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佐々木俊尚 テクノロジー時代のエンタテインメント

新海誠と吉田健一作品に共通する“日常の美しさ”への感覚

毎月連載

第40回

(左)新海誠監督 写真:ロイター/アフロ、(右)吉田健一 写真:Kodansha/アフロ

大ヒットした『君の名は。』『天気の子』など、新海誠監督の作品に描かれる光景はとても美しい。東京に住んでいる者ならだれでも知っているような新宿などの街を舞台にしていて、しかし普通に暮らし街を歩いているだけでは気づかないようなちょっとしたモノや自然が、信じられないほどに美しく描写されている。つまりは“日常の美しさ”である。

新海監督の日常の美しさへの感覚というのは、戦後に文芸評論家の吉田健一が書いた文章にとても近いと思う。

吉田は1957年に長崎を訪れた。丘の上から街を見下ろしてみると、原爆投下から12年経った長崎の街には、もう被爆のあとを思わせるようなものはほとんど残っていない。その景色を見ながら、吉田は「戦争に反対する最も有効な方法が、過去の戦争のひどさを強調することだとはどうしても思えない」と書いた。戦場となった場所も人間がこれからも住む土地であり、その場所も、そこに住む人も「見世物ではない。古傷は消えなければならない」

そして、この有名な一節につなげる。

「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでもこだわってみたところで、だれも救われるものではない。長崎の町は、そう語っている感じがするのである」(『作法 無作法』1958年所収)

吉田健一が“生活の美しさ”にこだわり、それこそが反戦になるという。それは新海監督が、小惑星の衝突や東京の水没という大災害を描きながらも日常生活の描写の美しさにこだわるのと、同じメロディを奏でているように思う。どちらも、生活が政治とつながっていることを指摘しているのだ。

日常は、しょせんは日常でしかない。“絶景”や“日本百名山”や“死ぬまでに訪れたい場所”ではない。しかしそういうランキングに頼ってしまうと、それは美しさのヒエラルキーに従うことになり、「階段をのし上がりたい」という単一の目標にとらわれることになってしまう。

日常は、しょせんは日常であるからこそ、多様である。美しさは有名な滝や真っ白な高山やウユニ塩湖だけにあるのではなく、そこらへんに転がっている。新海監督の映画を観ていると、歌舞伎町の路地裏に落ちているコカコーラの潰れた缶まですばらしく美しく見えてくるのだ。

そういう価値観の多様性、ダイバーシティこそが、実は“日常の美しさ”の本質ではないか。単一の価値観を「これが新しい価値だから、おまえらは従え」と押しつけるのではなく、ダイバーシティはこれまで見向きもされなかったようなコーラの潰れた缶にあることだって存在するのだということを、おだやかに伝えてくる。

太平洋戦争は、国民とメディアが熱狂にはまりまくった結果であり、それに軍が乗っかってしまったことで無残に終わった。熱狂は単一の価値観であり、それは「鬼畜米英」にあるだけではなく、吉田健一が言うように「過去の戦争のひどさを強調し、二度と再び……と宣伝すること」にも熱狂がある。

そういう熱狂から距離を置いて、日常という多様な価値観に軸を置いていくということ。その大切さを吉田健一と新海誠は語っている感じがするのである。

プロフィール

佐々木俊尚(ささき・としなお)

1961年生まれ。ジャーナリスト。早稲田大学政治経済学部政治学科中退後、1988年毎日新聞社入社。その後、月刊アスキー編集部を経て、フリージャーナリストとして活躍。ITから政治・経済・社会・文化・食まで、幅広いジャンルで執筆活動を続けている。近著は『時間とテクノロジー』(光文社)。

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