん、やはり生きているということはすごい情報量だし、自分の中に混然一体とあるカオスも成立させて存在しているわけじゃないですか。なんで生まれてきたかも分からないし、ただご飯を食べて、コーヒー飲んで喋っているだけなんだけど、生きることはそれだけですごいことだなと思っています。

 動物の内臓って構造自体がめちゃくちゃカオスで、体内にこんなえぐいものを抱えながら、みんな頑張って化粧をしたり、取り繕って流行りの髪型にしたりしているけど、こんなえぐいものをみんな腹の下に抱えて、それぞれがしおらしい顔をして人間をやっているのが面白い。そんなカオスな設計をした神様と呼ばれる人は相当な変態だぞって思ったし、そのカオスを抱えてそこに立っているっていうことがすごいことなんだなと。だからやっぱり生物に対するリスペクトはこれからもテーマになっていくんだろうなと思います。

 パソコンで音楽を作ったり、AIがDJをするソフトが実験的に出たりとか、それはすごく理にかなっていると思うんですよ。Apple musicの膨大なデータから1曲目をかけて、オーディエンスのリアクションからデータを取って、今日のオーディエンスはヒップホップよりテクノが好きみたいだから、じゃあテクノの曲を繋ごう、こういう音楽が好きな層は、これも好きなはずだってね。AIに任せて処方箋みたいに音楽を作ること、人が欲しているものを欲している形で表すこと。これからの時代、文明がそっちに開いていくことは理解できるんです。でもそうなればなるほど、ここに今抱えている内臓のカオスをどう扱うの? という疑問が残る。今この曲を聴きたいと頭では思っていて、この情報に対してAIが次の曲をかけるのは理解できるけど、脳みそじゃなくて、内臓が欲しているもの、心が欲しているもの、思い出が欲しているものは全く別物だと思う。

 実は人間の身体のあらゆる場所にいろんな意思があるはずで、好きな人に触れられてすごく気持ちいいのは、別に脳の話じゃない。手で撫でてもらったら、手で撫でてもらった箇所が気持ちいいと感じる、そこの意思だと思うし。AIが扱えるのは脳みその、ある一点だけであって、真っ赤なこの内臓の意思とかは無視されている気がする。だから俺はそこ一点に向けて音を鳴らしたい。それは文章に関してもそうで、ただ生き物として今を生きているという、最もベーシックな部分を応援していたいし、関わっていたい。別にポケットティッシュみたいな音楽とか文章を作りたいわけじゃないんですよ。ポケットティッシュは涙が出たから拭くために必要でしょ? でもそうではなくて綺麗な手ぬぐいみたいな何に使ったらいいか分からないけど、何に使おう? 飾ろうかな? 涙を拭いてもいいかな? と自分で使い方を考えられるようなものを作りたい。

ーー豊田利晃監督の『破壊の日』にも出演されていて、本の中にもエピソードが出てきますが、映画作品の影響はどのくらいありますか?

マヒト:はっきり言って学校の先生から学んだことは1個もなくて、映画から学んだことは本当にたくさんある。悪い奴だけど、こいつかっこいいとか、こいつどうしようもないのに、なんか俺は好きだなっていう感覚。そういう善悪や、何を魅力的に感じるかの基準が、世間一般の常識と入れ替わったりしうるっていうのは映画が教えてくれたこと。でもそういう感覚で生きている人はトラブりやすいんですよね。明らかに価値基準が一般の人と比べてズレやすいから。本当の意味での教育は映画のほうがよっぽど恩恵を受けている気がしていて、今までいっぱい観てきたなかで、好きな映画はレオス·カラックスの『ポンヌフの恋人』。何が好きかもよく分からないけど一生好きですね。

ーーこのエッセイの中の印象的な言葉が「どの文章も遺書として切り取ってくれてもかまわない。とにかく証を残していくことは遺書を書くことである」という言葉でした。文章を書くという行為をどう捉えているか聞かせてください。

マヒト:その一瞬、ポイントではなく、すべてのものに血が流れていて、温度があって全部が繋がっている感覚があるから「どの文章も遺書として切り取ってくれてもかまわない」という言葉が出てきたのだと思います。自分がどのタイミングで死ぬかもわからないけど、いつ死んでもいいようにやってるんですよね。でも文章を書くという行為には、「俯瞰」と「主観」の話と近いけど、一貫して変わらない部分とその時期にしかないトーンみたいなものがあります。それは『ひかりぼっち』を2年間書いて、最初の文体と最後の文体が全然違うということも含めて思った。この本が10年後、20年後に見ると全く違うコントラストをしているかもしれない。やっぱり時間を記録する、記憶を記録するということが言葉にできることだと思うから。

 あとは、これから進んでいく文明に対する反抗のスタンスでもある。今日の話全部に通ずるけど、その時代と一緒に歩きながらも、常にカウンターに立っていたいという意味でも、本にすることの意義があると思いました。やっぱり本は文字だけどデータではないし、自分が読み進めると終わりに向かっていく。そういうものに自分は惹かれるのかなと。これが『ひかりぼっち』をやってみた感想ですね。

■書籍情報
『ひかりぼっち』
著者:マヒトゥ・ザ・ピーポー
出版社:イースト・プレス
発売日:発売中
定価:(本体1.500円+税)
https://www.amazon.co.jp/dp/4781619290

マヒトゥ・ザ・ピーポー サイン入り『ひかりぼっち』 &サイン入りチェキを各1名様にプレゼント。応募要項は以下の通り。

【応募方法】
リアルサウンドブックの公式Twitterフォロー&該当ツイートをRTまたはリアルサウンド公式Instagramをフォローいただいた方の中から抽選でプレゼントいたします。当選者の方には、リアルサウンドブックの公式Twitter又はリアルサウンド公式InstagramアカウントよりDMをお送りいたします。

※当選後、住所の送付が可能な方のみご応募ください。個人情報につきましては、プレゼントの発送以外には使用いたしません。
※サイン本とチェキどちらを希望するかメッセージにてお知らせください。どちらのご応募も可能です。
※複数のお申し込みが発覚した場合、ご応募は無効とさせていただく場合がございます。
※営利目的の転売は固くお断りいたします。発見した場合は然るべき対応をとらせていただきます。

リアルサウンドブック 公式Twitter:https://twitter.com/realsound_b
リアルサウンド 公式Instagram:https://www.instagram.com/realsoundjp/

<締切:1月11日(月)>

新着エッセイ

新着クリエイター人生

水先案内

アプリで読む