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細く長く引き伸ばされるヒコウキ雲のように 人々を魅了し続けるイザベル・ユペールの輝き

リアルサウンド

20/8/25(火) 12:00

 フェルメールの絵筆がひとりの女性を、薄暗い室内から静かに浮き上がらせる。彼女は窓外にまなざしを送る。誰かのことを思いつめて夜を明かしたのか、その瞳は寝不足の物憂げさを漂わせる。あるいは、空。頭上を見上げた人々が不安に駆られるほど、どこまでも細く長く引き伸ばされていく一条のヒコウキ雲。そんな、薄暗がりから見え隠れする人影や、執拗に伸びていく灰色のヒコウキ雲にまで変容して見せて、人を魅了し続けてきた女優が、現代フランス映画界に存在する。

 顔面から全身にかけて広範囲にソバカスの広がる印象的な肌と、幻想的な赤毛をもって、ヌーヴェルヴァーグの終息した1970年代映画界に現れた女優、イザベル・ユペール。わたし/わたしたち/あなた/あなたたち/彼女/彼女たち。つまり一人称、二人称、三人称も、単数も複数もすべて演じることができる女優。唯一無二の存在感をかもし出すと同時に、どこにでも偏在する匿名性も併せ持つ女優。

 ある著名な映像編集者が、自分の作業哲学について次のように述べたことがあった。

「極端な例を観察した方が、その事物の本質をよりよく理解できる。たとえば水について知ろうとするなら、水そのものよりも、氷や水蒸気からの方が、より水の本質を見極めることができたりするだろう」(ウォルター・マーチ著『映画の瞬き 映像編集という仕事』
(フィルムアート社)p.14)

 イザベル・ユペールは人称性からも単数/複数からも自由な女優で、水の本質を表現するために、氷にも水蒸気にもなる。彼女は最初、行きずりのセックスに興じる奔放な少女として、私たち日本観客の前に現れた(ベルトラン・ブリエ監督『バルスーズ』/1973年)。続いて、米ワイオミング州の開拓移民の姿で(マイケル・チミノ監督『天国の門』/1981年)。部品工場を解雇され、けたたましく騒ぎ立てる労働者として(ジャン=リュック・ゴダール監督『パッション』/1982年)。販路拡大のため日本にやってくる鱒(ます)の養殖業者として(ジョゼフ・ロージー監督『鱒』/1982年)。性的嗜好をコントロールできないピアノ教授として(ミヒャエル・ハネケ監督『ピアニスト』/2001年)。自分をレイプした犯人を独自捜査するゲーム会社敏腕社長として(ポール・ヴァーホーヴェン監督『エル ELLE』/2016年)。

 挙げだしたらキリがないほど、あらゆるバリエーション豊かな役柄を演じ続けてきた。彼女は作家とのコラボレーションをみずから仕掛ける。1990年代、筆者が編集委員をつとめた映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』誌上には、彼女がゴーモン社の社主を通じて黒沢清にコンタクトを取り、面会したことがレポートされた。現在までのところユペール主演の黒沢映画は実現を見ていないが、その代わり東アジアでは、韓国のホン・サンスが彼女と共に2本の作品を作った(『3人のアンヌ』/2012年、『クレアのカメラ』/2017年)。最新主演作『ポルトガル、夏の終わり』(アイラ・サックス監督/2019年)にしても、『人生は小説よりも奇なり』(2014年)に感銘を受けたユペールみずからアイラ・サックス監督にコンタクトを取り、一緒に仕事がしたいと要請したとのこと。

