Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play

太田和彦の 新・シネマ大吟醸

今回もラピュタ阿佐ヶ谷の特集「映画の中の子供」、清水宏監督の2本ー『その後の蜂の巣の子供たち』と『大仏さまと子供たち』。

毎月連載

第22回

20/4/2(木)

特集「映画の中の子供 ─小さな主人公たちの、おおきな、おおきな物語」のチラシ

『その後の蜂の巣の子供たち』
ラピュタ阿佐ヶ谷
特集「映画の中の子供 ─小さな主人公たちの、おおきな、おおきな物語」(1/26~3/21)で上映。

1951(昭和26年)蜂の巣映画・新東宝 86分
監督・脚本・製作:清水宏
撮影:古山三郎 音楽:伊藤宣二
出演:岩本豊/千葉義勝/久保田晋一郎ら蜂の巣の子供たち/大庭勝/御庄正一/田島エイ子/日守節子/原田三夫/熱海市長

太田ひとこと:前作で使われた、子供が歌う主題歌『蜂の巣 蜂の巣 ぶんぶんぶん』がここでも最後に流れる嬉しさよ。

伊豆の山麓で、子供たちが自給自足の共同生活をする“蜂の巣”に婦人記者が取材に来た。親代りの大庭勝(『蜂の巣の子供たち』の島村俊作)は、注目されたくないと有り難迷惑に感じるが、雑誌に記事が発表されると案の定反響があった。

東京から夏休みを利用してボランティアに来た女子大生二人は率先して食事を作るが、担当の当番は自分の仕事をとられておもしろくなく、ある女の子は「いらない」と布団にもぐり込む。食後に出したコーヒーは寝小便のもとになり、大庭は「やめてくれ」と言う。二人は「かわいくないわねえ」と帰ってしまい、結局は自己満足だ。

勉強する教室を自分たちで作り始め、当時子供向けの科学の本を書いていた原田三夫先生に来てもらったり、熱海市長はアヒルの子を持ってきて池に放って喜ばせ、教室建設を手伝ってゆく。入所させてくれとやってきた、もうよい歳の青年は、放っておくと黙々と開墾を始める。

子供の一人、晋一の昔の仲間が二人やってきたが、遊んで暮らせると思っていたのが毎日働かなければならないとわかり、子らのものを盗んで逃げる。責任を感じた晋一は大阪や東京まで探しに行って連れ帰り、蜂の巣に入れてもらう。やがて完成した教室に子供たちの声が響いた。

実際に、自分の持つ伊豆の山で“蜂の巣”と名づけて身寄りのない子を引き取り一緒に生活して育てていた清水宏は、自主映画『蜂の巣の子供たち』を撮ったあと、自らの場所でこの続編を作った。いわば“放浪編”から“定住編”だ。映画『蜂の巣の子供たち』を観てやってきた女子大生は、そこに出ていた義坊を見て「あんた死んだと思っていたわ」と言うと、義坊はケロリと「目をつぶってじっとしてろと言われてそうしてたら、死んだことになっていた」と言う。清水は前作との整合性には無頓着だ。

ドラマチックな物語はなく、子供たちの生活をスケッチ風に描く。後釜で入ってきた年長の女の子は、炊事を自分の仕事とする豊を、手伝ってやると言いながら口出しして、豊が抗議すると「やるか」とけんか腰になり豊は後ずさりするが、二人は仲良しになる。

畑を荒らす狸を生け捕りする場面は、それをする子供たちの生き生きした表情がいい。狸が捕まろうが、そうでなかろうが、どっちでもよい撮り方だ。雨の日も休まず一人で開墾を続ける青年を番傘で見ていた子供三人が、次々にカッパを羽織って手伝う台詞のない場面は清水らしい叙情がみずみずしい。

山の中の牧歌的作品と観ていたのが、泥棒した仲間を探した晋一が大阪道頓堀や、東京の新宿、銀座をボロ服で歩く都会場面が写って驚く。銀座四丁目交差点ではアメリカ兵とすれちがい、「そのころ都会では」の対比が鮮烈だ。晋一を探しにきた大庭は、大阪の町外れで『蜂の巣の子供たち』の時の片足男(御庄正一)に再会し「まだこんなこと(その日暮らし)してるのか」と言って頭をかかせるのも、「今回も出ろよ」程度の自在さだ。清水の自然主義映画はますます深まってゆく。




セミドキュメンタリー手法で詩情をたたえた蜂の巣三部作は、世界映画史に記される不滅の子供映画だ

『大仏さまと子供たち』
ラピュタ阿佐ヶ谷
特集「映画の中の子供 ─小さな主人公たちの、おおきな、おおきな物語」(1/26~3/21)で上映。

1952(昭和27年) 蜂の巣映画・新東宝 102分
製作・脚本・監督:清水宏
撮影:古山三郎 音楽:伊藤宣二
出演:岩本豊/千葉義勝/久保田晋一郎ら蜂の巣の子供たち/日守由禧子/宮内義治/歌川マユミ

太田ひとこと:清水には短編記録映画『奈良には古き仏たち』(1953年)もある。

戦災孤児の豊と義勝は仲良しで、寺の小坊主になった晋一郎に台詞を教わって、寺の観光案内の手伝いで生活している。友達は観光バスガイドの日守由禧子と、奈良に勉強に来ている万年落選画家の宮内義治だ。

