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亜無亜危異、“反逆のアイコン”がパンクシーンに与えた衝撃 不完全復活に至る激動のバンド史を解説

リアルサウンド

18/9/7(金) 13:00

 遠い昔のことだが、ロックは不良の音楽と言われていた。不良という言葉自体、今はもうあまり使われなくなったし、何をもって不良とするかを正しく定義づけるのも厄介なことだが、まあとにかくロックに不良性は欠かせなかった。

参考:GUY×TOSHI-LOW『アコースティック不法集会』への思い「この形でしか伝わらないものがある」

 ワルければワルいほど、まがまがしいほど、けしからぬものであるほど、ロックはかっこよかった(そんなんじゃない種類のロックももちろんたくさんあったが、そういう話はここではいい)。今は不良性の強いロック、不良っぽさがかっこいいロックなんぞ、ほとんど存在しない。社会の落ちこぼれやならず者の憧れや共感はロックには向いていかない。そういう不良が憧れたり共感したりするのは、今はヒップホップ~ラップミュージックだ。ロックは今ではちゃんと物事や将来のことも考えることができて、頭もよくて、そこそこ器用にふるまえて、しっかりした意見を述べることのできる人たちがやるようなものにむしろなっている。頭もそんなによくないし、社会に適応できないし、要領なんて全然よくないけど、ばかでかい音に乗せて、大きな声で叫んで、叫んで、とにかく叫ぶことを繰り返していれば、いつかは目の前の壁が崩れて何かが変えられるんじゃないか。変えてやる!そういう闇雲なパワーや気概に満ちたロックと出会えることはほとんどなくなってしまったし、それを嘆くこともまた時代遅れだったりするだろう。

 アナーキーは埼玉の同級生5人で結成された、まさしく不良ロックバンドだった。暴走族上がりで、揃って国鉄のナッパ服を素肌にはおっていた。デビュー当時、複数のバンドが出演する日比谷野音のロックイベントで開場を待ちながら並んでいたとき、(仲野)茂とマリ(逸見泰成)が二人乗りでバイクをゆっくり走らせ、何度も行ったり来たりしていたことがあった。そんなふうに目立つのが大好きなヤンキーの精神性を持ち、だからマリは眉毛も剃ってたし、「亜無亜危異」という当て字を打ち出したりするあたりもヤンキー的だった。

 しかしながら彼らはパンクとロックにやられていた。Sex PistolsにThe Clash。外道に頭脳警察にサンハウス。ヤンキーのロックとパンクは本来地層の異なるものだが、もって行き場のないフラストレーションの反動的爆発という意味で彼らにとっては通じていたものだったのだろう。ただ、パンクロックはある意味正直で誠実なものだから、それを好きだった彼らは流行りとしてのヤンキー的なもの、ビジネスの匂いのするものには中指を突き立てた。なめ猫ブーム、横浜銀蝿、あんなものは偽物だから騙されるなと彼らは主張した。

 アナーキー(無政府・無秩序)を名乗りながら彼らの主張は筋が通っていたし、筋を通していた。オレたち別に頭よくないし要領だってよくないけど、ばかでかい音に乗せて、大きな声で叫んで、叫んで、とにかく叫ぶことを繰り返していれば、いつかは目の前の壁が崩れて何かが変えられるって信じてやっているんだ。叫んでやるぜ。そういうところが信頼できたし、共感できたし、かっこよかった。〈何にもしねェで いるよりは ずっとマシなんだぜ〉と歌われるデビュー曲「ノット・サティスファイド」を聴いて、彼らと近い年齢の自分もとにかく何かを始めねえとと思ったものだった。

 1978年結成のアナーキーがデビューしたのは1980年2月。電化したRCサクセションが久保講堂でワンマン(4月)をやって『RHAPSODY』を出した年であり、同年11月にはザ・ルースターズがデビューした。デビュー盤『アナーキー』は出てすぐに買い、毎日何度も聴いた。森永博志さんのラジオ『サウンドストリート』(NHK-FM)にパンタさんが出たとき、両氏が「すごいバンドが出てきたね」と揃って絶賛してたのも覚えている。

