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『帰れない二人』ジャ・ジャンクー監督のこれまでを辿る冒険に 背景に描かれる中国の変化とは

リアルサウンド

19/9/12(木) 10:00

 帰れない二人、という文字列を見るとどうしても、井上陽水と忌野清志郎の名曲を想起してしまい、それと同時に相米慎二監督の名作『東京上空いらっしゃいませ』の素晴らしいワンシーンが頭をよぎってしまうのは致し方あるまい。日本公開タイトルとして、その『帰れない二人』と名付けられた、中国第六世代を代表する映画監督ジャ・ジャンクーの最新作の英題は『Ash is Purest White』。訳すれば「純白の灰」ということになるか。

参考:場面写真はこちらから

 これは劇中の序盤でチャオ・タオ演じる主人公が語る、「火山の灰は高温で燃焼しているから、灰も純化している」という台詞から来ているものだろう。物語の舞台である山西省の大同は、中国有数の炭鉱町。石炭からこぼれ落ちる灰は純白とは対照的に真っ黒だ。前述の台詞にリャオ・ファン演じるビンはこう返す。「灰なんて誰も気にも留めない」。現状とは相対するものへの憧れと、変化していくことへの希望と不安、そして何より、市井の人々が気に留めないうちに世の中がどんどん変わっていく、取り残されてしまうということを表しているのかもしれない。

 またこの映画、原題では「江湖儿女」という。『小城之春』のフェイ・ムー監督が晩年に取り組んでいた作品から拝借したというこのタイトルが示す通り、江湖、いわゆる堅気ではない世界に生きる男ビンと、その恋人であるチャオの17年間にわたる恋愛模様が2001年夏の大同(北京から約300キロほど西にある乾燥地で、ジャ・ジャンクー監督の故郷である汾陽と同じ省にありながら400キロ近く離れた場所だ)から描かれていく(ちなみに“儿女”とは男女を示している)。ところが、ある事件によってそれぞれ刑務所に収容されることになった二人は離れ離れとなり、チャオは5年後に出所。先に出所していたビンを探すために長江の中流にある奉節へたどり着くのだ。

 2001年の大同といえば、監督の初期の傑作『青の稲妻』と同じ舞台設定である。しかも、チャオ・タオが演じる役名も同じ“チャオ”という共通点がある。そして本作の第二の舞台である2006年の奉節というのもまた『長江哀歌』と同じ舞台設定であり、この場所を描く上で避けては通れない三峡ダムが産業の発展の象徴として君臨する。他にも時代を隔ててめまぐるしい変化を辿るプロセスは前作『山河ノスタルジア』に通じるなど、本作は中国文化の激動の18年を辿りながら、ジャ・ジャンクーのフィルモグラフィーを辿る冒険でもあり、また彼と彼のミューズであるチャオ・タオの歴史を辿る映画という側面も持ち合わせているのである。

 物語の中では17年の時を経て、チャオとビンが別れと再会を繰り返す様子が淡々と運ばれていく。奇しくも昨年本作が出品されたカンヌ国際映画祭では、同じコンペティション部門にポーランドのパヴェウ・パヴリコフスキ監督が手がけた『COLD WAR あの歌、2つの心』が出品されていたが、同作も戦後15年の歳月をかけた男女の付いたり離れたりの恋愛模様と、その背景で社会情勢が移りゆく様が描写されていた。もっとも、このような映画の作り方というのは決して珍しいものではないのだが、『COLD WAR』でのワルシャワとパリとの距離と、『帰れない二人』での大同と奉節との距離が共に1500キロ強で一致するというのは興味深い。しかも、前者は間にいくつもの国を挟んでいるにもかかわらず、後者は同じ国の中で完結しており、それぞれの地域の特色と両者の間にある2年という時間の差があまりにもドラマティックに変貌を遂げる。

 こうした21世紀に入ってからの中国社会のめまぐるしい変化の裏にあったのは、劇中と同時代に開催が決定した北京五輪の存在が大きいことはいうまでもない。それでも劇中では五輪という存在にはっきりと言及されることなく、あたかもそれが市井の人々には直接的に関係がないものであるかのようにひっそりと影を潜めている。その代わりに、彼らが生きる上で必要不可欠な“水”と“火”を用いて、変化してゆく社会と人間関係が表現されていくことになる。

 2001年の大同は環境保全の目的によって火力発電が衰退していくことで重要な資源である石炭が価値を落として町全体が活気を失っていく。自然の産物である活火山を背景にした対話と、銃という火器の存在によって主人公二人の関係が崩壊していき、そして大きな桶は中に酒を入れて仲間同士で契りを交わす役割を果たす。一方で2006年に時代が移ると、奉節では推し進められた水力発電によって歴史ある町がダムの底へと沈んでいく。人工物の三峡ダムを背景に、ペットボトルに入った水というアイテムが人を殴打する道具となり、列車の中で偶然出会った男性と手を繋ぐ役割も果たす。こちらで大きな桶の中に入るのは、厄落としのために燃やされた新聞で、二人の二度目の別れの印象をより強くしていく。

 すると物語は、あっという間に北京五輪の時代を飛び越え、あらゆる変化が完了したかのように近代的な2017年へと到達してしまう。何時間もかかって移動していた鉄道は高速化し、携帯電話もスマートフォンの時代へと突入するのだが、大同の町のいたるところには17年前のままの姿が点在しており、そこはかとない物哀しさを生み出す。おもむろに街頭に設置される監視カメラは、2022年に北京で行われる冬季五輪に向けた“さらなる変化”が中国の国内で動き始めていることを示唆しているのだろうか。 (文=久保田和馬)

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