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『僕のヒーローアカデミア』デクとオールマイトは日米関係を照らし出すーー多角的な批評性を考察

リアルサウンド

20/6/13(土) 8:00

 週刊少年ジャンプで連載中の『僕のヒーローアカデミア』はとても批評的な作品だ。

参考:『僕のヒーローアカデミア』に息づく、日本的ヒーローの3要素とは?

 人口の8割が何らかの特殊能力「個性」に目覚めた架空の世界を舞台に、なんの個性も持たない少年、緑谷出久(デク)が憧れのヒーローの頂点、オールマイトから力を譲渡され、ヒーローへの道を歩んでいく。デクはヒーローを養成する雄英学校へ入学し、多くの仲間たちと切磋琢磨し、社会を脅かすヴィランと戦ってゆく。

 少年ジャンプの王道であるひたむきな少年の成長譚であり、現在のジャンプの看板作品だ。『NARUTO』終了後の代表的な「MANGA」として、海外でも大きな人気を誇っている。

 本作は、アメリカンコミック(アメコミ)のスーパーヒーローものに強く影響されているとよく言われる。「アメリカの影響」は一つの漫画作品を超えて、戦後日本の重要な要素の一つであるが、本作はアメコミの影響、それもスーパーヒーローをモチーフにしているためか、現実の日米の関係、そしてアメリカ文化や日本文化に対して鋭い批評的視座を、無為に得ている稀有な作品だ。

■アメリカの神話としてのアメコミ

 そもそも、アメコミとはどういったものだろうか。アメコミと一口に言っても多彩なジャンルが実はあるが、ここでは『ヒロアカ』が影響を受けている「スーパーヒーロー」ものに焦点を当てる。スーパーヒーローものこそがアメコミが生んだ固有のジャンルであり、マーベルやDCコミックス作品の映像化作品が続々大ヒットを飛ばしていることから、現代アメリカを代表する文化であると言えるからだ。

 アメリカにとって、スーパーヒーローという題材は一種特権的な地位を占めており、単なる娯楽以上の存在感を持っている。横山宏介氏は、アメコミにおけるスーパーヒーローとは神話の模造品であると言う。

 アメリカという国は歴史が浅い。歴史の浅さゆえに伝説や神話を持たないアメリカは文化的なロールモデルに乏しい国だ。元々、ヨーロッパから逃れたきた人々が、血塗られながら築いた国であるがゆえに、素直に欧州の神話をロールモデルとするのもはばかられるのかもしれない。だからこそ、模造品でも自分たちの神話を作り出すべく、スーパーヒーローは必要とされるのではないか。

 政治学者のトラヴィス・スミスは、自著『アメコミヒーローの倫理学 10人のスーパーヒーローによる世界を救う10の方法』で「スーパーヒーローは、リベラル民主主義の文化におけるアリストテレスの理想のマニフェストである(P30)」と記しており、現代人が模倣すべき規範となりうるのだと書いている。この本におけるスミス氏の主張は、神話の模造であるという横山氏の主張を裏付ける。神話が、人々の生きる指針や世界の構造を物語として示したものだとすれば、アメリカ人にとってスーパーヒーローはまさにそれに該当するものなのだ。

 今日では数多くのスーパーヒーローが量産され、多くの消費を喚起している。単なるロールモデルを超えて、ハリウッド経済の屋台骨であり、SNS時代の共感を消費する社会に巻き込まれながら、その影響力を拡大している。

 SNS社会は人々に心の近さを求める。あらゆる有名人もSNSで発言し、ファンと近い距離を作り出すのと同様に、スーパーヒーローもこの消費社会を生き抜くために近さを要求されている。「親愛なる隣人」スパイダーマンのように、我々の身近な存在だと思えるタイプのヒーローが人気を集める傾向になってきていることを、スミス氏も同書で指摘している。様々な人種のヒーローを生み出そうとしているのも、それぞれの人種にとっての身近な存在の方が共感を得やすいからだ。スーパーマンのような圧倒的存在よりも、自分もヒーローになれるかもしれないと思わせてくれる存在の方がより良いロールモデルになる。「だれの心の中にもヒーローがいる」とスパイダーマンこと、ピーター・パーカーの育ての親、メイ叔母さんは言う。そして、そんなSNS社会の過剰承認欲求とヒーロー願望を結びつけたパロディ作品として『キック・アス』のような作品も存在する。

■王道の少年漫画にアメコミ風味を加えた『ヒロアカ』

 『ヒロアカ』は、「誰もがヒーローになれる」社会を更に一歩推し進めた設定を持った作品だ。「心の中にヒーローはいる」どころではない、世界の8割の人間が特殊能力に目覚めている世界なのだ。そんな世界にあって、主人公のデクは特殊能力を持たないキャラクターであり、そんな彼がNo.1ヒーロー、オールマイトから力を譲渡されるところから始まる。

 本作の特徴は、このオールマイトのキャラクターデザインがアメコミ風の陰影深いデザインで、他のキャラクターとは一線を画している点だ。他にも相棒をサイドキックと呼んだり、悪党をヴィランと呼ぶなどアメコミ要素が随所にちりばめられている。「SMASH」など英語の擬音を時折使うのもアメコミからの引用だ。

