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3人の「アーティスト」から、デイミアン・チャゼル新作『ジ・エディ』を読み解く

リアルサウンド

20/5/28(木) 12:00

 5月8日に配信開始になって以降、自分の周りでーーといっても最近は会う人も限られているので主にソーシャルメディアのタイムライン上の話になるのだがーー観てる人の間での評価はかなり高いのに、世間的にはあまり大きな話題になっていないような気がしてならないNetflixのテレビシリーズ『ジ・エディ』。Netflixは同じオリジナル作品であっても積極的にプロモーションする作品とそうじゃない作品の差が激しいのだが(世間で話題になってから後乗りしてくることも多々ある)、本作に関しては今のところ日本だけじゃなく海外でもそこまでプッシュされている気配がない。しかし、そのまま忘れ去られていいような作品ではまったくないので、こうして慌てて筆をとっている次第だ。

参考:『ラ・ラ・ランド』デイミアン・チャゼル監督が語る、ジャズと映画の関係

 というのもこれ、『セッション』で大ブレイクして、『ラ・ラ・ランド』で天下を獲って、『ファースト・マン』でハリウッド・メジャー大作でもその作家性を押し切ることができることを証明した鬼才デイミアン・チャゼルの監督としての最新作で、2017年秋に製作発表があった時は「あのデイミアン・チャゼルがテレビシリーズに!」と大いに話題になっていた作品なのだ。ちなみに自分は普段、できるだけ「鬼才」のような紋切り型の枕詞を使わないようにしているのだが、チャゼルに関しては何の躊躇いもなくこの言葉を使わせてもらう。だって、チャゼルは間違いなく鬼才そのものだから。

 エグゼクティブ・プロデューサーの1人。全8エピソード中、最初の2エピソードの監督。『ジ・エディ』におけるチャゼルの役割はこの二つ。もともとチャゼルは脚本執筆(『ラスト・エクソシズム2 悪魔の寵愛』、『グランドピアノ 狙われた黒鍵』、『10 クローバーフィールド・レーン』など)で本格的にプロの映画人としてのキャリアをスタートさせたわけだが、本作では『ファースト・マン』に続いて脚本にはタッチしていない。しかし、「アメリカ人の元有名ピアニストで、現在はパリのジャズクラブの共同経営者」という『ジ・エディ』の主人公エリオットの設定からして、あまりにもチャゼル的なキャラクターと言うしかないだろう。ちなみに本作の舞台となるパリのジャズクラブ「ジ・エディ」は架空のクラブだが、『ラ・ラ・ランド』ではパリにある実在の老舗ジャズクラブ、カヴォー・ドゥ・ラ・ユシェットでも撮影を行なっていて、劇中にはその名が刻まれたネオンの看板までしっかり登場していた。

 本稿では、撮影監督のエリック・ゴーティエ、映画監督のジョン・カサヴェテス、そして作家のジェームズ・ボールドウィンという3人の「アーティスト」から、デイミアン・チャゼル及び製作陣が『ジ・エディ』に込めた野心と意義を読み解いてみたい。

 フランス人の父(計算機科学者)を持ち、幼少期をフランスで過ごし、フランス語が堪能なチャゼルにとって、『ジ・エディ』は「フランスで作品を丸ごと一作撮る」ということともう一つ、長年の念願が叶った作品となった。チャゼルが監督した最初の2エピソードで撮影監督を務めているのは、『ラ・ラ・ランド』でも最初にオファーをしてスケジュールの都合で断られていたエリック・ゴーティエだ。ゴーティエといえば、アニエス・ヴァルダ、アラン・レネ、オリヴィエ・アサイヤス、レオス・カラックス、パトリス・シェローといった名だたるフランス人監督たちと組んで数々の傑作を作り上げ、最近では是枝裕和監督の『真実』でもその手腕を発揮していた名カメラマン。中でも1999年のカラックス『ポーラX』の生々しさと美しさを奇跡的なレベルで両立させた映像は個人的に強烈な印象として刻まれているが、チャゼルとの興味深い共通点として挙げられるのは、二人とも映画の世界に入る前はプロのジャズ・ミュージシャンを目指して音楽に打ち込んでいたことだ。

 そんなチャゼルとゴーティエはこれまで撮影現場以外で親交を温めてきたとのことだが、彼らの共犯関係は『ジ・エディ』において「16mmフィルムでの撮影」というかたちで結ばれることとなった。粒子の荒い16mmフィルムを使用すること自体、現在メジャーのフィールドで作られる作品としては極めて稀なことだが、それをNetflixの作品で押し通してみせたのはさらに驚くべきことだ。というのも、Netflixはオリジナル作品における映像スペックに関して「作品の90%は4K以上で撮られた作品でなくてはいけない」という厳密な規定を設けていて(Netflix作品が劇場で上映される際も、上映環境と音響設備には厳しい基準が設けられている)、その規定はドキュメンタリーであってもコメディ番組であっても適用されているからだ。『ジ・エディ』では、チャゼルが監督する最初の2エピソードは16mmフィルム撮影、残りの6エピソードはデジタル撮影というかなりアクロバティックな手法で、まんまと「脱法行為」をしている。

