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小説の“翻案”、もしくは映画としての“再構築”? 『ハナレイ・ベイ』が描く「距離」と「触れる」

リアルサウンド

18/10/26(金) 10:00

 ここハナレイ湾でたった一人の息子を失ったサチ(吉田羊)は、ハワイ・カウアイ島というバカンスの地には不似合いに見える。眩しく降り注ぐ陽光とは対照的に、彼女の表情は冷たく、どこか感情というものを欠いているように思えるのだ。それから10年間、彼女は毎年同じ時期になるとここで過ごすのであるーーこれが村上春樹による短編小説の映画化作品『ハナレイ・ベイ』の物語のあらましだ。40ページほどの短い小説が、『トイレのピエタ』などの松永大司の手によって、いつまでも忘れられない97分の長編映画に仕上げられている。

 小説版の出だしはこうだ。

“サチの息子は十九歳のときに、ハナレイ湾(ベイ)で大きな鮫に襲われて死んだ。”

 これが映画版では、

“息子は、ここハナレイ・ベイで大きな鮫に襲われて死んだ。”

 となっている。似てはいるが、前者が第三者の視点で語られているのに対し、後者は主人公の主観で語られている。文字で記された情報と、当事者の声で語られる事実とでは、その感触は大きく異なるだろう。俯瞰的に語られていた物語が映画化に際して見事に換骨奪胎され、主人公・サチの視点に寄り添い、彼女とともに過ごす97分の中で、やがて私たちは彼女との同化へと誘われ、濃度の高いエモーションを味わうこととなるのだ。

 短編小説の長編映画化とあって、原作から改変された点はいくつも見受けられるのだが、やはり大きな点は、サチと彼女の死んだ息子・タカシ(佐野玲於)、そしてサチがハナレイで出会う2人組の若い日本人サーファー・高橋(村上虹郎)、三宅(佐藤魁)との関係をよりじっくり描いている点だ。タカシのいた“過去”と、タカシのいない“現在”。そして、彼の死から10年が経過したときのハナレイでのサチと若者たちとの“触れ合い”が、よりフォーカスされている。村上作品の大きな特徴である“春樹調”なセリフ回しはなく(そもそもこの原作自体、それが控えめであるように思う)、どこかアイロニカルな調子のある物語はあくまでベースであり、人々の触れ合いにウエイトが置かれている点が本作の肝となっているのだ。そういった意味では小説の映画化というよりも、小説の“翻案”、あるいは映画としての“再構築”といった印象が強い。

 イギー・ポップの「The Passenger」が夜明け前の海に鳴り響き、そのビートに合わせてタカシは青い波と戯れる。開巻直後の光景だ。そして10年後には同じように、若者2人が波と戯れる姿が映し出される。原作は短編だったとあって、ここに関する情景描写は控えめであったが、映画ではこういったハナレイの自然と人間との戯れが丁寧に扱われる。波立つハナレイの海とサーファーたちの、のどかな光景。しかし、たしかにタカシはここで、鮫に片足を食いちぎられて命を落とした。

 原作にもあるセリフで印象的なものが本作にも登場する。息子のタカシを失ったばかりのサチに向けられる、「息子さんは大義や怒りや憎しみなんかとは無縁に、自然の循環の中に戻っていった」という言葉だ。この言葉のとおりにタカシは、ハナレイの自然に、ハナレイの海に戻っていったのだろうか。

 たびたび挿入されるサチとタカシの様子を見れば、彼女らの親子関係があまり良好ではなかったことが分かる。2人はすれ違ってばかりで、身体と身体、心と心の間には距離があった。そこには親子として一つ屋根の下に暮らしながらも、「触れる」という行為が欠けていたのだ。ラジカセ、下着、サーフボード、Tシャツ、サンドイッチ……と、物を介しての交流しかなく、たしかな「距離」があったのである。

【写真】サチとタカシの劇中でのひとコマ

 本作ではこの「距離」と「触れる」ということが、視覚的に具体的に示されている。サチは浜から離れたところの木陰にデッキチェアを置き、そこで読書をする。日が傾き、木陰の位置が変わればそれに合わせて移動する。タカシが「死んだ」、そして先に述べた言葉をいま一度思い返すのなら、タカシが「戻っていった」かもしれない自然から彼女は「距離」を取ろうとするのだ。彼女がこのバカンスの地に不似合いに見える所以でもある。

 しかしサチは、19歳で死んだタカシとどこか重なる2人の若者と交流をしていくうちに、彼らと「距離」を縮め、やがては積極的に「触れる」ようになっていく。次第に彼女の顔には喜怒哀楽の色が浮かぶようにもなってくる。そして彼らから“片足の日本人サーファー”の話を聞いてから、サチは潮風が巻き上げる浜の砂を肌にはりつけて、日がな一日“それ”を探し続ける。ハナレイの陽光を浴びて自然との「距離」を縮め、海の水に、この地に根を張った木に、彼女は「触れる」のだ。タカシとの間接的な触れ合いとも見て取れるこの行為の先には、なにがあるのだろうか。それはハナレイ・ベイの穏やかな波音と、彼女の微笑みが示す通りである。

(折田侑駿)

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