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オダギリジョーの“わがままでぜいたくな”一作 『ある船頭の話』に込められた現代社会への問い

リアルサウンド

19/9/21(土) 10:00

 俳優のオダギリジョーが、自身初の長編監督作『ある船頭の話』を完成させた。「俳優をやりながら片手間に監督業に手を出していると思われるのも嫌だったし、俳優だから撮らせてもらえる状況に甘んじるのもすごく失礼に思った」とオダギリは語る。シナリオを書いてから10年ほど放置していたのだという。2年前、ウォン・カーウァイ監督『恋する惑星』『花様年華』などで知られる撮影監督クリストファー・ドイルの監督作『宵闇真珠』(2017)に出演した際に、ドイルから「お前が監督するなら俺がカメラをやる」と言われ、それが製作開始の引き金となった。

 橋の建設工事が進む山間部の川。トイチという名の船頭(柄本明)が長年一人で渡し舟を漕ぎ、村人や街からの来客を運んできた。「橋が完成すれば、便利になるよ」。乗客たちはトイチの心情を気にもかけず、そんなことを放言する。この映画は驚くべきことに、舟の上と、両岸の狭い範囲だけでロケされている。2時間17分という決して短くない上映時間のあいだ、私たち観客はただただ渡し舟の緩慢なすべりに身をゆだねていればいい。陸(おか)という陸はひたすら不吉な空間にすぎないのだから。時代ははっきり説明されないものの、明治後期あたり。トイチが舟を漕ぎながら見聞きする乗客たちのよもやま話、噂話、憎まれ口は、客が向こう岸に着けば泡のように消えてしまい、代わって虫や鳥の鳴く声、水の流れる音、風の吹く音、草木の揺れる音があたりを支配する。ロケーション条件はミニマリズムだ。

 この映画の目的は、ミニマリズムの条件を温存したまま、幻想、幻視、できごとをちょろちょろと噛ましつつ、陸(おか)の不吉さがいつのまにか防ぎようもなくあたりに立ちこめた状態を創り出すことにある。闖入によって視線の劇構造は、むしろがぜん活気を帯び始めるのだ。最初からある闖入物は、橋の建設工事で、橋の完成はトイチをお役御免にするだろう。そして工事の進捗につれて、水質も悪化しつつある。ロケ地は新潟県の阿賀野川。古来より清冽な水で流域の住民に恵みをもたらしてきたが、この映画の舞台となる明治年間から数十年後の高度経済成長期に、工業廃水により水俣病事件が発生したことで有名になった川だ。オダギリジョーは、ただ単に風光明媚さだけでロケ地を選んだわけではあるまい。阿賀野川の清冽さ、美しさと共にその苛酷な歴史的記憶をも、この映画の中に併吞しようとしたのではなかったか。

 この映画最大の闖入者は、深傷を負って上流から流されてきた少女、おふう(川島鈴遥)である。トイチの手当によって息を吹き返したおふうは、トイチの小屋に居つく。ワダエミによる衣裳が大胆で、おふうの緋色のチャイナ服(のようなもの)はまるで1980年代イエロー・マジック・オーケストラのコスチュームだ。荒唐無稽な緋色が差し色された、ただその一点だけで風景の様相は激変してしまう。それまでの岸から岸への往復運動の単調かつあいまいだった視線のありようが、突如として掻き乱されていく。老いた船頭と、救助された少女の視線の交錯は、それまでのあいまいなものではもはやなく、眼球と眼球を一本の軸で熱く結びつけ、川の流れをディアゴナル(斜め)に貫いていく。このディアゴナルな視線の発生は深刻な事件性を呼び起こさずにおかないだろう。その予感をトイチは、おふうの名前からさぐり当てようとしている。

「(おふうという名が)もし風という意味ならおもしろいなって言いたかっただけだ。ほら、風向きで水の流れが強くも弱くも、川の性格まで変えちゃうだろ。俺が船頭で、お前が風ってのが、変だなと思っただけだ」

