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『ホットギミック ガールミーツボーイ』徹底解説! 山戸結希監督が確立させた“新しい映画表現”

リアルサウンド

19/7/1(月) 15:00

 相原実貴原作の少女漫画を基に、映画初出演、初主演となる、アイドルグループ「乃木坂46」の堀未央奈を主演に迎え、現代の少女たちのリアルな感情や、甘く苦い恋愛模様を描いた映画、『ホットギミック ガールミーツボーイ』。

参考:堀未央奈×山戸結希が語る、『ホットギミック』にかける思い 堀「自分の中で何かが変わった」

 このような簡単な概要からすぐに頭の中で想像する内容とは、まったく印象が異なるのが本作だ。日本で数多く作られている恋愛映画とも、海外の恋愛映画とも違った輝きを放つ、誰も見たことがない種類の映画だと感じられるのだ。いったい、これは何なのか?

 ここでは、それだけに一見すると難解だと感じてしまうかもしれない『ホットギミック ガールミーツボーイ』が、何を描いていたのかを、物語や演出を例にとってじっくりと解説していきたい。

■リアルに映し出された少女漫画世界

 堀未央奈が演じる主人公、成田初(なりた・はつみ)は、大人しい印象の純真で可憐なタイプで、一部の女子からは「女子から嫌われる女子」と言われたり、嫉妬から陰口を叩かれることもある高校2年生。その一方で、街で配布されているポケットティッシュを次々に受け取っては持て余してしまうところが象徴しているように、自分の意志を貫くことが苦手で、騙されやすくもある。そして、そんな初に想いを寄せるのが、3人のイケメン男子だ。

 一人目は清水尋也が演じる、難関高校の中でも常に成績トップに立つ秀才、橘亮輝(たちばな・りょうき)。メガネがトレードマークのクールなキャラで、男子も憧れるカリスマ性を持っている。

 二人目は板垣瑞生演じる、学生でありながらモデルとしても活躍する、同級生で幼なじみの小田切梓(おだぎり・あずさ)。鮮やかなオレンジの髪色が特徴の、女性モデルたちからも熱視線を浴びる規格外の男子高校生。

 三人目が、間宮祥太朗演じる、兄・成田凌(なりた・しのぐ)。初の兄妹としてともに育ってきた存在だが、じつは大きな秘密を抱えている役どころ。「そのままでいいよ」と包容力を見せる、優しい年上男子。

 こんなにイケメンにモテモテで、さぞや幸せな境遇だろうと思ってしまうが、じつはそんなこともないというのが、本作の恐ろしいところだ。

 亮輝は、あることをネタに初を脅し、自らの奴隷になることを強要しながら「俺にキスしなさい」と迫るし、梓は、思わせぶりなセリフでむやみに初の心をかき乱したり、何かを企んでいるような雰囲気を見せる。そして凌は、優しくはあるものの、腫れ物のように初を扱い過ぎて、その態度は過保護と感じられるほどだ。彼らの性格が明らかになっていき、それぞれの本音、背景が見えてくることによって、3人のキャラクターや言動から危うさが漂ってくる。

 だが、これは異常なように見えて、むしろ現実的だといえないだろうか。少女漫画には、理想化された誠実な“王子様キャラ”が登場することがあるが、それはある意味で、男の子向け漫画に出てくる、“男にとって都合の良い女性キャラ”の裏返しのような存在だといえる。男子にしろ女子にしろ、現実の恋人というのは、様々な欠点があるのが普通だ。初がそうであるように、まだ学生である彼らも、人間的にはまだまだ未熟で改善の余地が大きい。本作に描かれる男子の姿は、より現実の存在に近い、女子たちにとって不完全な恋愛対象なのだ。

 本作は、理想の世界とは異なる現実に打ちのめされ悩んでいる女の子の気持ちに寄り添う。そして、そんな世界の裏切りを認めたうえで、そこからどうすればいいのかというのが、本作が描く“リアル”なのである。

■「壁ドン」に潜む暴力性

 社会のなかでは、“かわいい”や“かっこいい”が、恋愛の武器として流通し、そこに市場価値や消費期限のようなものが設けられてしまってもいる。そんな手札を、誰に対して、どこで切るのかという、現実のなかでの勝負「ホットギミック(熱い駆け引き)」に、“女の子”たちは日々悩まされているといえるかもしれない。そして、それが駆け引きである以上、様々なリスクがあることも確かだ。意志が弱くつけ込まれやすい初は、そんなゲームに参加することで危険に足を踏み入れてしまうことになる。それは、日本社会のなかで女の子が経験するかもしれない、一つの現実である。

 「壁ドン」などに代表される、男子から女子への強引なアプローチが、少女漫画を中心に流行ったことがあったが、ここではそれらが“奴隷”や“裏切り”など、もっと過激なかたちで表現され、さらに一種の暴力のようなものとしても描写されている。本作は、女子がドキドキするような要素のなかに暴力性が潜んでいることを、少女漫画原作の映画という立場から告発する。そしてこのような状況は、亮輝の同級生たちが女子を見下していることが分かる発言によって強調される。

