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横浜銀蝿、復活インタビュー 40周年へのチャレンジとチームのスピリッツを大いに語る

リアルサウンド

19/9/9(月) 12:00

 暴走族、校内暴力、不良。昨年のドラマ『今日から俺は!!』でも話題になった、1980年代に吹き荒れたツッパリ文化の中。その時代をリーゼントにサングラス、革ジャン、白いドカンというファッションで身を包み、軽快なロックンロールと共に駆け抜けた横浜銀蝿。あれから40年、元祖ツッパリロックバンド=横浜銀蝿が、Johnnyを加えたオリジナルメンバーで復活する。今だから明かされる銀蝿の真実? 80年代リバイバルで何を想ったのか? 40周年イヤーを目前にした彼らからは、60歳を越えても変わらぬ銀蝿スピリッツが溢れていた。(榑林史章)

横浜銀蝿でデビューするために暴走族を辞めたんです

ーー来年40周年を迎えるとのことで、今思うことは?

嵐:40周年ということは、単純にそれだけ歳を取ったんだなと思いますね。デビューした時は俺が25歳で、それから40年。来年65歳ですよ。そういう節目にオリジナルメンバー4人で、またこうして活動ができて感激しています。

翔:俺たち横浜銀蝿は1980年にデビューして、1983年12月31日に一度解散しました。その後は、それぞれでソロをやったり音楽関係の仕事について、嵐さんは事務所の社長として新しい子を育てたり、いろいろやってきて。だけどチーム横浜銀蝿がなくなったわけじゃない。一番熱い時期を共に過ごしてきた仲間とは、10年ぶりや20年ぶりだったとしても、いつでも当時と同じように会話ができる。今回40周年を迎えるにあたって、Johnnyが一緒にできるということが、俺たちにとっては何よりも嬉しいし、10代からやってきたロックンロールを続けられていることに改めて感動しています。

ーーJohnnyさんは1983年の解散以降、37年ぶりに横浜銀蝿に参加するわけですが、久しぶりに袖を通した革ジャンの感覚はいかがでしょうか。

Johnny:人生って本当に何があるか分からなくて、面白いものだなって思いますね。去年の11月くらいまでは想像もしていなかったけど、こうして40周年に向けたプロジェクトに参加できてうれしいし、人生まだまだ楽しいです。

TAKU:これくらい年齢を重ねると、トキメキとかワクワクとかって言葉を口にするのは、ちょっと恥ずかしいんだよね(笑)。でも、久々にすごくワクワクを感じています。自分たちが子どもの頃に見ていた先輩たちが、亡くなったり引退したりしていくのを見てきて、再結成しようにもできないバンドもある。そういう世代の我々が、オリジナルメンバー4人が揃った状態で40周年を迎えられるのは、本当に幸せなことだなって。

ーー横浜銀蝿と言えば、1980年代のツッパリブームを牽引した存在。昨年のドラマ『今日から俺は!!』が話題になり、嶋大輔さんが歌った「男の勲章」が出演者による“今日俺バンド”にカバーされたのもあって、当時のツッパリブームが改めて注目を集めました。あの状況は、どんな風に受け止めていましたか?

翔:そういうドラマをやる話は耳に入ってて、面白そうだと思って第1話を録画して観たんです。で、観たら最初に俺の顔が映って、「はぁ!?」って(笑)。「いやいや、そんなの聞いてないよ」って驚きました。

ーー映ることを知らなかったんですか?

翔:(嵐を指さして)言うのを忘れちゃうんです。

嵐:そうだっけ?(笑)。

ーーでも1980年代は、『今日から俺は!!』に出てくるようなファッションや制服、学校での出来事が普通にありましたよね。

翔:ツッパリブームというのは、簡単に一口では言えないけど、不良がハメをハズしたり、不思議な根性論があったり、仲間が力を合わせるとか……それは、若者の永遠のテーマだと思うんだよね。だから何年か周期で、そういうのが流行る。銀蝿がデビューした前後は、ちょうど暴走族や校内暴力が社会現象になって、それが時代を経て合致したのは面白いと思ったし、「これはチャンスだな」とも思った。

ーードラマの主題歌としてカバーされた「男の勲章」は、もともとは銀蝿の弟分としてデビューした嶋大輔さんの曲で、Johnnyさんの作詞作曲でしたよね。

翔:「男の勲章」は、80年代当時もドラマ主題歌としてヒットしたし、夏の甲子園で応援団がブラスバンドで演奏してくれていて。この年齢で涙もろくなったものだから、負けた高校球児に涙して、「男の勲章」が流れたことにも涙して(笑)。それが『今日から俺は!!』に取り上げられたことで、野外フェスなんかで歌うと、小学生の小さい子がドラマのオープニングのダンスを踊ってくれて、それが本当に嬉しくてね。