 初めてライブを観たのがなんのときだったかは覚えてないが、当時は内田裕也が『ニューイヤーロックフェス』のほかに春の黄金週間にも複数出演のロックイベントをやっていたので、その頃だったかもしれない。もちろん浅草国際劇場の『ニューイヤーロックフェス』でも観たし、マイキー・ドレッドをプロデューサーに迎えてロンドンでレコーディングされた3rdアルバム『亜無亜危異都市(アナーキーシティ)』(1981年)を携え日比谷野音で行なったワンマンも観に行ったし、1982年1月の久保講堂ワンマンも気合を入れて(髪を逆立てて)観に行った。久保講堂でワンマンをやるというのは少なからずRCを意識したところもあったのかもしれないが、当時RCとアナーキーはロックイベントに一緒に出ることがわりと多く、また恐らく1980年だったと思うが文化放送の夕方のラジオ番組でジョイントライブが放送されたこともあった(そのテープ、まだ持ってます)。

 アナーキーはかなりハイペースでアルバムを出していた。デビューした1980年に『アナーキー』と『’80維新』、81年に『亜無亜危異都市』と『READY STEADY GO』、82年に『ANARCHY LIVE』と『ANARCHISM』。その後は毎年1枚ずつ出し、結局1980年から1985年の間にライブ盤含めて9枚も出した(オリジナルメンバーの最終作は1985年の『BEAT UP GENERATION』)。そのようにコンスタントに出すなかで、1stアルバム『アナーキー』にあった初期衝動を保ちながらどう進化していくか。それはやはり難しいことではあっただろう。

 マンネリに対して唾を吐いていたはずなのに、自分たちがそこに陥ることに対しての葛藤と戦い。とりわけ歌詞にその苦悩が滲み出るようになった。がしかし、サウンドは1作ごとに進化した。パンクは下手でもいいのだと開き直る数多のバンドと違い、彼らはひたすら演奏力を磨いていった。とりわけ藤沼伸一のギタリストとしての覚醒は目を見張るものがあった。ソリッドなだけじゃなくブルースやソウルといったブラックミュージックにある粘り気をものにし、弾き方もファッションも佇まいも初期とはずいぶん変化した。

 初期はマリがイニシアチブをとっていたが、ある時期から音楽的には藤沼がバンドを引っ張っているように見えだした。ベース・寺岡信芳の演奏力もまた目に見えてアップした。コバンこと小林高夫のドラムもますますパワフルになり、そうしてリズムセクションがどっしりしたものになったことで、端的に言うならグルーヴがとんでもなくすごいバンドになった。

 そして茂のボーカルはもとより唯一無二。ヤマハ主催のアマチュア音楽コンテスト『EastWest』で最優秀ボーカリスト賞(及び優秀バンド賞)を獲得した後にデビューしていることからもわかる通り初めから破格の出力と破壊力を有していたわけだが、やはりバンドの演奏力のアップと共に威力が増していった。タテノリでぶっとばすパンクバンドから、ヨコもタテも自在にいけて奥行きも表現できるロックバンドへ。『REBEL YELL』『デラシネ』『BEAT UP GENERATION』と、この頃のアナーキーはアルバムを出すごとにサウンドの進化と深化をはっきり示していたのだ。

 よって自分も歌詞より音とグルーヴを楽しみにアナーキーのアルバムを買うようになった。当時、そのことをきちんと伝えている音楽誌は自分が知る限りなかったが、リアルタイムでちゃんとそれに気づいていたミュージシャンは少なくなかったと、あとになってわかった。そのひとりに山下達郎がいる。山下達郎はこの頃、アナーキーの演奏力とグルーヴの強靭さ、ほかのバンドにない雰囲気に惹かれ、アルバムが出る度に買っていたと、インタビューした際に話していた。

 1986年にマリが事件を起こして逮捕され、4人になったアナーキーはTHE ROCK BANDと改名。86年、87年と2枚のアルバムをリリースした。ブルースロック的な色合いが濃くなったことで後期よりも音の見せる景色が広がり、とりわけ五木寛之の短編小説からインスパイアされて作られたという1987年の2ndアルバム『四月の海賊たち』は歌詞も以前よりずっと練られ、粘り気のあるグルーヴは当時の数多の日本のバンドをまったく寄せつけない最強レベルに。それはもう日本ロック史に残る傑作と言っていい完成度だったのだが、メンバーそれぞれの活動もこの頃から活発になり始め、その後バンドは活動休止状態となる。