 作者の堀越耕平氏がアメコミを好きなったきっかけは、2002年のサム・ライミ監督『スパイダーマン』だそうだが、主人公のデクが冴えない少年でオタク気質である点は、ピーター・パーカーとも似ているかもしれない。

 しかし、『ヒロアカ』はただのアメコミの模造品ではなく、日本漫画の意匠もふんだんに取り入れた作品だ。落ちこぼれの少年が学校で仲間たちと切磋琢磨する物語の構造は『NARUTO』と共通しているし、様々な特殊能力のあり方は『ONE PIECE』の悪魔の実を連想させる。何より、友情・努力・勝利を基調としたジャンプの王道展開をてらいなく描く姿勢を貫いており、その根幹はやはり日本の少年漫画なのである。

■日米関係と『ヒロアカ』とアメコミ

 本作のアニメ版を監督している長崎健司監督は、『ヒロアカ』について「ジャンプ王道でありながら、どこか新しい」と語っている。その本作の新しさについて堀越氏自身も自覚的ではないようだ。

 日本の漫画にアメコミの意匠を持ち込んだこと自体は新しくない。アメコミに大きく影響を受けた作家は過去のジャンプ作家にもいる。桂正和の『ウイングマン』がまず挙げられるし、意外性という点では、時代劇でありながらアメコミテイストを取り入れた和月伸宏の『るろうに剣心』の方に軍配が上がるだろう。

 おそらく、『ヒロアカ』の新しさとは表面的な意匠ではなく、本作が知らずのうちに獲得した、現代社会への、とりわけ日本とアメリカの関係に対する批評的な視座にあると筆者は考えている。

 前述した横山氏は、本作のアメコミスタイルのオールマイトと日本人の主人公デクの関係性は戦後の日米関係の寓意であると言う。

「『ヒロアカ』の設定は下記のようになります。現代の日本は、最強のスーパーヒーローであるアメリカ的存在、オールマイトに守られていたが、その力が衰えを見せ始める。出久は、戦闘能力を持たなかったが、オールマイトによってO(ワン・)F(フォー・)A(オール)を与えられる。彼は自身には強大すぎる力をなんとか制御し、それを自身の力として昇華していく――この作品世界と出久とオールマイトの関係が、戦後の日本とアメリカの寓意として読めることは明らかでしょう」

 オールマイトのデザインが異質であることも重要だが、それ以上に彼の物語中での役割がここでは重要だ。オールマイトは人気・実力ともにNo.1のヒーローで、この世界の治安維持の象徴的な存在である。犯罪抑止力として立ち回り、悪を成敗する。国民は彼を支持するだけで良い。オールマイトは何があっても市民を守ってくれる存在である。その態度は、戦後、何があってもアメリカの核の傘に守られてきた日本と奇妙にも共通している。

 しかし、アメリカとてその力は永遠ではない。世界中で多くの国が経済発展を遂げ、中国などは経済力でアメリカと肩を並べる存在にまで上り詰めてきた。国内の分断が進むアメリカは世界の勢力図の中でこれまでのような圧倒的な存在感を保持できなくなるかもしれない。オールマイトが力を保持できなくなっていくように。

 『ヒロアカ』では、オールマイトが遂に因縁の相手と相まみえ、力を使い果たし引退することになり、それぞれのヒーローたちが今後どうしていくべきなのかを模索する姿が描かれている。オールマイトは偉大だった。しかし、彼にはもう頼れない。そもそも、彼の巨大な力によって犯罪を抑止するやり方では悪は根絶できなかった。新しい社会秩序を模索しなければいけなくなった現在の『ヒロアカ』ではヴィラン連合も力を増し、より混沌としてきている。それは、従来の世界の警察的なアメリカのやり方が通用しづらくなった世界情勢と偶然にも似ているとも言えないだろうか。

 日本もまたいつまでもアメリカに頼れない。対米従属からいかに抜け出るかは前後の日本外交の大問題であり続け、いまなおあがき続けている。デクがオールマイトから授かった力はフルに用いると自身の肉体を傷つけてしまう。デクがその制御に苦しみながらも自分なりのオリジナルの戦い方を模索してゆく姿は、アメリカの政治的・軍事的影響からいかに自立してくかを模索する日本の姿と重なる。現実の日本はデクほど上手くいっていないが。

 日米関係は、それは政治的・軍事的な文脈にとどまらず、文化的な面でも同じことが言える。漫画は日本の代表的文化に上り詰めたが、その父、手塚治虫はディズニーへの憧れを強く持ち影響されてきた。その強い影響からいかに距離を取り、オリジナリティを築くのか腐心し、日本独自の漫画表現を高めてきた。手塚以降の漫画家たちもその延長線上にあるとすれば、堀越氏のアメコミからの影響と、そこからいかに距離を取り独自性を獲得するかの試みも手塚以降、日本の漫画が抱え続けてきた命題なのではないだろうか。

