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山本益博の ずばり、この落語!

第十九回『二代目桂枝雀』 令和の落語家ライブ、昭和の落語家アーカイブ

毎月連載

第19回

『枝雀十八番』 (C)ユニバーサル ミュージック

私が知りうる昭和の落語界の天才を挙げれば、東の立川談志、西の桂枝雀となる。昭和であるから、古今亭志ん生を入れなければならないところだが、志ん生は最晩年の高座しか聴いていない。

マルコム・グラッドウェルが書いた『天才!成功する人々の法則』(講談社刊)という本がある。この中に、「1万時間の法則」というのが出てくる。10代のうちに、一つのことに夢中になって1万時間を費やした人間は「天才」になるというのだ。

例えば、ビートルズ。リヴァプール出身の4人のロックグループは、売れなかった時代、ドイツのハンブルグのクラブに呼ばれていたとき、夕方から深夜まで何回ものステージをこなし、都合3年間で1200回ものライヴをこなしていたという。レパートリーを増やすために、考えられる限りのジャンルの曲を演奏したと。その基礎の上に、ジョン・レノンの作詞、ポール・マッカートニーの作曲で生まれた名曲は、時代を超えて、今でもミュージシャンたちに受け継がれ、世界中のファンに愛されている。

パーソナル・コンピューターの生み親になるビル・ゲイツは、中学2年から高校卒業の5年間、寝食を忘れて、毎日8時間以上、パソコンの制作に没頭していたという。

東京かわら版 東西シリーズ その2「東の扇橋・西の枝雀」チラシ

昭和14年(1939年)生まれの二代目桂枝雀(本名前田達)にも、これが当てはまるのではなかろうか。

昭和32年(1957年)秋、18歳の時、弟とABCラジオの『漫才教室』に参加し、人気を集めた。その後、漫才から落語に転向するのだが、前田達(とおる)の10代後半は、賞金稼ぎのためもあったが、漫才の稽古で埋まっていた。

その後、『素人落語ノド自慢』に出演、審査委員の桂米朝の目に留まり、米朝に弟子入りし桂小米を名乗った。

私が、初めて枝雀の落語を聴いたのは、小米時代の枝雀である。昭和44年(1969年)から、桂春蝶と「小米・春蝶二人会」を開き始めたのだが、昭和47年(1972年)9月に、東京でも一度だけ開かれた。「桂小米が滅法面白い」との評判を聞きつけて、確か、日本橋の小さなホールに駆け付けた。

ところが、その高座は陰気で、ぼそぼそとした口調で、一向に面白くなかった。あとでわかったことなのだが、当時の小米は「うつ病」状態だったとのことだった。

東京かわら版 東西シリーズ その5「東の扇橋・西の枝雀」チラシ

翌48年(1973年)10月、二代目桂枝雀を襲名し、関西では一躍人気者になったが、私が再び枝雀の高座を聴くのには少しの時間を要した。そして、いつだったか、大阪で枝雀を聴くに及んで、眼を丸くした。小米からの変身ぶりだけでなく、高座のけた外れの面白さに驚いたのだった。落語は確か『鷺とり』だった。以後の活躍ぶりは、誰もが知るところである。

桂枝雀の落語は、破天荒で、高座の座布団に静かに座っていたことがない。時には、後ろ向きになってしまう。高座で噺をしている途中に、後姿を見せた落語家は、枝雀が初めてではなかろうか。表情豊かというより、一言でいえばオーバーアクション、高座の床板に頭をぶつけてみせたりもしたが、一つも嫌味には見えなかった。

言葉でも「すみませんね」を「スビバセンネ」と言って、枝雀語を駆使した。『鷺とり』のほか、『代書』『宿替え』『くっしゃみ講釈』『夏の医者』『親子酒』など、誰もが枝雀の落語を「爆笑落語」と言うが、私は「抱腹絶倒落語」と呼びたい。今でも、DVDで、そのほぼ全貌を知ることができる。

枝雀こそ、真の天才に間違いないが、平成11年(1999年)、「うつ病」が再発し、それがきっかけとなって、4月自死してしまった。

豆知識 『落語に出てくるたべもの:甘納豆』

(イラストレーション:高松啓二)

八代目桂文楽が十八番にしていた『明烏』に出てくる。吉原が舞台で、大店のうぶな若旦那時次郎を案内した源兵衛と太助は翌朝、様子を見に時次郎の部屋を覗きにくる。彼らの思惑とは違い、花魁にすっかり魅せられた時次郎を見て、源兵衛が呆れ、一方、太助は茶箪笥の中にある「甘納豆」を見つけて食べ始める。掌に何粒も甘納豆をのせ、指でつまんで、ススっススっと口に放り込む。「朝の甘みはおつだね」と言いながらの、昨晩花魁に振られたやけ食いである。

甘納豆は、小豆を炊いて、砂糖をまぶした江戸生まれの菓子で、御飯と一緒に食べる納豆とは違う。大粒のもあるが、『明烏』では小粒でないと絵にならない。文楽が『明烏』を高座にかけると、仲入りどき、売店で「甘納豆」がよく売れたと言われた。

私は、今はなき人形町の「末広」の売店で、甘納豆を買った覚えがある。「濡れ甘納豆」などはデパートで売ってはいるが、いまは寄席ではほとんど見かけない、懐かしい駄菓子と言ってよい。

プロフィール

山本益博(やまもと・ますひろ)

1948年、東京都生まれ。落語評論家、料理評論家。早稲田大学第ニ文学部卒業。卒論『桂文楽の世界』がそのまま出版され、評論家としての仕事がスタート。近著に『立川談志を聴け』(小学館刊)、『東京とんかつ会議』(ぴあ刊)など。

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