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『ボヘミアン・ラプソディ』『BPM』『ナチュラルウーマン』……様々なLGBTQの姿描いた2018年の映画

リアルサウンド

18/12/22(土) 12:00

 LGBTQないしはセクシュアル・マイノリティを描いた映画を振り返るといっても、現在じつに多くの作品が題材にしており、一概に傾向をまとめることは難しい。そういう意味では、もし現代をダイバーシティ推進が一般化した時代であるとして、その多様化自体がひとつの回答であり潮流だと言えるだろう。わたしたちは2018年、本当に様々なLGBTQの姿を映画のなかで観ることができた。

 そのなかでもっともヒットしたものといえば、クイーン、そしてフレディ・マーキュリーを描いた『ボヘミアン・ラプソディ』ということになるだろうか。映画はバンド史を紐解きながら、フレディのセクシュアリティやHIV感染にもきちんと触れる。もう少し時代が前であれば、そこに踏み込むこと自体が難しかっただろうから、これも現代らしい事象と捉えられるかもしれない。しかしながら、同作が彼のゲイとしての側面やHIVに関して深く描いているとは正直に言って思えない部分もある。もっとも多く指摘されるのは、映画のハイライトとなる『ライヴ・エイド』より以前には、実際にはフレディがエイズを発症していなかったという点だろう。「脚色も交えた伝記作品」というのは映画として間違ったものではないし、とくにこうした娯楽大作では当然のことかもしれない。だが、HIV/エイズが本当に「死に至る病」であったあの時代を描くのに、エイズ発症をバンドメンバーに告げることで絆が深まった……という「フィクション」を、軽々しくプロットに組みこんでいいものだろうかという疑問は大いに残る。ゲイ・コミュニティを絶望の淵に追いやったあの病が、いま、大団円に至るための通過点として軽く使われてしまうことの問題は看過されてほしくない。また、フリー・セックスのような70年代のゲイを大いに解放した価値観を、現代のモノガミー的視点(一対一の恋愛により価値を置いて考えている)から一面的な描き方をしていることにも違和感を覚える。

 HIV/エイズをモチーフにした映画はある時期よく発表されていたが、近年また増えているように思える。『ダラス・バイヤーズクラブ』や『恋するリベラーチェ』、あるいは『パレードへようこそ』といった映画が示すのは、あの凄惨な過去の続きに現在がある、ということだ。現在HIVは正しく薬を服用していればエイズを発症しないばかりではなく、感染すらしないところまで対策が進んでいる。本当に「死に至る病」ではなくなっているのである。だがいっぽうで、ゲイ・コミュニティの若い世代の間ではHIVに対する危機感が薄れ、また、権利を勝ち取るための先人たちの闘いが忘れられつつあるという。

 ロバン・カンピヨの『BPM ビート・パー・ミニット』は、90年代にHIV啓発と政府の対策を訴えて闘った若者たちを描いた作品で、エイズ禍を回顧する作品としてはひとつの極に達した傑作だ。カンピヨ監督は自身も『アクト・アップ』の運動に参加していた経歴を持つが、昨日までともに闘った仲間たちが次々と命を落としていくなか、それでも生き延びてしまった自分がいまやるべきことを真剣に考えた跡が作品には刻まれている。製薬会社に乗りこんで血液を模した液体を投げる彼らの姿を過激と思うひとも多いだろうが、それくらい生き死にを懸けた闘いだったのである。映画は後半に向かうにつれ運動の熱から個人の痛みへとフォーカスを当てていくが、その圧倒的な悲しみと死の匂いには呆然とするばかりである。『ボヘミアン・ラプソディ』と同じくらいとは言わないが、もっと多くのひとに観てもらいたい作品のひとつだ。

 いっぽうで、同性愛を描いたものとしては伝統的な「カミング・オブ・エイジ」ものが目立った年でもあった。カミング・オブ・エイジとは子どもから大人に移り変わる時期を指す言葉で、ようするに思春期の性の目覚めを描いているものだ。そして、これははっきりと傾向であると言っていいと思うのだが、そうしたものにより前向きな空気を持つ作品が増えている。『彼の見つめる先に』、『LOVE, サイモン 17歳の告白』といった作品がそうで、これは明らかにこれから大人になる世代のゲイ、あるいはセクシュアル・マイノリティたちを勇気づけるものだろう。『君の名前で僕を呼んで』はゲイ・ロマンスと言うよりは、少年の成長と初恋の瑞々しさを純化して描いた作品だったが、どこまでも同性愛が否定されることのない世界を描いているのは間違いない。息を呑むような美しい映像と見事な長回しで、同性愛も含むエロスを肯定してみせるのである。

