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【ネタバレあり】前作から驚くべき進歩を果たした『アナと雪の女王2』、そのすごさを徹底解説

リアルサウンド

19/11/29(金) 10:00

 世界はもちろん、日本でも大ブームを巻き起こし社会現象までになった、ディズニーの大ヒット作品『アナと雪の女王』。その続編、『アナと雪の女王2』が、ついに公開された。大きな期待を受けての本作。その出来に世界の注目が集まった。

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 結論からいうと、この続編は、前作から驚くべき進歩を果たした作品となっている。ここでは、なかなかひとことでは言い表せない本作のすごさについて、前作の成功の分析もあわせて評価していきたい。

 第1作のヒットの要因からして、すでに複雑である。そこにあるのは、劇中の楽曲の覚えやすさや、公開前から曲を繰り返し覚えさせたような広告戦略だけではない。

 ヒットの核となった要素の一つは、ターゲットとなる観客層の広さである。とはいっても、それは年齢の話ではない。本作のようなディズニー作品は、あえて大人向けに作らなくても、大人を童心に帰らせることで楽しませればいいのである。では、ここでいう“広さ”とは何なのか。

 “保守と革新”という言葉がある。端的に説明すると、前者は昔ながらのものを喜び、後者は新しいものを喜ぶという考え方だ。『アナと雪の女王』が話題になったことの一つに、“プリンセス・ストーリーの破壊”がある。ディズニーの長編第1作『白雪姫』(1937年)は、その代表的な楽曲「いつか王子様が」が象徴するように、もしくは『シンデレラ』(1950年)や『眠れる森の美女』(1959年) がそうであるように、清く正しい可憐な女子のところに、素敵な王子様が現れて、最終的には「いつまでも幸せに…(Ever After…)」といったかたちで締められる。このような女子の理想を投影させたストーリーが、「ディズニー・プリンセス」作品の定型となった。

 『アナと雪の女王』は、そんな伝統にあてつけるように、あえて颯爽と現れる王子様を悪い人物として描いた。そして、魔法の力を持つ女王エルサは、ひとりきりで氷の城に住み始める。そんな現代的で斬新な展開に、新しいものを求める観客が反応したのである。

 だが同時に、逆の価値観を持つ観客をも、本作は取り込んでいたのだ。考えてみれば、北欧の王国を舞台にした、王族の物語ということで、近年のディズニー作品にしては、本作はあまりに従来のプリンセス作品の枠にはまっているように感じられる。結局は特権階級への憧れをベースにしてしまっているのである。その意味では、例えば『ムーラン』(1998年)や『プリンセスと魔法のキス』(2009年)のような、新しい主人公像よりも後退してしまっている部分もあるのだ。

 そして、“ポップスター”のように、ポップソングを歌い踊ることで人気を得ようとする。従来のミュージカルをわずかに逸脱した、プリンセスとポップスターの合体。ここでは、ティーンの女子が憧れる典型的要素を、かなり露骨に具現化させているように感じられる。その意味で本作には、保守的な意味の魅力が用意されているのもたしかである。

 とはいえこの姿勢は、ある意味ディズニー作品を象徴しているともいえる。つまり、ピクサー作品のように、もともとディズニーのカウンターとして作られていた、エッジの立った作風などと比較すると、いつもどこかに古い面を引きずっているということ。そこが、悪く言えば鈍重、よく言えば品格の高さを示す、ディズニー本来の特徴なのである。

 そして、『アナと雪の女王』で忘れてはならないのは、日本では「ありのままで」と訳された、楽曲「レット・イット・ゴー」の爆発的カタルシスであろう。そこにあるのは、世界に対する失望と怒りである。みんなが幸せだと信じている価値観に背を向け、自分らしく生きたいと願うエルサの姿は、最終的には妹アナの献身と理解によってほだされ、社会との歩み寄りを見せてゆくことになるが、ここにあるネガティブさをともなった強い感情こそが、普段から意識的にも無意識的にも社会の抑圧にさらされている、多くの女性の琴線に触れたのではないだろうか。

 このように、観客の様々な価値観に呼応し、部分的には奥行きもあるつくりが、公開年である2013年から2014年にかけての当時の世の中に、驚異的にフィットすることになった、主たる要因だといえるだろう。