 それから約8年。1994年にはアナーキーとして2夜限りの再結成ライブを行ない、その模様を丸々収めたライブ盤『ANARCHY LIVE 1994』は「これ1枚でアナーキーがわかる」と言えるような傑作に(「東京イズバーニング」も「タレント・ロボット」もピー音なしで収録された)。また1996年にも1夜限りの再結成ライブを赤坂BLITZ (現:マイナビBLITZ赤坂)で行ない、自分を含むかつてのファンたちを熱狂させた。そして翌97年には茂、伸一、寺岡の3人に当時WRENCHのドラムだった名越藤丸を加え、ラウドなデジタルロックへと音楽性を大きく変化させた新生アナーキーの活動がスタート。2001年の活動休止までに『ディンゴ』など3枚のアルバムを発表した。

 5人組のアナーキー(1978年~1985年)。4人でのTHE ROCK BAND(1986年~1989年頃)。デジロックのアナーキー(1996年~2001年)。ざっくりとそのように変化しながら続いていったバンドの歴史はそこで終わったと思われたが、しかしそれは本当の終わりではなかった。

 自分が久しぶりに茂、伸一、寺岡、コバンというオリジナルメンバーのうちの4人が揃ったライブを観たのは2010年1月23日。新宿ロフトで行われた茂の50歳記念ライブ『THE COVER SPECIAL』だった。そこではアナーキーと同年デビューのザ・ルースターズから花田裕之、下山淳、井上富雄、池畑潤二の4人も出演し、アナーキーとザ・ルースターズそれぞれの初期曲が多く演奏された。

 そしてその3年後の2013年5月4日。恵比寿リキッドルームで行われたイベント(『TOWER RECORDS presents “MAVERICK KITCHEN”』)で、マリも加えたオリジナルメンバー5人のアナーキーが突如という感じで一度きりのライブを行なった。この5人でのライブ実現は17年ぶり。自分はアナーキーが見たいがためだけに行ったのだが、深夜にステージに現れたアナーキーは確かMCもなく30分程度の短い時間を花火が爆発するような感覚で一気に駆け抜けた。一瞬のように思えたそのライブはテンションも音の迫力も何もかもが凄まじかった。それぞれが個別にほかのバンド活動やサポートなどで腕を磨いてきて、それが再びひとつになるとこんなにも凄いのかと自分は圧倒され、アナーキーはまだ終わりじゃないことを確信した。ちなみにそのとき演奏されたのは8曲で、1曲目はこのとき初披露された新曲。それは今回の新作のタイトルにもなった「パンクロックの奴隷」だった。

 そこから4年が経ち、2017年7月2日には新木場スタジオコーストでのフウドブレイン20周年記念『FUÜDOBRAIN MUST DIE』に再び5人のオリジナル・亜無亜危異で出演することが発表されたのだが、しかしその公演の1カ月前(6月4日)、ギターのマリが急逝。だがバンドは出演をとりやめることなく4人でステージに立ち、マリへの思いもこめて爆発的なパフォーマンスを見せた。ステージ上にはマリのマーシャルアンプとギター。ハンガーにマリの服も掛けられ、茂は「マリ、起きろよ!」と何度か叫んでいた。

 マリの音楽愛をどう受け継いでいくか。彼への思いをどう昇華していくべきか。そういったことを考えたのと同時に、アナーキーとしてのライブの手応えもまた確かにあったのだろう。だから4人は新木場Studio Coastからわずか半年後の2018年1月8日、新宿ロフトで亜無亜危異として再生ライブを敢行した(新作『パンクロックの奴隷』にはその映像を収めたDVDが付いている)。