 『ジ・エディ』で16mmフィルムを使用した理由について、ゴーティエはニューヨークに拠点を置く「No Film School」(ポッドキャストなどで精力的に発信している、インディペンデント系の映画制作者たちのコミュニティ)で核心をついた発言をしている。「16mmで撮影するというアイデアはデイミアンのものでしたが、私もすぐに賛成しました。16mmを求めたのは物語の舞台であるパリ、そして本作の題材であるジャズと密接に結びついています。私たちは1960年代のヌーヴェルヴァーグと、それが1970年代のアメリカ映画に与えた影響からヒントを得ています」(引用:How Did Damien Chazelle Convince Netflix to Let Him Shoot 16mm?)。そこで「ヌーヴェルヴァーグから影響されたアメリカ映画」の筆頭としてゴーティエから具体的に作品名を挙げられているのは、ジョン カサヴェテスの『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』(1976年)だ。

 なるほど、舞台はパリのジャズクラブではなくロサンゼルスのストリップクラブだが、クラブのオーナーと出演者たちの運命共同体的な関係、借金をしたことでマフィアから追われる展開と、『ジ・エディ』と『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』には物語上においても多くの類似がみられる。また、ゴーティエの口から作品名こそ出ていないが、手持ちカメラによる即興的演出、黒人の主人公と周辺キャラクター、作品とスコアの関係を超えたジャズとの近すぎる距離という点で、当然、カサヴェテスの監督デビュー作『アメリカの影』も『ジ・エディ』の主要なレファレンス作品として挙げられるだろう。

 重要なのは、今回のそんな『ジ・エディ』での試みが、チャゼルにとっては原点回帰に他ならないことだ。日本では未公開のままだが、彼のインディーズ時代の監督(だけでなく脚本も撮影も編集も音楽も手がけた)デビュー作『Guy and Madeline on a Park Bench』(2009年)は、ゼロ年代においては珍しいほど青臭い、ゴダール作品やカサヴェテス作品への心酔と傾倒によって批評家から注目を浴びた作品だった。チャゼルは今回の『ジ・エディ』で、Netflixという資本、パリという舞台、そしてゴーティエという心強い共犯者を得て、再び映画作家としてのアイデンティティに立ち返ったわけだ。

 さて、そんな『ジ・エディ』だが、チャゼルが監督を担当した主人公「エリオット」のエピソード1、その娘「ジュリー」のエピソード2を経て(まるでジャズの即興演奏においてソロが入れ替わるように、各エピソードで焦点の当てられるキャラクターが入れ替わっていく)、デジタルで撮影されたエピソード3以降は画面の緊張感も物語のテンションも少なからず弛緩していく。そもそも本作がゴダール作品やカサヴェテス作品への手法面におけるオマージュを現代のパリを舞台に試みた作品であるならば、全8エピソード約8時間という長尺が必要だったのかという疑問もあるのだが、劇中で最も注目すべき台詞はエピソード7終盤におけるエリオットとジュリーの次の会話だろう。

エリオット「(髪型をアフロにした娘ジェリーに)髪型を変えて、どんな気分だ?」
ジュリー「とてもいい気分よ。もう自分自身と戦わなくてもいいと思えるようになった。あの本、ありがとね(父親エリオットがジュリエットに渡したジェームズ・ボールドウィン『切符の値段』のこと)」
エリオット「ああ。でも、あの本に書いてあることだけじゃない。ここパリで、僕ら黒人の歴史はずっと続いてきたんだ。ブリックトップ(20年代から60年代にかけてパリのナイトクラブで活躍した黒人のアメリカ人ボードビリアン)」
ジュリー「(首を振る)」
エリオット「アーサー・ブリッグス(20年代以降ヨーロッパで活躍してパリで生涯を終えた黒人のアメリカ人ジャズ・トランペット奏者)」
ジュリー「(首を振る)」
エリオット「ジョセフィン・ベイカー(ニューヨークからパリに渡って成功を収め、30年代にフランス国籍を取得した黒人ジャズシンガー)」
ジュリー「彼女のことは知ってる」
エリオット「うん………。自分もずっと自分自身と戦ってきた。音楽学校にいた頃、教師たちはみんな僕に『クラシックを演奏しろ』と言ってきた。言われた通りやってきたよ。でも、ある日わかったんだ。『これは彼らのクラシック(古典)であって、僕らのクラシック(古典)じゃない』ってね。そして気づいた。自分は長いこと自分自身を置き去りにしてきたってことを」

 熾烈な人種差別が横行する当時のアメリカ社会から逃れるために、1948年、24歳でニューヨークからパリに渡った黒人のアメリカ人作家ジェームズ・ボールドウィン(その作品や言葉が公民権運動において果たした大きな役割については、2018年に日本公開もされたドキュメンタリー作品『私はあなたのニグロではない』を是非参照してほしい)。ずっと関係を拗らせていた父エリオットと娘ジュリーは、彼のエッセイ集『切符の値段』を架け橋に、ようやくここで完全に打ち解ける。途中で物語が少々停滞していることは否めないが、そこには、ここまで7時間近く観続けてこなければ味わえない深い感動があった。そして、このシーンは本作『ジ・エディ』の根幹にあるテーマが「パリの黒人アメリカ人」であることを端的に指し示している。

 アメリカで活動しながらも、幼少期を過ごしたパリに憧れと郷愁を抱き続け、映画界で大成功を収めながらも、かつて自身がプロとして挫折したミュージシャンたちの物語を描き続けるチャゼル。「これは彼らのクラシック(古典)であって、僕らのクラシック(古典)じゃない」。「自分は長いこと自分自身を置き去りにしてきた」。その言葉に、そのままチャゼルの映画作家としてのこれまでの数奇なキャリアを重ねてみることも可能かもしれない。(宇野維正)

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