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田中泯だからこそ到達できた次元 舞台『村のドン・キホーテ』で客席まで伝播した“オドリ”

リアルサウンド

20/12/12(土) 10:00

 あなたは「田中泯」という存在を知っているだろうか? ここ最近だと、是枝裕和監督が手がけた米津玄師の「カナリヤ」のMVや、大作映画『アルキメデスの大戦』(2019年)では平山忠道という重要人物を演じ、連ドラ『僕らは奇跡でできている』(2018年/カンテレ・フジテレビ系)にて高橋一生扮する主人公の祖父役を好演していたことも記憶に新しい。おそらく誰もが、その姿を一度は目にしたことがあるだろう。

 そんな彼による舞台「田中泯 『村のドン・キホーテ』」が、12月4日から6日まで東京芸術劇場・プレイハウスにて上演された。これは当劇場が主催する「芸劇dance」の公演のひとつ。つまりは、“ダンス公演”である。

 冒頭に記したとおり数多くの映像作品に出演しているため、田中泯のことを「俳優」だと認識している方が多いのではないかと思うが、これは誤りである。彼の表現活動のはじまりはダンス。しかし、「ダンサー」というのも正確ではないように私は思ってしまう。なぜ、「田中泯」とカギカッコでくくったかというと、彼の存在そのものが、もはや芸術のいちジャンルにすら思えるからだ。かつて寺山修司が、「ぼくの職業は寺山修司です」と語っていたように。

 「オドリ」というものに魅了されてやまない筆者にとって、「田中泯」という存在はあまりにも偉大だ。ここでは敬意を表して“泯さん”と表記したい。

 先に述べたように、「俳優」としての泯さんの顔は広く知られている。しかし、映画初出演は、2002年公開の『たそがれ清兵衛』でのこと。当時の泯さんは57才。かなり遅めの俳優デビューである。それまでのメインの活動フィールドが、ダンスという身体表現の領域だったのだ。つまり今回の『村のドン・キホーテ』こそが、より本来の泯さんの姿を知ることができるものなのである。

 さて、『ドン・キホーテ』といえば、言わずと知れた古典小説。これを下敷きとした映画や舞台作品などは古今東西に存在するが、本作『村のドン・キホーテ』は、「やはり」というべきか、多くの演劇や、誰もが思い浮かべるであろうダンス公演とは趣を異にするものだった。会話を生み出すような“セリフ”というものは存在せず、かといって、“キレのあるダンス”が見られるわけでもない(もちろん、この“キレ”というものの捉え方は人それぞれだ)。そこにあるのは、泯さんをはじめとする演者たちの“身体”だけだ。

 いや、“身体だけ”というと、やや語弊がある。泯さんは空間演出も務め、大きな花輪や棺桶といった美術があり、舞台が回転する仕掛けも施されていた。しかしそれらはあくまでも、演者たちの身体をより際立たせるセットでしかないように思えた。重要なのは、その“場”、その“空間”において、彼らの身体がどのような状態にあるのかを私たちが見つめているという状況(環境)である。演者たちの身体からは、並々ならぬエネルギーが放出され、その空気が劇場全体を満たしているのをたしかに感じた。

 冒頭、ドン・キホーテを演じる泯さんは、ふたりの演者(續木淳平、手打隆盛)が扮する一頭の馬に乗って登場。その後、彼は自らの足で立つのだが、全身がふるふると細かくふるえ、息も絶え絶えなように見える。いや、見えたのではなく、そう感じた。これは個人の感覚の問題ではなく、彼のその細かくふるえる“オドリ”が、熱量(=生命力)として、客席にまで伝播してきたのだ。それを筆者の身体は知覚したのである。実際、うまく呼吸ができなくなった。これをどんな言葉で表現しようとも、どれもが陳腐になってしまいそうで歯がゆい。ただいえるのは、「田中泯」という人間の身体が発する情報が、筆者にも身体感覚をともなって現れたのだということである。つまりこうして、ひとつの舞台作品を通して、ともに踊っていたような気がするのだ。本公演は2時間の上演時間に、20分もの休憩時間がはさまれた。おそらく演出の都合上ではあるが(換気の問題かもしれない)、正直なところ、休憩なしでは身がもたなかったと思う。いうまでもなく、観客であるこちらの身がである。