ーー『今日から俺は!!』効果ですね。

翔:でも、同時に「ドラマの曲をカバーしてる」と言われることもあって、それがちょっと腹立つわけです(笑)。大輔にあげた曲だけど、当時の俺らのアルバムにも銀蝿バージョンを収録しているから、俺らの曲だという自負もあって。子どもが踊っているのを見ながら「本家は俺たちだからな!」って、言いはしないけど思います。たまに大輔に会うと、「お前の歌かもしれないけど、俺たちの曲でもあるんだからな!」って(笑)。

Johnny:巡り合わせとかタイミングとか、やっぱりあるんだなって思うよね。1980年に横浜銀蝿がデビューして、当時は暴走族や校内暴力が社会問題になったことで、当時の若者から支持を得ることができた。あの3年前や3年後だったとしたら、同じような支持は得られなかったと思うんです。昨年また80年代がフィーチャーされて、俺たちにこうしてスポットが当たったことも、きっと巡り合わせだったと思います。

ーーデビュー当時、暴走族や不良の文化を取り入れたスタイルでバンドをやるというのは、ある種の狙いみたいなものがあったんでしょうか?

嵐:「狙ってそうやりました」という答えなら格好いいけど、決してそういう訳ではなくて。単にあれが、当時の俺らにとってのリアルだったというだけなんです。

翔:実際に暴走族に入ってたし、横浜銀蝿でデビューするにあたって辞めたんですよ(笑)。

Johnny:90年代にルーズソックスが流行って、世の中のほとんどの女子高生がルーズソックスを履いていたように、80年代は暴走族が社会問題にもなったけどブームになっていて。もちろん本気でやっている不良もいたけど、ファッションとしてやっているやつもいて、集会に何千台もバイクや車が集まることが、当たり前の現象としてあった。だから暴走族に入って走っていることは、当時は珍しいことでも何でもなくて。

翔:日本全国がそうだったとまでは言えないけど、暴走族に入っていなくても、車やバイク好きなら一度は集会に行ったことがあったと思う。

ーー当時の音源には、よくバイクの音が入っていましたけど。

翔:あれは、実際に改造バイクなんかが集まっているところにラジカセを持って行って、みんなにエンジンをふかしてもらって録ったんです。本当の集会の音を録って使ったから、暴走族のやつらは本物の音だと分かってくれて、それですごくファンになってくれたりしていました。

ドカンに革ジャンが正装みたいなものだった

ーーもともとは、バイクや車で走っているのが楽しかったみなさんが、音楽の道に進んだのは?

TAKU:当時の空気って言うか、車で走りながら聴く時の、仲間内の雰囲気に似合う音楽がないねって。じゃあなければ作ればいいじゃんって感じ。

翔:俺たちが車で聴く時をイメージして、じゃあテンポはこうでと言いながら作っていった覚えがありますね。「格好いいなあ~」って言いながら、自分たちで作ったデモテープをずっと、「これが売れない訳がない」ってバカみたいに言ってました。

ーー楽器は、それぞれでやっていたんですか?

翔:車やバイクの前に、影響を受けたのが音楽ですから。俺は、中2の時にチャック・ベリーに影響されて、すぐエレキギターが欲しくなって。それまでは吉田拓郎さんなどのフォークを聴いていたんです。中2の時に洋楽好きの友だちと出会って、ストーンズ(The Rolling Stones)とかレコードをたくさん聴かせてくれた中にチャック・ベリーがあって。それから50年代のロックンロールを聴くようになって、高校で出会ったのがJohnnyだった。

Johnny:俺が、こういうロックンロールのバンドをやりたいと思ったきっかけは、キャロルでした。テレビでたまたま観て、格好いいなと思って。もちろん俺もその前は、フォークを聴いたりしていたけど。

翔:今も覚えてるよ。高校に入ってすぐ、Johnnyが俺の前に座って自分のことを「Johnnyって呼んでくれ」って言ったんです。普通は仲良くなってからあだ名が付いたりするじゃない? それなのに初対面でいきなり「俺、Johnny。バンドやらない?」って。

Johnny:よく覚えてないけど(笑)。

翔:言ったんだよ。それで好きな音楽の話をして、バンドを組んで学園祭でやろうって。それまで学校は面白くなかったけど、自分のことをJohnnyって名乗るやつが現れて、これは面白いことになるなって思ったよね。それでメンバーを集めたんだけど、ドラムのやつが「ジャズをやりたい」って言い始めて抜けて、そこで嵐さんが入って……。

ーーその時は何て言うバンド名だったんですか?

