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時代によって変化してきたジョーカー像 「バットマン」映画からの変遷を辿る

リアルサウンド

20/7/10(金) 12:00

 繰り返し映像化されてきた、アメリカンコミックの代表格である「バットマン」。近年のアメコミ実写映画化ブームによって、関連する映画が次々に製作、公開されている状況だ。

【動画】歴代ジョーカーの姿が 「ジョーカー」大特集PV

 なかでも、バットマンの宿敵を主人公にした『ジョーカー』(2019年)は、社会現象といえる大ヒットを記録した成功作だ。バットマン映画最高の興行収入を獲得した作品といえば、約250億円という巨額の製作費をかけた、クリストファー・ノーラン監督の超大作『ダークナイト ライジング』(2012年)だが、『ジョーカー』は、なんと約50億円の製作費で、同規模の興行的な結果を出しているのである。

 思えば、『ダークナイト ライジング』の成功の礎となったのも、ジョーカーが登場する『ダークナイト』(2008年)からだった。そう考えると、バットマン映画においてジョーカーの存在がどれだけ大きいのかを再確認させられる。しかし、なぜヴィラン(悪役)に過ぎないジョーカーが、ここまで人の心を惹きつけるのだろうか。

 ここでは、そんなジョーカーが映像作品でどのように描かれ、変遷していったのかを振り返りながら、“ジョーカー”とは一体何なのかを考えていきたい。

 コミックや映像作品、ゲームなど、いろいろなクリエイターによって、ジョーカーのイメージはかたちづくられてきた。その度に設定は微妙に変化しているが、基本となるのは、ピエロのような白い顔に、緑色の髪の毛、紫色のスーツを着た派手な姿であり、異常な精神状態を持った犯罪者であるということだ。バットマンに敗れ逮捕されると、他のヴィランとともに、精神病院アーカム・アサイラムに収容されるのが常となっている。

 バットマンの映像化作品は、40年代から製作されていたが、ジョーカー自体は、1966年のTVシリーズと、映画版に登場。このシリーズは、60年代テイストあふれるサイケデリックかつポップな雰囲気と、コメディタッチの内容が好評を博し、とくに本国アメリカで「バットマン」といえば、この頃のイメージが根強く残っている。

 ベテラン俳優のシーザー・ロメロが、ここで演じたジョーカーは、顔こそ生々しい迫力があって恐いものの、陽気でイタズラ好きな面が強調された、笑いの絶えない楽しい姿を見せている。バットマンと仲良くサーフィン対決をするエピソードが象徴するように、コミック原作のTVシリーズという性質上、子どもが楽しく見られるような親しみの持てるキャラクターとしての面が強調されている。とはいえ、とくにアメリカでは認知度の高さから、このイメージが後世のジョーカー像を考える上での基準になっていることは確かだろう。

 ティム・バートン監督による映画『バットマン』(1989年)、そして『バットマン リターンズ』(1992年)では、そんなコミカルな要素を部分的に引き継ぎながらも、大人の鑑賞をも想定した、監督の作家性である“孤独なマイノリティの哀しみ”が影を落とす、シリアスさが加わるシリーズとなった。

 そのシリーズ中で、マイケル・キートンがバットマンを演じ、ジョーカーが登場する第1作の『バットマン』では、狂気の男を演じてきた名優ジャック・ニコルソン演じるマフィアの男が、ジョーカーになっていくまでの過程が描かれる。ヴィランの事情に迫り、ヴィランにもヴィランとしての奥行きがあることを示し、バットマン映画に複雑な要素を加えることになったのだ。

 このシリーズは、先日亡くなったジョエル・シュマッカー監督が引き継ぎ、ヴァル・キルマーがバットマンを演じた『バットマン フォーエヴァー』(1995年)、ジョージ・クルーニーがバットマンを演じた『バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲』(1997年)が続けて製作されている。

 この2作では、TVシリーズの楽しいバットマンのイメージが復活し、ヴィランに豪華キャストが集結した。とくに後者は、往年の楽しさが復活していると評価される一方で、バットマンのツルンとしたヒップを強調するシーンや、ユマ・サーマン演じるヴィラン、ポイズン・アイビーが、マッチョな半裸の男たちに持ち上げられお神輿されるようなシーンがあるなど、バットマン作品の熱心なファンの中には、おふざけの度が過ぎていると憤慨した観客もいたようだ。

 その後、気鋭の監督クリストファー・ノーランによる、新たなバットマン映画のシリーズが再開される。クリスチャン・ベールがバットマンを演じた、『バットマン ビギンズ』(2005年)、『ダークナイト』、『ダークナイト ライジング』からなるトリロジーである。

 ジョーカーが登場する『ダークナイト』は、その中でとくに評価が高い作品だ。ヒース・レジャーが演じたジョーカーは、髪は乱れメイクも剥がれた鬼気迫る姿で爆弾テロを起こしていくという、凄みのある演技を披露している。これは、ジャック・ニコルソンが演じたジョーカーの身なりの良さや、プリンスの楽曲に乗りながら犯罪をエンターテインメントにしていた姿とは対照的に見える。