 また、同性愛を描きながら社会背景を巧みに織り交ぜる作品も変わらず多い。『レインボー・リール東京』で上映され好評を博した『ゴッズ・オウン・カントリー』は、田舎の農村を舞台にしているところから「英国版『ブロークバック・マウンテン』」とも言われたが、じつは『ブロークバック~』の悲壮なラブ・ロマンスとはまったく異なる余韻を持つ。キーになっているのは東欧からの移民であるゲオルゲの存在で、彼と愛を育むことで愛の意味もセックスの歓びも理解していなかったジョニーは自分の人生を見出していく。これはブレグジットを思い起こすまでもなく閉じていくUKに対する違和の表明であり、ロマンス映画からの抵抗だ。『彼の愛したケーキ職人』はイスラエルを舞台として、同じ男を愛した青年と未亡人女性の交流を描いているが、ここでは宗教とセクシュアリティの自由の間の葛藤、国籍や文化の違いといったものが巧みに背景に織り込まれている。セクシュアル・マイノリティにとってどこで生きるかというのは切実な問題であり、これまではどうしても都会でなければ苦しいといったものが多かったが、それが次第に変わってきたようだ。

 女性同士の恋愛、レズビアンを描いた作品は現在のフェミニズムの高まりと同期する作品が目立った。たとえば『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』の主軸はかつてのテニス女王ビリー・ジーン・キングが女性の権利を求めて男たちと文字通り闘ったことにあるが、彼女のセクシュアリティの発見、そしてのちにLGBTQ運動の先駆者となるところまでをしっかりと捉えている。つまり、女性の性の肯定はゲイ/ヘテロにかかわらずある種の闘いであることが、現代的な視座から見つめ直されているわけである。ヨアキム・トリアーの『テルマ』はレズビアン版のカミング・オブ・エイジものとも言えるが、と同時に、「秘められた力」に目覚めていく少女テルマは、自らの才能を発揮していく女性の姿として捉えることもできる。彼女が厳格な家父長制から逃れるためには、セクシュアリティと自身の能力を肯定することが必要だった、ということだ。

 トランスジェンダーを描いた映画は数としては多いとはまだまだ言えないが、エル・ファニングがホルモン治療を前にするトランスジェンダーを演じた『アバウト・レイ 16歳の決断』などは、瑞々しいインディペンデント作品で見応えがあった。しかしながらトランスジェンダーを描いた作品でいまもっとも議論となっているのは、それが当事者によって演じられるべきかどうか、という点である。たとえば今年スカーレット・ヨハンソンがトランス役を降板したことが議論になったが、これは演じることと当事者性の折り合いをどうつけるかという意味で非常に難しい問題だ。しかも倫理面だけでなく、マイノリティのなかのマイノリティであるトランスジェンダーの労働と経済の問題とも関わっている。

 そうした意味で、今年もっとも現代性を持っていた作品はセバスティアン・レリオによる『ナチュラルウーマン』だろう。それは、主人公マリーナを演じたのが実際にトランスジェンダー女性であるダニエラ・ベガであるという「正しさ」あるいは「配慮」といったこと以上に、そこに映画的な必然が宿っているからだ。ラブ・シーンでは彼女の裸の胸が露になるが、それは紛れもなくトランスジェンダー女性の身体性を伴ったものとして表現される。のちに差別や偏見と立ち向かうこととなるマリーナというキャラクターに、圧倒的な説得力がそこで注がれるわけである。トランスジェンダーの娼婦たちのシスターフッドを描いたショーン・ベイカーの『タンジェリン』も記憶に新しいが、おそらく今後トランスジェンダーを描いた作品はより当事者性を重視していくようになるだろう。そうなってほしいと思う。それは「政治的正しさ」のためではなくて、芸術的な意義がそこには存在するからである。

 ここに挙げられなかった作品も多くあるだろうが、それにしても本当にセクシュアル・マイノリティを描いた映画作品が増えたと思う。作品の質も明らかに上がっている。映画好きのゲイである僕にとって、それは素直に喜ばしいことだと思う。

 L/G/B/T/Qそれぞれで問題が違うという以前に、そもそもセクシュアリティの問題は個々人でまったく異なる。それでもセクシュアル・マイノリティを描いた作品が何らかの普遍性を持つのであれば、それは多様なあり方を映し出すことそのものに由来するだろう。時代は変わる。この流れは誰にも止められないだろう。2019年も、たくさんのセクシュアル・マイノリティたちの実存と感情を映画のなかに発見できることを願っている。(文=木津毅)

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