 さて、続編である本作『アナと雪の女王2』は、どうだったのか。

 前作における王子様の裏切りを受けて、同様に衝撃的だったのは、舞台となるアレンデール王国の、血塗られた負の歴史を描いたということである。

 武力をもって、長くその土地に住む先住民を迫害して、領地や権力を拡大していったという歴史は、日本を含め、イスラエルや中国など世界中で起こっていることだ。アメリカでも、かつて入植者たちが先住民と戦い、様々なものを奪い追いやったことで、国家を作り上げたという、民族的な過去がある。本作は、王国の裏に隠された欺瞞や罪をあぶり出したことで、そのなかで裕福な生活を享受してきたエルサやアナを絶望の底に突き落とす。

 そう、新たに描かれる、真実とルーツを探し求める旅のなかで、彼女たちはおそろしい罪を負った国を引き継いでいるという事実を明らかにしてしまったのである。だがそれは、王族であるということを、とくに深く考えてこなかった前作に比べると、驚異的な飛躍である。まさか、ここまでやるとは思わなかった。この点では、本作は圧倒的な進歩を見せている。

 そして、その事実に打ちひしがれたうえで、“自分のやれることをやろう”と立ち上がり、過去の過ちと向き合い、ごまかさずに具体的な行動を起こす彼女たちの姿は感動的だ。これは、いま世界で起こっている紛争や差別などの様々な問題について、解決に至る道筋を作るためには、その背景となっている歴史を正しく理解しなければならないということを示唆している。

 もう一つ、注目したいのは、エルサとアナの幸福の対比である。アナは、最終的に大きな責任を負う存在となるが、基本的には幸せな結婚に憧れるキャラクターである。対して、エルサの幸せとは何なのか。

 エルサの恋愛については、前作の時点でパートナーが描かれなかったことから、性的指向について一部のファンが、「同性が好きなのでは」と噂をしたり、多様的な価値観を広める上で、性的なマイノリティであるということを具体的に描くべきだという声があがってもいた。もともと、人からおそれられる“魔法の力”を持ったエルサは、理解のない社会で生きるマイノリティの象徴という見方もされてきている。

 その意味でいうと、本作でエルサが惹かれた謎の歌声の先には、彼女が求める女性が存在しているのではという予感を、作り手はわざと醸成させていたように思える。しかし、たどり着いたところにあったものを考えると、エルサは“アセクシャル”、つまり、他者に対する性的な欲求を持たない存在であるという解釈が、一応は成り立つだろう。

 だが、本作はそのような話の、さらに上を行っているのではないかと思える。それは、物語の主人公が女性だからといって、必ず恋愛や性的指向について問題にしなくてもいいだろうということである。

 ラストシーンで描かれるエルサの表情が物語るように、彼女が追い求めるものは、魔法の力を持った自分が、次に何をできるのかという、自分の力への可能性だ。エルサにとっての幸せとは、世界に対して力を存分に発揮できる場所を持つことなのである。それは、従来は男の領分だと思われてきた考え方だ。

 この素晴らしいラストシーンは、とくに子どもたちに大きな影響を与えることになるかもしれない。本作は、ここでも前作からかなり革新的作品に変貌したように感じられるのである。

 前作から6年ほどしか経ってないことを考えると、内容が飛躍的に進歩したことで、前作のように絶妙な時代とのマッチは期待できないのかもしれない。また、楽曲のキャッチーさについても、前作ほどのめちゃくちゃなまでの高揚は存在しないのはたしかだ。そして、一度幸せなラストを迎えたことで、物語を駆動する前半部分が弱いという弱点もあるだろう。だが本作は、前作以上に誠実な態度で、より意義あるテーマに挑戦しているのもたしかである。その誠実さや挑戦心こそ、本作の最大の魅力なのではないだろうか。

 そのせいか、全体的にストイックな印象をも与えられてしまう本作だが、やはり“女子の憧れ”のような、ポップな要素を登場させることを忘れていない。

 アメリカ製のおもちゃ、「マイ・リトル・ポニー」に代表されるように、アメリカの女の子たちの多くは、色とりどりの馬への憧れがあると思われている。今回、エルサが乗りこなすクリスタル色の馬のかたちをした水の精霊が登場することで、“ポップスター・プリンセス with クリスタルの馬”という、ポップなものを創造するという意味では、またしてもすごい組み合わせが誕生してしまっている。こういう描写のあるあたり、やはり『アナと雪の女王』の続編だなと、変に安心してしまう部分であった。(小野寺系)

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