翔:ただの“銀蝿”でした。

ーーでも、すでに銀蝿だった。

翔:俺とJohnnyが、嵐さんがバイト長をしていた店でバイトしてて、いつも休憩中に騒いでいたから、マスターから「お前らうるさいな。銀蝿みてえだな」って言われて。嵐さんが「それ格好いいじゃん」って気に入って、翌日にはもうステッカーまで作ってました。

ーーTAKUさんは、どのタイミングで入ったんですか?

翔:その後、俺と嵐さんとJohnnyで事務所のオーディションを受けたんだけど、嵐さんだけが受かって俺らは落っこちて。それで嵐さんは、他のメンバーを探して……。

TAKU:3人は横浜だけど俺だけ地元が東京で、矢沢永吉さんの『成りあがり』という自叙伝を読んで、俺も成りあがりたいと思っていたんです。それで『Player』という雑誌にメンバー募集を出したら、嵐さんがそれを見つけて連絡をくれて。それで“キャッシュ”というバンドを組んで。

嵐:お金が好きだから(笑)。

TAKU:で、キャッシュでフジテレビの特番に出られることになったんだけど、直前でバンドが解散してしまって。でもそのチャンスを逃したくないということで、翔くんとJohnnyを迎えて、そこで初めて4人が揃って、銀蝿から横浜銀蝿になった。

ーーリーゼントにサングラス、革ジャンにドカンというファッションは、その時から?

翔:その時も何も、当時は普段からドカンにTシャツ、女もののサンダル履きでバイクや車に乗るのが普通だったから。衣装とかの以前に、ドカンに革ジャンが正装みたいなものだったんです(笑)。そうしたら事務所の社長が、「365日その格好でいられるのか?」って言うわけですよ。もちろん「いられます」って言ったんだけど……。バイクや車に乗ってる時は良いけど、電車に乗る時もあの格好だから、ジロジロ見られて。

ーー電車で騒がれたりしなかったんですか?

Johnny:本物だとは思われてなかったです。似てる人だとか、今で言うコスプレじゃないかと思われて。

翔:でも社長との約束は、最後まで守りました。

TAKU:夜もサングラスしなくちゃいけないのは、さすがにきつかったけど。

Johnny:信じられないかもしれないけど、横浜銀蝿として活動した3年3カ月の間、メンバーと社長、担当ディレクター以外の人の前では、絶対にサングラスをはずさなかったです。近いスタッフにも、素顔を見せたことがなかった。

翔:ちょっと秘密めいているとか、どこか見えないところがあるほうが、男も女も魅力的じゃないですか。音楽もそうで、生活感が出たほうがいい場合もあればそうじゃないものもあるんです。

ーー当時は、『歌のトップテン』、『ザ・ベストテン』、『夜のヒットスタジオ』など歌番組によく出ていましたね。全部生放送で、曲やアーティストのイメージで、いろんなセットを作っていて。銀蝿さんは、金網が多くなかったですか?

翔:工事現場の赤いコーン、金網とかブロック塀とか。

TAKU:ガテン系だった(笑)。

翔:俺らだけ扱いが、ちょっと雑だったかも(笑)。アイドルの女の子なんか、スタジオをドライアイスが埋め尽くす中で歌って、間奏でドライアイスが吹き飛ぶと一面チューリップだったり。でも俺らは、スタジオの隅っこに工事現場でした。

TAKU:今思い出したけど、Johnnyがソロで「$百萬BABY」を歌った時は、ドライアイスや電飾を使ったりしていたよね。扱いが雑だったのは、Johnny以外の俺らに対してだったんだよ(笑)。

Johnny:覚えてない(笑)。

翔:でも『ザ・ベストテン』とかに何度も出ていると、美術の親方とも仲良くなって。ああいう人たちもガテン系だし、俺らはこう見えてマジメに音楽をやってたから、気に入ってくれて。「翔ちゃん、今日のセットどうだった?」とか、声をかけてくれるわけ。ある時「来週は金をかけるから楽しみにしてろよ」って言われて楽しみにしていたら、間奏にメンバーの顔が貼り付けられた蝿の人形が下りてきて。「美術のオヤジ、ふざけんなよ!」って心で叫びました。

ツッパリは俺たちの真ん中にあるアイデンティティ

ーーそういう時代を経ながら、今もみなさんやファンが愛してやまない横浜銀蝿の音楽。来年にはベスト盤とオリジナルアルバムをリリース予定とのことで、オリジナルアルバムの制作は、いかがですか?