「オンナってだいたいそういう映画しか観ないよね」

「キラキラした世界で『私のコト食べてーっ』て、女の子たちの切ない想いがあるから、そこに俺らが付け込めるわけでしょ」

 つまり、一部の女子がドキドキして憧れるような“壁ドン”的価値観が存在するがゆえに、それを利用して男子たちは女子を思い通りに“利用できる”という構図があるということだ。もっといえば、そのような価値観というのが、長い歴史の中で男性・女性の関係性において支配的な価値観だったのではないだろうか。社会全体がそのような暴力性を容認してきたことが、恋愛観にも浸透し、“それが当たり前”だとみんなが思わされてきたのではないか。本作はそこまで見通した上でラブストーリーを描いているのだ。

■「私の身体は私の物」

 面白いのは、「壁ドン」的価値観の代表する存在にも思える亮輝が、「お前の意志はどこにあるんだ」「自分の頭で考えろ」などと、じつは女性の自立を促すような、真逆のメッセージをも初に伝えている場面があるということだ。これは一見、「マンスプレイニング(男性が女性に対して偉そうに解説すること)」のようにも感じられるが、一方で初はこのように発言している。

「いまの私を『バカだな』って言ってくれる人と出会いたかったの」

 注意深く亮輝の言動や、そのときの状況を考えながら場面を見ていくと、彼のイラ立ちや暴言というのは、批判のかたちをとっているとはいえ、「大好きだ」という意味のことを繰り返し言い続けているに過ぎない。そしてそれは、自分が愛情を感じている初に自尊心が無く、男の要求にフラフラと流されることへの怒りの発露でもある。嫉妬心からの言葉とはいえ、それが初の自立をうながすきっかけになったこともたしかなのだ。

 たまりかねて「俺の物になれ」と言ってしまう亮輝に対して、初は「うん!」……ではなく、「私の身体は私の物だ!」と返答し、自分の足で立つことができれば、あなたでなくても、誰とでも幸せになれるとすら言い放つことができるまでに成長する。いろいろと問題のある亮輝だが、彼と対話することが、初の可能性を広げることになったのだといえるだろう。そして、亮輝が初に気づきを与えたように、初の存在もまた亮輝を変え、救っていく 。二人はまだ未熟な学生同士だが、だからこそ対話し合うことで、お互いの認識を日々更新(アップデート)し、成長していくことができるのだ。

 初を演じる堀未央奈は、一見すると何の色にも染まってない雰囲気で、話し方も幼く感じるところがある。だがその一方で、大きな瞳に強い意志を宿していると感じられるように、彼女の持っている二面性が、成長を始めていく初という複雑なキャラクターにそのまま重なっていく。

■「バカのままでいる」という哲学

 勉強をあきらめていた初は、塾に入って将来のことを考え始めるようになり、「バカ、バカ」と言い続けてきた亮輝の考えを変えていく。そして二人は「ずっとバカのままでいたい」という境地にまで達することになる。本作における、このような結論は何を意味してるのだろうか。

 かつて、ギリシアの哲学者ソクラテスは、「無知の知」を唱えた。それは、人間というものは完全な知識を備えることができないという意味において、似たり寄ったりであり、その上で、自分がものを知らないということを自覚できている人間の方が、自分のことを頭が良く優れていると思っている人間よりも、わずかながら優れているはずだという考え方である。

 初と亮輝が、お互いに対話することで“自分がバカだ”ということに気づくことができたからこそ、一つ上のステージに達することができたように、対話のなかで自分がバカでいることに気づき続けることさえできれば、どこまでもお互いの考えを高め合っていけるのかもしれない。そして、それこそが恋人同士の最良の関係なのではないだろうか。もっといえば、恋人や結婚相手ならずとも、そのように高め合うということにしか、真に人と人とが一緒にいる意味はないのかもしれない。本作が提示したのは、そのような一つの根源的な関係性である。

 盲信する恋愛でもなく、甘え続ける恋愛でもなく、初は自分が自立して生きるための成長する可能性を選ぶ。そこでは、もはや恋人すら必要ではない。初は相手に求められるから恋愛するのでなく、いまこのとき、この相手と恋愛したいと思うから恋愛するのである。だから彼女は「ずっと一緒にいよう」ではなく、「約束はできない」と言うし、「大好きかは分からない」と言う。そう相手に伝えることができた初は、これまで彼女を捕らえていた呪縛から解き放たれ、まったく違った世界へと走り出すのだ。

 恋愛をする必要がない……一見、恋愛映画を否定する要素を含んでいるようにも感じてしまう本作だが、そこを一度くぐり抜けることでしか、いまの日本で“女の子”が能動的に恋愛をする姿を描くことはできない。その意味で本作は、遅かれ早かれ、日本で作られるべきだった恋愛映画だといえるだろう。