 しかしここでは、豊かなバリエーションと溢れるモチベーションの高さをもって、彼女が氷にも水蒸気にもなると言い立てたいのではない。常識に囚われない役柄を演じつつも、役柄以上の存在へといつの間にか変容し、役柄以外の存在へと偏在的、漸進的に横すべりしていく。役作りに入念に励みつつも、役柄から巧みに遊離もする、いわば「役柄の零度」とも言うべき地点にさっと手を触れて、触れたかと思うとあっという間に現世に帰ってくる。大西洋を望む山の頂上に一族郎党を呼び寄せておいて、山頂に集ったと思ったそばから、何やら巡らしていたはずの計略をあっさりと廃棄して下山し始める、『ポルトガル、夏の終わり』の主人公フランキーのように。

 『ポルトガル、夏の終わり』のフランキーは、ハリウッドでも成功したフランス女優。どうやら長年患ってきた癌がいよいよ末期症状となり、遠くない死を覚悟しはじめた。彼女を本名のフランソワーズで呼ぶ者は縁者友人にはいない。フランス語の女性名Francoiseは、英語の男性名Frankieへと置換され、彼女の存在はこの置換によって唯一無二のものとなる。遺言めいた計略遂行のため、一族郎党、元夫、親友などをポルトガルの保養地に呼び寄せるが、彼らの動きはことごとく彼女の期待を裏切り、フランキーは何事も遂行しえないホステスとして、あたりの山道をむなしく徘徊するしかない。唯一無二のFrankieであると同時に、異国の山中で前後不覚となる無名の患者となる。このような特権的な支配者像と、匿名的な徘徊者像とのあいだの曖昧な往来性こそ、すぐれてイザベル・ユペール的なありようだろう。その相貌をあらわにした『ポルトガル、夏の終わり』は昨年のカンヌ国際映画祭のコンペティションで無冠に終わったものの、一筋縄ではいかぬ知られざる傑作として、未来の映画史にその名を留めるだろう。

 すべての人称性と単数性、複数性を往来し、演技経験というものが目指すとされる山頂にむかう往路と、復路を自在に行ったり来たり漫遊し、やがては往路、復路の方向性さえ無化するひとつの(ふたつの、みっつの……)人影。この揺らめきつつ増減する人影を、私たちはイザベル・ユペールと呼ぶ。印象的なソバカス、赤毛、蒼白い肌、くぐもっていながらも力強い発声。ユペールはいつでもユペールとしか言いようのない強烈な印象を観客に与える。と同時に、その人影は像を結んだかと思うとすぐに溶けだし、窓外にむけられる寝不足のまなざしそのものとなり、細く長い灰色の物憂げなヒコウキ雲となる。すべての人称性と単数性、複数性を往来し、さらには具体的な「をんな」へと、抽象的な「性と生」へと置換、還元されていく。ひとつところに留まらぬ、訪ねてくる正面の姿と去って行く後ろ姿を同時に見せる人影(らしきもの)。それを、私たちはイザベル・ユペールと名づけて、恐れ、敬い続ける。

 フランスの女性名Isabelleはその語源として、古代ヘブライの女性名Elisheba(エリシェバ)にさかのぼる。エリシェバは、ヘブライ人のエジプト脱出を弟モーゼと共に指導したアロンの妻である。Elishebaはヘブライ語で二分割され、“El”は「神」を意味し、“Sheba”は「豊饒さ」を表象する。つまりElisheba=Isabelleの記号は、「神は豊饒なり」である。

■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。
ブログTwitter

■公開情報
『ポルトガル、夏の終わり』
Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次公開中
出演:イザベル・ユペール、ブレンダン・グリーソン、マリサ・トメイ、ジェレミー・レニエ、パスカル・グレゴリー、ヴィネット・ロビンソン、グレッグ・キニア
監督・脚本:アイラ・サックス
配給:ギャガ
後援:ポルトガル大使館、ポルトガル政府観光局
原題:Frankie/2019/フランス・ポルトガル/カラー/ヨーロピアンビスタ/5.1chデジタル/100分/字幕翻訳:松岡葉子 
(c)2018 SBS PRODUCTIONS / O SOM E A FURIA (c)2018 Photo Guy Ferrandis / SBS Productions
公式サイト:gaga.ne.jp/portugal

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