日本を訪ねて来た二世の歌川マユミは豊と義勝を感心に思い、自家用車で若草山に連れ、お昼を分けてやる。豊の仲間二人がその間に自家用車から財布を盗んだのを知った豊は二人を探し回って取り戻して歌川に返し、お礼の品をいっぱいもらう。

義勝は古美術店に飾る子供の仏像が好きでいつも見ていたが売れてしまい、買った家を聞いて、床の間に飾られたのを見ていると、そこの婦人が声をかけた。

「ほしければ、あげるわよ。でも私もほしいものがあるの、それは坊や」

婦人は亡くした子の身代わりに仏像を買ったのだが、同じ年ごろの義勝がそれに心ひかれるのを見て、親代りに引きとろうと思ったのだが、義勝は黙って駆け逃げた。

義勝はそのことを豊に「でも、行かない」と言い、豊は安心するが、隣りで昼寝していた宮内は「もらってくれる人がいれば、行った方がいいんじゃないか」とつぶやく。黙り込む義勝に豊は義勝の本心を察する。

一人になった豊は、今日も夕方のNHK放送「尋ね人」をメモを手に聞いて親の連絡を待った。

ある日訪ねた宮内は東京へ引き上げる支度をしていた。とぼとぼと去る豊を見ていられなくなった宮内は、「どうだ、オレと来ないか」と声をかけた。蜂の巣三部作でつねに浮浪児あがりの主人公だった豊にも落ち着く家ができたのだ。奈良を去る前、豊と晋一郎は念願の大仏の掌で一緒に眠った。

戦時中映画を撮らなかった清水宏は、奈良の仏像を見て回っていた。その仏像への愛着と“蜂の巣”の子供たちのその後を合わせてこれを製作した。

トップシーン、東大寺南大門の大戸が左右に開くと大仏殿の全景になり、屋根から下までじっくりと写す。中に入ると見下ろしのキャメラで、豊が暗唱した解説案内を棒読みしている。そこから始まり、境内や別棟の見どころをじっくりついてゆく悠々たる出だしは、素直に東大寺の見学になる。映し出される興福寺などの仏像や菩薩、日光、月光、無著、世親、十二神将などは光を考えた最適のアングルで、全身やアップを丹念に写し、かつて奈良のそれらをじっくり見てまわった私は美術映画のように楽しんだ。清水は「子供の描写は凝らなくてよいが、仏像は丁寧に」と力を入れたそうだ。

とりわけ、万年落選画家・宮内に「これを見ていると、自分の力など何もないと知らされる」と聞いた豊が、一人で戒壇院四天王を見に行く場面は、憤怒の形相などをアップで重ね、動かぬ像に心の演技を込めているようだ。

物語はあっさりしたものだが、戦時に行方不明になった親や子を探すラジオ番組の「尋ね人の時間です」の声がしっかり耳にある私には、切々とした気持ちがわく。

ロングショットに遠く人物、子供を置いて風景に同化させる清水得意のショットは、いつもの野山ではなく、古都奈良の古い辻塀や通りであるのがまたいい。捨てられている野仏の脇に座る浮浪児を、清水は両者が同じと意識したのだろうか。子供を育て解放するのは野山であり、こういう歴史の里であるという感懐もわいてくる。

その中、若草山で歌川らと一緒になった夫婦が「出征前夜に結婚式だけあげて外地に行かされ、十年後に幸い生きて戻って、こうして夫婦の新婚旅行をしている」と話すとき、そっととり出して置いた、日本に生きて帰りたいと言って死んだ戦友の位牌を見た歌川が立ち上がり、野花を摘んで備えるショットが印象深い。こういうところの清水のうまさ。

最後に豊が東京にもらわれてゆく結末にほっとする。蜂の巣三部作でつねに主人公だった豊にも落ち着く家ができたのだ。彼はその後どう生きたのだろう。幸い私は浮浪児にはならなかったが、いつそうなってもおかしくない時代に育ったのだ。

子供を主人公にした劇映画『風の中の子供』(1938年)、『子供の四季』(1939年)、その集団生活を描いた『みかへりの塔』(1941年)、中編劇映画『団栗と椎の実』(1941年)を経て、身寄りのない戦災孤児を自分が引き取って育て、彼らを出演させた自主作品、『蜂の巣の子供たち』(1948年)、『その後の蜂の巣の子供たち』(1951年)、『大仏さまと子供たち』(1952年)の蜂の巣三部作が結実した。セミドキュメンタリーの手法で詩情をたたえたこれらは、世界映画史に記される不滅の子供映画と言えるだろう。


プロフィール

太田 和彦(おおた・かずひこ)

1946年北京生まれ。作家、グラフィックデザイナー、居酒屋探訪家。大学卒業後、資生堂のアートディレクターに。その後独立し、「アマゾンデザイン」を設立。資生堂在籍時より居酒屋巡りに目覚め、居酒屋関連の著書を多数手掛ける。



新着エッセイ

新着クリエイター人生

水先案内

アプリで読む