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有村架純が有村架純を演じる!? 豪華クリエイターたちが描き出す前代未聞のドラマ

リアルサウンド

20/3/18(水) 8:00

 製作決定の第一報がもたらされるや、多くの人々の注目を集めたWOWOWオリジナルドラマ『有村架純の撮休』。その放送が、3月20日(金・祝)の深夜0時から、いよいよ始まろうとしている。人々の関心を集めた理由は言うまでもない。このドラマで有村架純が演じるのは、なんと“有村架純”だというのだから。そう、本作はそのタイトルのごとく、“有村架純の休日”を描いたドラマなのだ。しかも、全8話が予定されている本作の監督を務めるのは、WOWOW初参加となる是枝裕和をはじめ、山岸聖太、今泉力哉、横浜聡子、津野愛という、映画やドラマ、MVなどで活躍する5人の監督たちであるという。2016年のNHK紅白歌合戦の紅組司会を務め、2017年の4月からはNHK連続テレビ小説『ひよっこ』に主演し好評を博し、その年の終わりには再び紅白の司会を務めるなど、いわゆる“国民的女優”として、年齢性別問わず多くの人々にとって馴染み深い存在となった有村架純。今年で女優デビュー10周年を迎え、役者として多忙な日々を送る彼女は、ドラマや映画の撮影期間に突然訪れた休日……いわゆる“撮休”の1日を、どのように過ごしているのだろうか? それを、豪華クリエイターたちが描き出す前代未聞のドラマ、それがこの『有村架純の撮休』なのだ。

参考:柳楽優弥との遊園地デートや伊藤沙莉と朝ごはんを食べる姿も 『有村架純の撮休』場面写真公開

 ひとりの役者を主役に据えて、複数名の脚本家と監督が、各話異なる物語を生み出す“競作”形式のドラマと言えば、かつて『週刊真木よう子』(テレビ東京系/2008年)という作品があった。けれども、今回のドラマで有村架純が演じるのは、あくまでも“有村架純”なのだから、それとは少々事情が変わってくる。とはいえ本作は、彼女のプライベートに迫るドキュメンタリーではなく……その意味では、遠藤憲一、大杉漣、田口トモロヲ、松重豊、光石研らが、それぞれ本人役を演じながら、彼らが共同生活を営んでいるという架空の設定で描き出された『バイプレイヤーズ~もしも6人の名脇役がシェアハウスで暮らしたら~』(テレビ東京系/2017年)に近いのだろうか。否、必ずしもそうではないようだ。是枝裕和監督による第1話「ただいまの後に」で母親役を演じる風吹ジュン、今泉力哉監督による第2話「女ともだち」で親友役を演じる伊藤沙莉など、“有村架純”以外の出演者は、特に本人役を演じているわけではなく、それぞれ“母親”役、“親友”役を演じているという。つまり本作は、“虚像”と”実像”が入り混じった、いわゆる“フェイクドキュメンタリー”のような類のものでもなく……あくまでも、有村架純が有村架純を演じる“フィクション”のドラマとして観るのが、どうやら正しいようだ。

 豪華なのは監督だけではない。このドラマの各話の脚本を担当するのは、今泉力哉、砂田麻美(『エンディングノート』)、篠原誠(WOWOW「WOWOWに入りましょう」CM)、ぺヤンヌマキ(演劇ユニット「ブス会*」主宰)、ふじきみつ彦(『バイプレイヤーズ』)、三浦直之(劇団「ロロ」主宰」)など、幅広い分野で活躍する8人の精鋭脚本家たちであるという。有村架純のプライベートなど知る由もない彼ら/彼女たちが、それぞれの“妄想”で描き出す“有村架純の休日”。ちなみに、ここで言う“妄想”には、ふたつの要素があるように思われる。ひとつは、「普段は、こういう感じなのではないか?」というイメージに基づいた“推測”。そしてもうひとつは、「普段は、こういう感じであってほしい」という個人的な“願望”だ。そのふたつが入り混じりながら、あるいはせめぎ合いながら描き出される“有村架純の休日”とは、果たしてどんなものになるのだろうか。そして、そんな“妄想”によって描き出される“有村架純”を、有村架純本人は、どんな気分で演じるのだろうか。「自分であって自分ではない自分を演じること」の難しさを述べつつも、有村架純本人は、本作に寄せたコメントの最後をこんなふうに締め括っていた。「『どれが本当の私なんだろう』と想像をしながら、見ていただきたいです。有村架純が豪華な監督、脚本家、キャスト、スタッフたちと一緒に『何か面白いことやったんだな』、『楽しんでやったんだな』と温かい目で見守っていただければ嬉しいです」と。なるほど、この度量というか、それらの“妄想“”を自らも楽しんでいるようなところが、このような異例の企画を実現させた、彼女の女優としての懐の広さであり、何よりの魅力なのだろう。

