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『映画刀剣乱舞』を傑作たらしめた小林靖子による脚本 “内と外”に向けた構造を読み解く

リアルサウンド

19/2/9(土) 10:00

 かつて宮崎駿や押井守、庵野秀明という才能たちと出会った時に似た興奮で、ある映画とある優れた脚本家について語りたい気持ちが続いている。公開後最初の月曜、通い慣れた川崎の映画館で、僕は『映画刀剣乱舞』を観た。初めに言ってしまうと、僕は原作のゲームをプレイしたことがない。だから僕が今から書くことは、もしかしたら熱心な原作ファンにとっては当然すぎたり、あるいは少しズレていることなのかもしれない。でも僕はこの映画を見ながら、昔観た懐かしい映画を幾つも思い出していた。雑誌『H』(ロッキング・オン刊)のインタビューで、刀剣男士・鶯丸を演じた廣瀬智紀が「この映画は時代を変える可能性のある作品だ」と語るのを後日読んだけれど、僕が映画館で思い出したのも、そうしたサブカルチャーの歴史を変えた作品たちだ。『刀剣乱舞』は間違いなくそれらの作品群に並ぶ、日本の女子ゲーム文化にとってのエポックメイキングな作品だと思う。

 まず書いておかなくてはならないのは、この映画が原作ファンの期待に応えた良質なメディアミックスであり、優秀なジャンルムービーだと言うことだ。原作のゲームは女性ファンをメイン層にしていて、この映画の刀剣男士たちもそのビジュアルデザインを踏襲している。マーベルやDCがアメコミ文化のルーツを重んじ、宝塚歌劇団のスターたちが自分たちの文化に誇りを持って演じるように、この映画は自分たちのジャンル文化、女子ゲーム文化の表象を高く掲げ、引き受けている。「一般向け」に修正され原作の美点を消されたり、予算の都合や業界の事情に歪められることなく、ファンの愛する文化の忠実な映画化に成功したジャンルムービーの傑作、それがこの映画の確かな一面である。

 でももうひとつの面としては、この映画は生々しい現実、歴史を生きた実在の人物を描いた人間ドラマでもある。それを描くために、おそらくこの映画は公開規模に比べ破格の制作費を投じている。耶雲哉治監督のツイートによれば公開規模は111館、他の大作群に比べ小規模での公開となったが、本能寺の変を描くために甲冑を着た多くの戦国武者が用意されている。本能寺や安土城のセットを組み、そこにCGではない本物の火矢を撃ち込んで組んだセットを燃やし、その炎で銀幕に戦国時代の深い闇と光を作り出す。本物の馬が登場し、ワイヤーアクションを使う。さらにこの上に時間遡行軍と呼ばれる敵の特撮スーツとCG効果が必要になる。これらすべてを実現する費用が高いことは想像に難くない。その上に、驚くべきことに、織田信長役に山本耕史、豊臣秀吉役に八嶋智人を起用している。

 山本耕史は『真田丸』をはじめ、NHK大河ドラマに4度出演している俳優である。八嶋智人も『新撰組』など、多くのドラマに引く手あまたの名バイプレイヤーだ。刀剣男士と時間遡行軍のSFアクション的戦いを描く『刀剣乱舞』という映画の中で、ある意味では背景的存在であるはずの織田信長と豊臣秀吉に対して、この映画はおそらく主演俳優以上の予算を投じている。いわば戦国時代劇と特撮アクションという映画2本分の予算を1本に投入しているわけだ。

 多くの観客が絶賛する小林靖子脚本は、原作ゲームを知らない外部とファンという内部、2つの観客に向けて映画を鮮やかに説明していく。刀剣男士内部の意見対立によって一人一人の性格を際立たせ、初めて見る観客にも彼らの個性を強く印象づけていく。またキャプテン・アメリカがアメリカ現代史に、ソーが北欧神話にルーツを持つように、実在した刀にその出自を持つ刀剣男士たちに過去の記憶を語らせ、その葛藤を描くことで観客の中の日本史と結びつける。小林靖子脚本は、ともすれば女性向けであるというだけで偏見を持たれがちなゲーム文化の世界観について、ファンの側に立ち、このサブカルチャーの美しい機微を外部に対して代弁するように、力強く繊細に語っていく。

 そしてもう一つの説明は、「刀剣乱舞」という世界観を愛するファンたち、いわば「内側」に向けた外部の世界の説明、自分たちの文化が現実のどの部分に位置するのかという説明である。それはかつて押井守が、特車二課という警察組織の末端で生きる現代的若者たちの日常を描いた『機動警察パトレイバー』という幸福な作品の外部に、劇場版映画という非日常空間を使い、冷たく硬い国家や政治という大きな枠組みを接続した手法に似ている。刀剣男士たちのリーダー・三日月宗近は、まるでパトレイバーに登場する食わせ者の管理職、後藤隊長が思想犯や愉快犯と向き合うような韜晦と老獪さをもって、野望のままに歴史をも変えんとする魔王・織田信長と対峙する。山本耕史や八嶋智人という優れた俳優の演技力はこの現実の混沌、複雑さを表現するために必要だったのだ。

