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まるでスポーツの団体戦! 『バッド・ジーニアス』の後ろめたくも清々しい映画体験

リアルサウンド

18/9/29(土) 10:00

 この、えもいわれぬ緊張感に息苦しさを感じた方は、なにかしら後ろめたい気持ちがあるのではないのだろうか(……いや、疑うわけではない)。ランニングタイム130分のタイ映画『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』は、高校生による集団カンニングを描いているが、終始緊張が走り続けるそのさまは、まるでスポーツの団体戦のようである。

 中国で実際に起きた集団不正入試事件をモチーフにした本作は、ある種の犯罪を軸とした「犯罪映画」であるが、高校生が主体だとあって、「青春映画」的側面も持ち、子どもたちそれぞれの将来のための学力試験ということで親の介入は避けられず、「親子(父娘)映画」的側面をも持っている。

 そんな映画ジャンルをリズミカルに横断しながらこの緊張感が持続するのは、古今東西にある犯罪映画のどれよりも、観客の誰しもが身に覚えがある、誰しもが経験したことのある「試験」という状況が舞台として設定されていることが前提としてあると感じるのは、筆者だけだろうか。試験の規模の大小を問わなければ、目の前の問題がなかなか解けず、誰かの答案を「見たい」と思った経験や、あるいは苦戦している友人に「見せてあげたい」と思った経験は誰しもあるだろう。

 この物語の登場人物たちもまた、そんな個々の想いが交錯し、マジメに勉強するのではなく、彼らはカンニングするために「手法」や「戦法」を生み出し、試験は孤独な戦いではなく、チームワークが重要な団体戦へと変わっていく。それらを、まるでスピーディーなゲーム展開のスポーツのように、右へ左へ、上へ下へと動く扇情的なカメラワークとダイナミックな編集とで、手に汗握る、そして片時も目が離せない映画体験へと、テレビCMやMVを多く手がけてきたナタウット・プーンピリヤ監督は仕上げている。

【画像】劇中の緊張感を切り取ったシーン写真

 主人公たちの額に浮かぶ大粒の汗の玉は、カンニング行為の後ろめたさの証であるのと同時に、いつかの私たちの額に浮かんでいたものと同じように輝いても見える。秘密の共有、試験や試験監督といった「共通の敵」を持つことが、チームの結束力を高めるために大きな役割を果たすということは、恐らく多くの方が身をもって知っているところだろう。彼女らのような後ろめたい行為などではなくとも、試験を前にして、みなが一様にソワソワするのは、あれはまさに共通の敵を前にした一体感だともいえる。

 しかし本作は、個人戦もたっぷりと用意されている。チームのリーダーであるリン(チュティモン・ジョンジャルーンスックジン)は、留学のために世界各国で行われる大学統一入試「STIC」という“大舞台”でカンニングの発覚を恐れ、試験を切り上げて、個人戦への出場を余儀なくされる。もともと“お勉強ひとすじ”といった印象の強かった彼女が、カンニングという褒められた行為ではないにせよ、仲間たちとともに切磋琢磨していく中で洗練されていくのは本作の見どころのひとつであり、そういった成長物語こそ青春映画的側面をより強調させていた。そんな彼女なだけに、孤立無援状態での息も切れぎれな個人戦にはなんとも胸が痛んでしまう。

 ここでの対戦相手は、「試験」そのものではなく、カンニング行為が行われているではないかと睨んだ「試験監督」である。試験会場でのカンニング行為は、そもそも“スパイもの”のようでもあったが、敵(試験監督)に勘づかれてからは、彼らとの直接の攻防、そして逃亡劇へと物語はなだれ込んでいく。団体戦にあった青春映画的側面は、より犯罪映画的側面を強めていくのだ。ここまでのランニングタイム(上映時間)をスポーツの試合のように走り続けてきた彼女だが、実際に身体を張って“走る”ことで、画面はより活気づき、本作はよりスポーティーな展開を見せてくれるのである。

 ある者はお金のため、またある者は仲間のため、そしてまたある者は将来のためーー生活圏やカルチャーの違う人々が犯罪に走るとなれば、大きく海を隔てた世界の物語のようにも思えるが、「試験」という、ほとんど万国共通といえる舞台に置き換えたことで、それは実感を抱きやすくなる。そういった意味では、日本を舞台にした多くの犯罪映画などよりも、私たちの現実と地続きのものだと思えるのだ。

 カンニングがいいことなのか、そうではないのか。バレてしまえばどうなるのか、これまた多くの方には明らかだろう。リンたちに追走することで、やがていつかの自分を追想することになる方もいるかもしれない。ラストが道徳的な着地でありながらも説教じみたものを感じないのは、それこそまさに、試合終了まで仲間たちと全力で走り抜けた、スポーツのあとのような清々しさがあるからだと思えてならないのだ。

(折田侑駿)

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