 さて、そこでふと思い起こされたのは、“らしさ”をめぐる問題だ。先日、あるテレビ番組で、ある女優がこんな質問を受けていた。「演じるときに、素の自分を何割ぐらい残して演じていますか?」。なるほど、鋭い質問だ。それに対して、その女優は、こんなふうに答えていた。「理想としては、自分はいらない……むしろ、消したいと思っています。だけど、演じていると、いろいろ雑念が入ってきて……それを狙っている監督さんもいらっしゃいます。役者自身の人間性が漏れた瞬間を見たいと」。これはあくまでも、その女優の意見だけれど、確かにそういうものなのかもしれない。というか、“素の自分”……すなわち、“その人らしさ”を決めるのは、果たして誰なのか。とりわけ、役者という職業の場合、それを決めるのは本人ではなくむしろ監督であり、我々観る側なのではないだろうか。本来、そのプライベートなど知るはずのない“誰か”に対して、「ああ、この役柄は、彼/彼女らしいな」と思わず感じてしまうこと。それが、本人の実像と近かろうが遠かろうが関係ない。観る人たちに自然とそう思わせてしまうことが、役者の本懐であり、演出の妙味なのだ。

 翻って、『有村架純の撮休』である。この、“らしさ”をめぐる問題は、出演俳優のみに適用される問題ではない。是枝裕和、今泉力哉など、その“作家性”が認知されている監督の場合、彼らが監督した作品に対しては、当然ながら我々も“その監督らしさ”を見出そうとするし、当の監督たちも、それを出そうとするだろう。ただ、本作の場合、さらに複雑なのは、第6話の今泉監督と第7話の津野監督を除き、各話の脚本と監督を、別の人が担当しているところだろう。これは果たして、その監督のテイストなのか、あるいは脚本家の持ち味なのか、はたまた有村架純自身のなせる業なのか。その“虚像”と“実像”のみならず、それぞれの“らしさ”が“競作”という形でせめぎ合う緊張感と面白さ。それが本作の何よりの見どころになるのだろう。

 そして、最後にもうひとつ。そのタイトルやコンセプトから、このドラマが、ともすれば有村架純のファン以外は楽しめないものになっているかというと、まったくそんなことはなかった。というか、この原稿を書くために、あらかじめ数話を先行して観させてもらったのだが……そう、本作は、ある種“コスプレ的”とも言えるような、彼女の“七変化”を楽しむようなドラマではなかった。もちろん、有村架純が有村架純を演じるということで、普段のドラマや映画などでは見られない彼女の表情を垣間見ることはできるだろう。けれども、回を重ねるごとに浮き彫りとなっていったのは、そんな有村架純という人間が、当たり前のことではあるけれど、我々が生きるこの世界と地続きの世界を生きていることなのだった。確かに“女優”というのは特殊な仕事ではある。けれどしかし、その仕事を離れて休日を過ごすとき、そこから浮かび上がるのは、いささか妙な言い方ではあるけれど、有村架純である以上に、ごく普通に今という時代を生きる、ひとりの20代女性の姿なのだった。家族や友人もいれば、仕事仲間だっているだろう。意外な趣味嗜好だってあるかもしれない。そんなひとりの20代女性である彼女は、今日彼女が置かれている立場や状況について、あるいは身の回りに起こる些末な出来事に対して、何を感じ、どんな態度を示すのだろうか。

 本作で描き出される“有村架純”は、物語を駆動する上でなにがしかの役割を与えられた“キャラクター”ではない。よって、その設定や縛りも緩やかなのだ。多少、何かが矛盾していたり、謎の部分が残ったっていいのだろう。だって、人間だもの。ある特定の役柄を演じるのではなく、本人が本人を演じるからこそ引き出される、フラクタルな魅力と無限の可能性。ひょっとすると、本作に参加しているクリエイターたちの真の“狙い”は、そこにあるのかもしれない。有村架純というひとりの女優のイメージを解き放つだけではなく、我々が生きるこの世界から、良くも悪くも浮かび上がった形で語られることの多い“女優”という存在(あるいは虚像としての“女優”)を、再び地に足のついたものとして描き直すこと。“女優”だって、嫌なことがあれば落ち込むし、楽しいことがあれば笑うのだ。などなど、考えれば考えるほど、あらゆる角度から興味深いドラマになりそうな予感でいっぱいの『有村架純の撮休』。まずは、是枝裕和監督/比嘉さくら脚本による第1話「ただいまの後に」からスタートです!(麦倉正樹)

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