 鈴木拡樹演じる三日月宗近は劇中で「今は守りたいものが増えるばかり」と微笑む。守りたいものとは、原作ファンが愛する刀剣男士たちの世界観、サブカルチャーの小宇宙だけではない。山本耕史の織田信長が見せる残忍さとぎらついた野望、八嶋智人の豊臣秀吉が見せる醜悪で人間くさい欲望、それらの美も醜も含めた現実を「守るべき歴史」と三日月宗近は語り、美しい虚構である刀剣男士は、残酷な歴史という現実にありのまま立ち向かうために存在することを示す。踏み折られた小さな草花と織田信長を等価なものと見なす三日月宗近は、まるで『ベルリン天使の詩』が描く、あるいはヴァルター・ベンヤミンが論じる歴史の天使のように見える。彼が魔王信長に一歩も引かず歴史哲学のテーゼを語る時、ゲームと時代劇、サブカルチャーとメインカルチャーは1本の大河のように混じり流れていく。それは過去の優れたサブカルチャーがいつも目指してきた場所なのだ。

 小さな島宇宙の中で育ったサブカルチャーが、蛹が羽化するように普遍性の階段を上る、幼年期の終わりを迎える瞬間が文化史の中には何度もある。押井守は『ビューティフル・ドリーマー』や『機動警察パトレイバー』でその瞬間を迎えたし、宮崎駿にとっては『ルパンⅢ世 カリオストロの城』から『風の谷のナウシカ』にかけての期間だった。庵野秀明にとってはたぶん、痛みや失意も含めて旧劇場版のエヴァンゲリオンだったのではないかと思う。『刀剣乱舞』というコンテンツにとって、それは今だ。もしもあなたがかつて何かのサブカルチャーを愛した子供であったなら、「上手く言えないけどとにかく樋口真嗣という特撮監督が撮る怪獣は他の怪獣映画と違うんだよ」と周囲に熱弁したことがあるなら、クレヨンしんちゃんの劇場版映画「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」が秘めた誠実さに打たれたことがあるなら、いつの日かこのクイーンという風変わりなバンドの物語を全世界が知る日が来るんだと信じたことがあるなら、SFや少女漫画やロック、小さな池で育ち大きな海へと泳ぎだした文化たちと過ごした日々を今も深く記憶しているなら、あなたは劇場でかつての自分たちのような、新しい世代の文化が羽化する瞬間を見ることができるだろう。そういう映画が劇場で公開されている時間はとても短い。『ビューティフル・ドリーマー』と『風の谷のナウシカ』が公開された1984年が二度と帰って来ないように。ガールズカルチャーのネットミームを借りるなら、それはとても「尊い」瞬間なのだ。

 最後にひとつだけ、映画の核心について触れたいと思う。先日ツイッターで、「日本には本当の意味で女の子が主人公であるアニメが少ない」という議論があった。ツイッターでは誰かがそうした問題提起をするたびに上を下へのドタバタ騒ぎが始まるのだがそれはどうでもよくて、映画を見た人はご存知のように、この映画にはたった一人だけ女の子が登場する。そしてもちろん、この映画の「本当の主人公」はその女の子なのである。小林靖子脚本が観客の胸を震わせ、映画会社が予算の見積に頭を抱え、若く美しい刀剣男士たちと本物の時代劇俳優がスキルの限りを尽くして入り乱れるこの102分の劇場映画は、たった一人の女の子に「世界の主人公は君だ。この美しくまた醜い巨大な現実の中心にいるプレイヤー、主(あるじ)とは君のことだ」と告げるための長い長いおとぎ話である。

 小林靖子という優れた脚本家がこの作品の後に何を書くのか、僕にはわからない。美しい歴史の天使、刀剣男士たちが別の時代に舞い降りる刀剣乱舞の続編(熱望は多いだろう。前述の雑誌のインタビューで廣瀬は「何でもできるじゃんと思った、どの時代へも行ける、現代や海外へも」と語っている。その通りだと思う)か、あるいは特撮か、まったく新しい大きな挑戦なのか。でもどんなジャンルのどんな作品であれ、おそらく小林靖子作品は今後もこれまでと同じように、たった一人の女の子を本当の意味で世界の主人公にするために書かれるのではないかと思う。そしてそれは、過去に書かれた男の子を主人公にした名作と同じように、男も女も、大人も子どもも勇気づけるはずである。 (文=CDB)

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