 迷ったり考えこんだりしているより、すぐに動くことがロックであり、マリもきっとそれを喜ぶに違いないという思いが背中を押したのだろう。ライブ後半、「残念ながらマリはいなくなっちゃったけど、オレたち4人でもアナーキーやりてえんだよ! アナーキーやりてえんだよ!」と叫んだ茂。そこからアナーキー唯一のバラード「“530”」へ。その曲が収められた2ndアルバム『’80維新』が出た当時、自分は「バラードなんか歌ってんじゃねえよ」と思ったものだったが、しかしマリのことがあってこの曲を聴くとなると、さすがに激しく胸を揺さぶられた。

 茂はまた、メンバー紹介のときに3人を紹介したあとで「お守り、マリ!」とも言っていた。日本でトップレベルに上手いギタリストの伸一(そういえば昔、泉谷しげるにインタビューした際、LOSERのギターがチャボ(仲井戸麗市)から伸一へと代わったことについて触れ、「藤沼はチャボと並んで上手いギタリスト。ある部分においてはチャボより上手いんじゃないかな」と話していたのが印象に残っている。泉谷が長きにわたって伸一を手放さないのはよくわかる)とベーシストの寺岡は“クールに熱く”グルーヴを生み出し、終盤に至って満身創痍といった感じのコバンはしかし最後まで気迫に満ちたドラムを叩き、何度もダイブして終盤には何度となく客にアナーキーコールを促していた茂はそれでもまったく声を枯らすことがなかった。久々に長尺のアナーキーのライブを体感し、「やっぱすげえや、このバンド」と自分は実感したものだった。

 そうしてアナーキーは「不完全復活」を堂々宣言。一夜や二夜に限っての復活ではなく、なんと新作をレコーディングして、ツアーも行なうことを発表したのだ。で、4月末の『ARABAKI ROCK FEST.18』出演を挿み、ここにリリースされたのが新曲6曲からなる『パンクロックの奴隷』。

 先にも書いた通り表題曲は2013年5月のライブで初披露された曲であり、「くるくるパトリオット」は今年1月の新宿ロフトで初披露された曲だ。ソングライトの面で伸一がかなり力を発揮しているこのアルバムは、初期からバンドが一貫して持ち続ける怒りをユーモラスな皮肉も混ぜながら明快に表現。

 「くるくるパトリオット」で北朝鮮のミサイル発射など近年の時事と愛国心を重ねて織り込みもするが、シリアスになりすぎずシンガロングしやすいメロディに乗せて面白おかしく表現するあたりはアナーキーのある意味での真骨頂。〈知ったかぶりぶりブリティッシュ〉なんていうフレーズからは〈あっちへふらふらフラメンコ、こっちへよろよろヨーロピアン〉(「シティ・サーファー」)から変わってない中2的な発想も見えてむしろ嬉しくなる。

 サウンド的にも、ひとまわりしてもう一度初期衝動をそのまま音にしたようなパンクっぽいノリが前に出ていて、アナーキー後期やTHE ROCK BAND期よりもアナーキー初期と繋がる感じだ。といっても演奏力のとびぬけたバンドである故、初期とは音の厚みが段違い。要するに“これだけ演奏力に秀でたバンドがこれだけ単純明快で初期衝動を表わした音楽をやるとこんなにもかっこいい”ということを一瞬でわからせるサウンドになっている。

 何よりどの曲も怒りが根底にありながら、曲調が底抜けに明るいのがいい。楽しくて、痛快。ライブで聴いたら死ぬほど盛り上がるに決まってる曲ばかり。聴けば誰でも中学生や高校生で初めてロックを聴いて無条件に興奮したあの感じが甦ってきて、熱くならないではいられないだろう。

 頭もそんなによくないし、社会に適応できないし、要領なんて全然よくないけど、ばかでかい音に乗せて、大きな声で叫んで、叫んで、とにかく叫ぶことを繰り返していれば、いつかは目の前の壁が崩れて何かが変えられるんじゃないか。変えてやる! そういう闇雲なパワーや気概に満ちたロックと出会えることはほとんどなくなってしまったし、それを嘆くこともまた時代遅れだったりするだろう……と、そう思っていたけど、2018年の今、不完全復活を果たした亜無亜危異がそんなロックを迷いなくやっている。不完全なオレたちのための不屈のパンクロック。こっちも向こうもいいおっちゃんになったけど、楽しみはまだまだこれからだ。(内本順一)

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