 先に、本作において“セリフというものは存在しない”と述べたが、それは一般的な会話に発展しないだけであって、言語そのものは登場する。その言語演出を務めているのが編集工学者の松岡正剛だ。泯さんの弟子にあたる石原淋が演じる“女”は、“音”としてのコトバを発し、これを自身の身体表現にのせた。この“女”が口にした、ひとつの“セリフのようなもの”が印象に残っている。それは、「簡単に驚くことは、捨てることらしい」というもの。筆者はこれを、あの空間にいた自分に重ねた。つまり、いま目の前で起きているもの(『村のドン・キホーテ』という作品、あるいは演者たちの身体表現)に対し驚いているということは、それ以前の自分を捨て去ることではないのかと思ったのだ。舞台上での“オドリ”を見ているうちに、いつの間にか自分も踊り、そうすることによって、“踊っていなかった自分”を無意識のうちに捨てることで変化しているのではないのかと。

 もちろんこれは、観客それぞれの捉え方によって違う意味を持つコトバなのだろう。そもそも、“ボディーランゲージ”というものがあるくらいなのだから、身体の細かな動きもまた言語であり、ときにそれは、私たちの口から発されるものよりも雄弁に物語ることがある。村人役に扮する者たちは顔に“面”つけていたが、各人の顔が持つ固有性が失われることによって、これまたより身体が際立っているように思えた。

 この公演を観る(体験する)直前、いずれ公開されるであろう犬童一心監督による泯さんのドキュメンタリー映画『名付けようのない踊り』を拝見する機会があった。そこには「ダンサー」としての泯さん、「俳優」としての泯さん、そして、「生活者」としての泯さんの姿が収められている。泯さんは1985年より山村へと移り住み、農業を営んでいる人でもある。おそらく多くのダンサーは、踊るために身体づくりをするものだと思うが、彼の場合は違う。農業によって培われた身体で踊るのだ。農作物とともに培われる身体ーー彼の身体表現の礎は、農業(=自然)なのである。ちなみに本公演のPV制作は、犬童監督らが担当している。

『村のドン・キホーテ』Yo! Don Quixote 空間演出:田中泯 言語演出:松岡正剛

 この『名付けようのない踊り』を観たことで、泯さんのフィロソフィーの深部に触れることができ、そのうえで『村のドン・キホーテ』を観たからこそ、特別な“体験”になったのではないかとも思う。本作にも泯さんの日常が反映されているのだ。それはまるで、田畑を耕すような“オドリ(動作)”として取り入れられていた。幸福な機会を得られたと思う。自然や社会、周囲の環境から影響を受けた身体での“オドリ”を志向する泯さん。『ドン・キホーテ』という世界的な名作を扱いながらも、彼にしかできない表現で、彼だからこそ到達できる次元の作品になっていたと思う。松岡正剛は「ミン・キホーテが出現することになった」とコメントしている。まさにそうだ。練り上げられた身体と言語とによって実現した、唯一無二の『ドン・キホーテ』だった。

■折田侑駿
1990年生まれ。文筆家。主な守備範囲は、映画、演劇、俳優、服飾、酒場など。最も好きな監督は増村保造。Twitter

■公演情報
『村のドン・キホーテ』Yo! Don Quixote
空間演出:田中泯
言語演出:松岡正剛
出演:田中泯、石原淋、續木淳平、手打隆盛、高橋眞大、野中浩一、藤田龍平、山本亮介、ウチダリナ、迫竜樹、林岳
チェロ演奏:四家卯大、佐々木恵、友田唱、平間至
企画制作:東京芸術劇場
会場:東京芸術劇場プレイハウス
主催:公益財団法人東京都歴史文化財団 東京芸術劇場・アーツカウンシル東京/東京都 
公演ページ:https://www.geigeki.jp/performance/theater262/

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