■プロヒーロー制度とシビル・ウォー

 戦後日米関係についての視座以外にも、『ヒロアカ』は特別な力をどう管理すべきかの日米の考えを相対化してみせる。

 本作では特殊能力を使って犯罪者に立ち向かってよいのは、免許を持つプロヒーローだけだ。特殊能力をみだりに使うのは犯罪行為であり、『スパイダーマン』のように特殊能力を使って街の平和を勝手に守っていはいけない世界なのである。

 ヒーローの免許制度で思い出すのは、マーベル作品におけるヒーロー同士の大戦「シビル・ウォー」のきっかけとなった「超人登録法」だ。(映画でのシビル・ウォーのきっかけは、アベンジャーズを国連管理化に置く「ソコヴィア協定」だった)

 超人登録法とは、ヒーローとして活動する者の氏名、住所などを国家に登録した上で訓練を受けさせ、国の管理化で任務を行うように義務付ける法律だ。この超人登録法を巡って、賛成派と反対派にヒーローが分かれ、内戦「シビル・ウォー」が勃発する。

 超人登録法の反対派と賛成派の言い分をかいつまんで説明すると、反対派はヒーローは自分の信念に従って正義をなすべきで、国がいつも正しいとも限らない。国が間違えた時にも止める必要だというもの。賛成派は、強大な力を野放ししておくこと自体が危険なことではないかという主張だ。

 『ヒロアカ』はこの法律が実現した世界と言ってもいいかもしれない。初期の頃には大きな混乱と議論があったようだが、少なくとも内戦が勃発するような事態にはなっていないのはなぜだろうか。もしかしたら、一般国民が巨大な力を制御する組織が必要と認識しているからかもしれない。それと、なんだかんだ法律を守るのは大切だよねという常識の支配、あるいはお上(政府)の言うことには従うべしという「お上意識」のせいかもしれない。

 対してマーベル世界では、政府を転覆させうる強大な力を政府の管理化に置くべきかという議論は、内戦が起きるほどの大事件なのだ。世界の警察、アメリカらしい発想だが、やはりそれは諸刃の剣だ。政府が腐敗していたら、それを止める力はたしかに重要だ。しかし、その力自体が世界に混乱をもたらすかもしれない。ヒロアカの免許制プロヒーローという設定は、力というものに対する日米の考えを図らずも浮き彫りにしている。

 アメリカのスーパーヒーローのあり方は自警団的であると言える(バットマンはその典型だろう)。アメリカには州兵という制度があるが、これは元々は自警団だったものを制度化したものだ。アメリカは元々、合衆国憲法修正項第2条で「武装する自由」が保障されている国で、自警団的な発想を日本よりも大切にしている。アメリカのスーパーヒーローは、その自警団的な精神の発露とも言えるだろう。

 『ヒロアカ』も自警団とプロのヒーローの違いは何か、という点に言及している。作中屈指の存在感を持つヴィラン、ヒーロー殺しのステインは、プロヒーローを堕落した存在と言い、ヒーローは全て内面の高潔さで自発的に振る舞わねばならないと語っている。人気取りのために行動するのではなく、国家に管理されるべきでもないという主張なわけだが、それは自警団の発想と相性が良い。しかし、自警団は現実には暴走することもあるのだ。その暴走が問題になったからプロヒーロー制度が生まれたのだ。このあたりの自警団とヒーローのあり方については、本編よりもスピンオフの『ヴィジランテ-僕のヒーローアカデミアILLEGALS-』が掘り下げている(ステインが自警団として活動していた過去も描かれている)。このスピンオフの第0話の1ページ目は非常に批評的だ。「自警団はヒーローの原点だ」と言いながら、今は法律違反で犯罪だと言うのだ。

 『ヒロアカ』は明確に法律は遵守すべきという考えに貫かれている。まだ学生でヒーロー免許を持たないデクたちが、力を行使せずに状況を切り抜けるエピソードなども描かれる。(時に脱法的に力を振るうこともあるが)暴力を使うのはヒーローもヴィランも一緒、ならばその両者を分けるのは法律なのだ、という考えである。対してアメコミでは、法律ではなく内面の高潔さによってヴィランとヒーローが分かれる。

 その他、『ヒロアカ』世界では、ヒーローが災害救助も行うのだが、これは災害大国である日本らしい発想と言える。日本においては悪人よりも自然災害はより身近な脅威である。外敵からの防衛力である自衛隊が今日、最も称賛を集める時は災害救助の場面であることを思わせる。災害救助のエピソードが本格的に描かれたことはこれまでにないが(災害救助を想定した演習のエピソードはあった)、災害救助を題材にした魅力的なエピソードをいつか読んでみたい。

 ここに挙げた以外にも、『ヒロアカ』には数多くの批評的視座がある。ヴィランのあり方や、主人公デクの母親が描かれることなど(ジャンプのヒーローで生きた母親が登場することは稀なのだ)、現代社会とのリンクにとどまらず、多角的な批評性も備えた非常に稀有な作品なのだ。(杉本穂高)

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