■文法を破る山戸結希監督の新たな表現

 そんな本作を監督したのは、『おとぎ話みたい』(2013年)、『溺れるナイフ』(2016年)など、“女の子”を主人公にした作品で、圧倒的な表現力を発揮してきた山戸結希監督だ。哲学科を出ているという経歴が示すように、これらの作品には、やはり本作同様、恋愛感情などの繊細な感情をすくい上げながら、“どう生きていくか”を模索していくような作風を持っている。そして彼女にとって重要なのは“女の子”という大テーマである。(参考:「力強さのベースにある“女の子”の感性とテーマ 山戸結希監督の才能の謎に迫る」)

 とくに本作の演出面で圧倒されるのは、最初から最後まで途切れることなく緊迫感が持続していくというところだ。多くの映画作品では、落ち着いたり盛り上がったりを繰り返すのに対して、本作はシーンが切り替わっていくのにも関わらず、途切れるところがないのだ。まるで、渦に飲み込まれ、溺れながら落ち続けていくように感じられる圧倒的な鑑賞体験だ。

 これを生み出しているのが、特異な撮影や編集である。静止したカットは、長くとも3秒ほどしか続かず、それ以上の長さのショットでは浮遊するようにカメラが動き続ける。そして、人工的で閉塞感を感じさせる豊洲や、人間的な欲望の象徴となる渋谷の風景が映し出され、ときに静止した写真画像が唐突に挟み込まれていく。このめまぐるしさが、一つのシーンを無数に分断しているため、そうやって構成されているいくつものシーンが、逆にシームレスにつながっているような錯覚を与えるのだ。

 連続して映し出されるカットは、カメラアングルもめまぐるしく変化し、人物の位置関係が反転するなど、従来の映画の撮影ではやらないような“文法破り”をやすやすとやってのける。とはいえ、それはでたらめにやっているわけではなく、被写体が魅力的に見えるアングルを選んだカットが重ねられている。そこから与えられるのが、目が覚めるような鮮烈な印象だ。

 この手法こそ、まさに少女漫画的手法といえるのではないだろうか。少女漫画は、とにかく見せたいものを大きく、前に出すことを優先させ、心理的なコマも多い。慣れない読者が読むと、コマを読む順番や、誰がどのセリフをしゃべっているかなどが、分からなくなることがある。しかし、そんな複雑なものをなぜ少女漫画のファンの多くを占める少女たちが理解できるのかというと、読者が主人公と同化して、作品世界のなかに没入する読み方をするためだ。そうすることで、作者の描く主人公の主観的な世界というものが読者の主観と重なり、“見せたいものを優先させる”構成でも、容易に理解できるのである。

 手法としても少女漫画的だといえる本作の撮影や編集に慣れてしまうと、もはや従来の映画が、“分かりやすさ”という固定観念に縛られ、美しさを純粋に追いかけることができない、不自由で物足りないものにすら感じられてくる。

 かつてフランスで、新しい映画の在り方を実践した映画運動「ヌーヴェルヴァーグ」の中心人物となったフランソワ・トリュフォー監督は、その新しい表現手法と、それまでの映画への批判によって、「フランス映画の墓掘り人」と呼ばれた。つまり、新しい表現を提供することで古い表現の作品を次々に墓場送りにしたのである。山戸監督はとくに他人の作品を批判するようなことはないものの、その作品の魅力によって、多くの映画作品を色褪せさせる力を持っているという意味では、近いものがあるといえるだろう。

 独自の演出によって、新しい映画表現を確立させてしまった山戸監督に対し、果たしていまの日本に比肩できる映画作家が存在するだろうか。

■手渡された“レインボーベーグル”

 山戸監督の前作は、日本の若い女性監督たちを山戸監督が集結させたオムニバス映画『21世紀の女の子』(2018年)だった。その劇中で監督は、「女の子だけが本当の映画を撮れる」と、ショッキングともいえるような宣言をした。この、女の子だけが持つ自由な感性を至高のものだとする「女の子宣言」を実践したのが、本作の表現であり、テーマであると考えられる。(参考:「センセーショナルで深い意義があるオムニバス映画に 『21世紀の女の子』が意味するもの」)

 そんな“女の子”の作る世界は、女性だけに向けられているものではない。本作では、桜田ひより演じる女の子が、上村海成演じる男の子に、ビビッドな色合いで練られたレインボーベーグルを手渡し、一緒にそれを食べることで気持ちを共有する場面がある。

 誰もが初のように自分の足で立てる強さがあるわけではない。支えてくれる相手がほしいと願う女の子たちもいる。“男の子”は、そんな“切ない想い”を利用せずに、正面から向き合ってほしい、本作はそのようなメッセージをここで発しているように思える。

 レインボーベーグルという食べ物は、ある意味で象徴的だ。鮮やかさそのものは、ほぼ味に影響することはないし栄養にもならないが、これを「かわいい」と思える精神に作用することで、はじめてそれは意味を持つことになる。レインボーベーグルやタピオカミルクティーを、“世の中に不必要なもの”と捉える人間も少なからず存在する。しかし、それを言うなら映画もまた人間の精神にだけ作用する嗜好品である。分け与えられたレインボーベーグルは、“女の子”の願いや精神が込められた本作そのものでもある。それを受け取るのは、われわれ観客すべてである。(小野寺系)

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