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ちっちゃな思いやりが“でっかな愛へ” 『バジュランギおじさんと、小さな迷子』が描く、越境の旅路

リアルサウンド

19/1/28(月) 10:00

 “ちっちゃなちっちゃな思いやりが でっかなでっかな愛となる”とは、平成中期の前半(具体的には2001年)にモーニング娘。が発表した、「でっかい宇宙に愛がある』という楽曲にあるワンフレーズである。こんな少々夢見がちでのんきなフレーズを、ふいに思い出してしまう映画が、平成の終わりに日本に届けられた。『バジュランギおじさんと、小さな迷子』だ。

参考:インド映画歴代No.3のヒット作 『バジュランギおじさんと、小さな迷子』予告編

 見知らぬ土地で迷子になった少女の前に、ひとりのヒーローが現れるーー。彼こそ、タイトルロールともなっている“おじさん”・バジュランギ(サルマン・カーン)である。2015年にインドで製作・公開された本作は、歌に踊り、鮮やかな色彩がそこかしこに散りばめられた、あらゆる境界線を越えていく痛快な作品だ。いまこそ私たちは、このニューヒーローを温かく迎えたい。

 物語のアウトラインはいたってシンプル。母とともにパキスタンからやってきた少女・シャヒーダー(ハルシャーリー・マルホートラ)が、ひょんなことから一人インドに取り残され、そこで出会ったバジュランギが彼女を故郷へと送り届けるというものだ。

 しかし目の前には、いくつもの越えがたき壁がある。インドとパキスタン。そこには、宗教、歴史、文化が生んだ対立があり、それは、あらゆるところに引かれた境界線とも言い換えられるだろう。表層部では愉快なボリウッド映画の体をとっている本作だが、深層的な部分では、両国間に横たわるもろもろの事情を読み取ることができるのだ。そして何より、バジュランギとシャヒーダーは、声をともなったコミュニケーションを取ることができない。そもそも、6歳の娘がいまだに言葉を発することができないのを心配した母親が、彼女の声が出るようにとインドまで願掛けにやってきたところから本作ははじまっている。まだ幼い彼女は独りぼっちの寂しさに暮れながらも、バジュランギたちの優しさに触れ、いつも母の前で見せていた笑顔をやがて浮かべるようになっていく。

 この迷子の少女のヒーローともいえるバジュランギ。彼はヒンドゥー教のハヌマーン神の熱烈な信者であり、“度を越えた”正直者である。インドからパキスタンへは、心ならずも不法入国のかたちとなるのだが、となればこれは、命を賭しての一大ミッションだ。そこでは危険な駆け引きなどが想定されるが、先述したように、彼は“度を越えた”正直者なのである。不法入国をしようとも、相手方の許可がなくてはそこから先は動かない。「ハヌマーン信者はコソコソしない」それが彼の信条なのである。W・シェイクスピアの『ハムレット』には、“正直者なんてのは、今のこの世の中じゃ一万人に一人いるかどうかだ”といったセリフが登場するが、彼の場合こんな枠組みにもおさまらないだろう。この男にさえ出会っていれば、ハムレットも父の亡霊に魅せられずにすんだのではないか、そう思えるほどである。

 さて、本作がもっとも魅力的である点は、この正直者のバジュランギが、シャヒーダーにとっての“私のヒーロー”から、やがて“みんなのヒーロー”になっていくことにある。二人の出会いの場面はミュージカルによって演出されているが、そのパフォーマンスの中心にいる彼こそ私(たち)のヒーローだと、彼の踊りに魅せられたシャヒーダーと私たちの気持ちはシンクロする。突飛な展開ではあるが、インドの大スターであるサルマン・カーンの歌と踊り、そしてやがて少女が笑顔を取り戻すことによって、彼のヒーロー性は確証を得るのである。

 二人の旅路に要される時間(上映尺)は159分だ。いくら楽しい作品だとはいえ、長いと感じざるをえない。しかし、あらゆるものの越境の果てに到達するフィナーレは、対立する両国の人々が“みんなのヒーロー”としてバジュランギを讃える場面である。ときにハラハラ、ときにホッコリするエピソードの数々や、祝祭的なシーンの連続は、凍てついた国と国との隔たりを溶かすための、必然的な熱量に還元(換言)できる。ロードムービーをベースに、ときにサスペンスフルに、ときにユーモラスに、いくつものエピソードが重ねられ、かつてサタジット・レイが描いたような、“いいことがあれば、悲しいこともある”そんな当たり前で慎ましい人間讃歌が気分爽快なボリウッド映画らしく高らかにうたわれているのだ。

 「大きな愛の物語」と本作をくくってしまうのには少々気恥ずかしさを伴うが、しかしこの「愛」こそが、一大ミッションを実現させるのは事実である。だが振り返ってみると、この大きな愛の発端は、小さな少女の小さな思いやりにある。彼女は母とのインドからの帰りの道中、停車した夜行列車の車窓から、一頭の子ヤギが穴から抜け出せないのを発見し、救出。とたんに列車は走り出し、置いてきぼりをくってしまったのだった。彼女にとっては大きな不幸であるが、これがあったからこそバジュランギと出会うことができたのは言うまでもない。このワンシーンを振り返ったときに、冒頭に記したフレーズが脳内で反響してしまうのである。

 たしかに夢見がちでのんきな理想ではある。しかし映画とはいえ、こうして「愛」の奇跡を目の当たりにしてしまった今、改めて広く共有したい、シンプルな理想ともいえるのではないだろうか。

 他者への無理解と不寛容が蔓延し、やがて平成の終焉を迎えるという今こそ、この大きな「愛」の物語が日本に届けられたことを讃え、広く多くの人々に届くことを切に願いたい。

(折田侑駿)

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