Johnny:ただ好きなこと、今やりたいことをやっています。それは昔と変わらない、3コードでエイトビートのロックンロール。今レコーディングしているんだけど、思うのは「変わらないな」ということ。今はいろいろな録り方があるのに、相変わらず“せーの”で録ったりして、本当にアナログです。それが俺たちに合ってると思うし、古いとか新しいとかを通り越して、これが“横浜銀蝿”だと思うやり方でやってる感じです。

翔:全員が同じ空間で一緒に音を出していることの楽しさは、絶対音に出ると思うんです。横浜銀蝿の音は、この4人で臨場感たっぷりに鳴らすものでなければ出せない。歌詞も、今思ってることが、そのまま歌詞になっています。40周年を迎えるにあたってチーム横浜銀蝿として、何を思って何をするか。そのフレーズが面白いと思ったからそれを広げて、曲になっていくのが、まぎれもない俺たちのオリジナルだし。

ーー昔は、ツッパリ文化がみなさんにとってリアルだったから、それを歌っていた。今は、60代になったみなさんにとってのリアルなものが、歌になっているような?

TAKU:若い時は、諦めなければ夢に手が届くとか、届くまで頑張ろうということが、リアルに思えたしリアルに歌えた。今の俺たちがリアルに思うのは、やり残したことは何だろうとか、もう一度チャレンジできるとしたら、何ができるんだとかっていうことが多いよね。例えば感謝とか、若い時は分からなくて、今の年齢になったから分かることもある。そういうメンタルの変化は、どんなに隠しても絶対に出るから、そういうものは自然とアルバムに入ってきているんだろうと思います。

ーーじゃあ「ツッパリ還暦ロックンロール」みたいな曲はないんでしょうか?

TAKU:なくはないかもしれないけど(笑)。

翔:そもそも“ツッパリ”とか“ぶっちぎり”という言葉を使った曲がどうして生まれたのかと言うと……それ以前は、普通に愛や恋を歌っていたんです。それがある時ディレクターや社長から、「そんな格好をしているくせに、銀蝿じゃなきゃ歌えない歌は何かないのか?」って言われて。じゃあ俺たちが好きな車やバイクのこと、学校でJohnnyと楽しかったこと、サーファーの女の子に恋をしたことを歌にしてやろうって思って。そうやって追い詰められて、半ば開き直ってできていったものなんです。決して不良ブームだったから作ったんじゃなくて、俺たちにしかできない音楽は何だと問いかけられて、俺たちが遊んでいたことを言葉にして乗せたロックンロールを答えとして出した時に、ディレクターや社長から「それです」と言われて。それでデビューしたのが横浜銀蝿なんです。

 60歳を過ぎて40周年を迎える、今の俺たちにしか歌えないものが歌詞になりメロディになると考えると、当然「ツッパリ還暦ロックンロール」もあると思う。だってツッパリは、紛れもなく俺たちの真ん中にあるアイデンティティだし、実際に還暦を迎えているからね。

嵐:作ってもいいんじゃない? 「ツッパリ還暦ロックンロール」。

ーー本当にそういう曲ができるか、楽しみにしています(笑)。

翔:でも、本当に来年がすごく楽しみ。だって俺らが今、すごく楽しいから。ワクワクしてるから。当時から応援してくれてるやつらは、絶対みんな喜んでくれると思うし。ツアーもあるから、若い時を共に過ごした音楽を、何十年も経ってまた一緒に楽しめるというのは、絶対にプレゼントになると思うし。来てくれるみんなを裏切らないステージができるように、死ぬ気で頑張ります。

ーーみなさんにとって横浜銀蝿とは、ライフワークのような?

嵐:ライフワークどころじゃない。“人生そのもの”だよ。だって銀蝿がなかったら、今ごろ何をしていたか。

翔:今回は特にJohnnyが帰ってきてくれたことで、もう一度あの頃を始めるような感覚もあるけど、今思うのは、こんなに楽しい遊び場はないってこと。

Johnny:もともと、単なる横浜の不良ですから。まさか音楽で一生飯を食うとは、思ってもみなかったけど、当時の社長やディレクターには、本当に感謝しています。

TAKU:俺は嵐さんと出会ったのが18歳くらいだから、銀蝿をやっていない時の倍の期間が銀蝿なんです。自分を取り巻くものの一個として当たり前にあるものだから、それを「何ですか?」と聞かれても、言葉にするのは難しい。ただ、嵐さんと知り合わなかったらどうなっていたかってたまに考えるけど、そこはやっぱり感謝だよね。

ーー50周年60周年に向けてもやってほしいですね。

嵐:そんなにやったら死んじゃうよ(笑)。

翔:でも永ちゃんは9つ上で、加山雄三さんは82歳、高木ブーさんにいたっては86歳。そう考えると、俺たちにはまだあと20年あるんだよ。還暦になる時は、50周年60周年なんて絶対無理だと思ったけど、還暦を過ぎて40周年を迎える今となっては、素直に「50周年、60周年に向けて頑張ります」って言えるようになりました。でもその代わり、責任を持ってちゃんと追っかけて下さいね!

ーーはい。頑張ります!

(取材・文=榑林史章/写真=石川真魚)

横浜銀蝿40th 「男の勲章」MV short ver.

横浜銀蝿40th オフィシャルサイト

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