 新藤兼人監督『石内尋常高等小学校 花は散れども』(2008)以来11年ぶりの主演となった柄本明の一挙手一投足がすばらしく、そこには本当にトイチという船頭がいて、トイチが動き、視線を投げ、トイチが声を発している。ただし、オダギリジョーは他の俳優には細かい演技指導はしたものの、柄本明にはそうしなったようだ。「オダギリさんはあまり話さないですね。もっと話しかけて来ればよかったのにと思う時があるけれど、今村昌平監督にもあまり話しかけられなかったな。“大丈夫ですか?”って言ってくれたり言葉遣いは優しいんだけど、やらされることはきついね(笑)」と柄本は言う。いっぽうオダギリの柄本への思いは次のように語られている。

「柄本さんとは何度も共演していますが、心を許してくれている感じがなく、僕はそこが好きだったんです。柄本さんは簡単に言うことを聞いてくれる人ではないだろうし、僕の内面まで見通してくるに違いない。一切の甘えを許さない状況が生まれるのは柄本さんだろう、という結論に至りました」

 本作のヴェネチア国際映画祭での上映を終え、先日、日本外国人特派員協会で帰国会見がおこなわれた際、オダギリは「健康診断の結果があまり良くなかったため、残された自分の時間を改めて考えて、やっぱり映画を撮りたいと思った」(https://eiga.com/news/20190910/11/)と述べたが、こうした波紋を呼ぶ発言は真実かもしれないし、ひょっとするとプロモーション的計算もあるかもしれない。そしてこの会見でもやはり、先輩俳優(柄本明のこと)を信頼しているため「芝居をつけるのを避けました」と述べている。どうやら監督オダギリジョーと主演の柄本明のあいだに相当の緊張感と葛藤があったらしいことを、筆者の知るある関係者も証言してくれている。

「クランクインして最初の一週間で口内炎が20個近くできて、何も食べられなくなりました。ゼリーやスープしか口にできない状況で、いきなり5キロ以上体重が落ちました」

 オダギリの心労が上記の発言からまざまざとわかるが、それもまた映画製作のひとつのありようだ。ハリウッドでも、誰もが知っている名作・傑作の監督と主演俳優の関係がしっくりこなかった、撮影後半はまったく口を利かなかったなどというエピソードは掃いて捨てるほどある。とにもかくにも「あとはいいものに仕上がっていればいい」と柄本は言う。ロケーションは友だち作りのためではなく、映画に身を捧げるための供儀空間である。ロケ地にえらんだ阿賀野川は山深い場所で、ゴツゴツとした岩場。カメラポジションを少し変えるだけで一苦労だ。キャリア豊富なクリストファー・ドイルも「人生の中で最もハードな撮影だった」と述懐している。

 この苛酷な製作環境の中から絞り出されたものは、わがままでぜいたくなものだ。これ一本で終わってしまっても差し支えないという監督オダギリの開き直りがそのまま写っている。岸と岸とを結ぶ動線を往還する前半から打って変わり、蠱惑的な緋色の闖入者によって、達観していたはずの老船頭の心理が撹乱され、兇暴なるディアゴナルな視線の交錯が生起し、美しい川の流れは一転して事件性の匂いを、臆面もなくあたりにまき散らす。それまでカメラはほぼつねに、川の流れに対して垂直に向けられ、風景を人の視線に寄り添わせていた。ところが、事件性の匂いが発散された今となっては、カメラもまた臆面もなく、岸辺からの無人格的なロングショットもドンとやり始め、あげくには山水画のごとき、神格的な俯瞰ショットさえ登場する始末だ。これはもはや、この映画における渡し場の秩序が完全に破綻し、兇暴なるディアゴナルな動線を、そして垂直から並行的トラベリングへの移行を、映画がこらえようもなく画面に許してしまった結果なのだ。

 このような破綻ぶりを自作の中に埋め込める映画作家は、そんじょそこいらにいるわけではない。どんなに凄惨なバイオレンスを描こうが、どんなに豪快なスピードに身を預けようが、どんなに過激に社会通念から逸脱しようが、ほとんどの作り手はせいぜいが「ワルの予定調和」に回収されてしまう。オダギリジョーは一見するとミニマリズムから出発し、渡し舟の緩慢なトラベリングから一度たりとも身を離すことなく、世にはびこる予定調和をしずかに、そして兇暴に踏み外して見せた。これが稀有なアクロバット的事態であることに、私たち見る側は謹んで驚かねばならないと思う。(荻野洋一)

※文中のオダギリジョー、柄本明、クリストファー・ドイルの発言は映画プレス内より

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