 その背景には、2001年のアメリカ同時多発テロという、現実に起こった衝撃的で暗い事件があった。この作品では、バットマンがジョーカーの凶行を止めるために、自警活動の範囲を国外にまで広げたり、守るべきゴッサムシティーの市民の生活を監視するといった、バットマン本来の倫理に反した行動に出てしまう。ジョーカーはバットマンの精神を破壊し、悪の世界へと引きずりこんでいくのだ。このバットマンの狂態は、当時のブッシュ政権が同時多発テロ後に実際に行った捜査のミニチュア版だともいえよう。

 ジョーカーがバットマンの正義の中にある問題を暴いてしまうという構図は、“ジョーカー”という存在を端的に表している。バートン版の『バットマン』が、バットマンとジョーカーを、社会の歪みが生み出した異端の存在として描き、バットマンをジョーカーにあざ笑わせることで、バットマンの正義を揺るがせたように、ジョーカーは正義や思いやりの心など、善良な人々が信じる価値観を笑うことで、それらを傷つけ、無効化してしまうのである。正義のヒーローを肉体的に傷つけるよりも、正義の概念そのものを崩壊させていく。これが、最もおそろしい悪の姿なのではないだろうか。

 ヒース・レジャーが、『ダークナイト』公開前に亡くなったことで、ジョーカーという役は、ある意味で伝説的なイメージを否が応でも負ってしまうことになった。さらにそこに、アニメーションやゲーム作品においてジョーカーの声優を担当したマーク・ハミル(『スター・ウォーズ』)の優れた仕事も重なり、もはやジョーカーは俳優たちにとって、大きなプレッシャーのかかる大役となった。

 そのイメージの被害者となったのが、『スーサイド・スクワッド』(2016年)でジョーカーを演じたジャレッド・レトだった。このジョーカーは、引き締まった肉体の若いストリートギャング風の姿という、いままでにない大胆な解釈がなされ挑戦的ではあったものの、これまでのジョーカーと比べると何か欠けるところがあり、観客の反応もかなり悪かった。出演時間がほとんどカットされるという憂き目にも遭い、その熱演のほとんどの部分が日の目を見なかったのは、気の毒な部分もある。

 ジャレッド・レトのジョーカーに、どこか不満を感じるというのは、前述したような、正義が崩壊する様が描かれなかったためではないだろうか。彼があざ笑うべき正義のヒーローが登場しないことで、ジョーカーの存在意義も希薄になってしまうのだ。そんな持ちつ持たれつの関係を、映画『レゴバットマン ザ・ムービー』(2017年)では、ギャグとして相思相愛の域にまで描くことで、分かりやすく表現している。

 バットマンとの対決が描かれないのは、じつは『ジョーカー』も同じである。であれば、なぜこのジョーカーは、多くの観客に支持されたのだろうか。

 ここでホアキン・フェニックスが演じているのは、TVショーのコメディアンになるという夢を持っている、貧しく孤独な男である。緊張すると思わず笑ってしまうという持病を抱えながらも母親の介護を続け、社会補償が打ち切られることで、急激に追いつめられていく。

 そんな男が、ある日ある事件を起こすことで、これまでに経験したことのない快感を得ることになる。彼は、社会や周囲の人々から冷たい態度をとられることで、自分には何の価値もないという思いにとらわれていた。しかし、そんな彼が社会的に重大な事件を起こすことで、初めて人々が注目し、大騒ぎするようになったのだ。この倒錯した自尊心を再び手に入れようと、男は犯罪を繰り返すようになり、ジョーカーへと近づいていく。

 ここで思い出すのは、近年のアメリカで起こり続けている、無差別的な銃乱射事件である。思い通りにならない社会に復讐するため、虐げられていると感じる人物が、破れかぶれになって銃撃を行い、大勢の無関係な人々を道連れにして死を選ぶ。そんな構図と、『ジョーカー』の内容は、かなりの部分で似ているところがある。起こす事件そのものは重大だが、その動機にカリスマ的な要素はなく、発想も卑小そのものである。だが、これが現在のリアルな脅威であることも確かなのだ。

 そんな凶悪犯罪が生まれてしまうところを見ると、経済格差問題がとくに顕著になってきているアメリカでは、水面下で同じように不満をためている市民が大勢いるということが推察される。日本の観客の中においても、「俺はジョーカーの気持ちが分かる」というような声があがったように、世界各地の同じ問題を持つ社会で、不満を爆発させて犯罪に走るというジョーカーに、少なくとも部分的に感情移入するという現象が生まれたのである。

 ここでジョーカーが笑っているのは、自分をこんな状況にまで追いつめた、世界や社会そのものである。だからここでは、否定される正義であるバットマンを必要とせずとも、ジョーカーの存在意義が守られたのではないだろうか。

 このように、ある価値観をあざ笑い無効化してしまう可能性を持ったジョーカー像というのは、時代によって変化してきたといえる。ジョーカーを見ることで、その時代の悪や脅威のイメージが何なのかということが表現されるまでになったのである。だからわれわれは、ジョーカーから目が離せないのだ。

 最後に付け加えなければならないのは、アフリカ系アメリカ人を警官が殺害したことによって起こった抗議運動と、『ジョーカー』の主人公が起こす暴動が類似しているという見方についてである。しかし、この場合は、人種差別を背景に、警官が特定の人種に苛烈な暴行を働いてきたという歴史的な問題が原因になっているため、映画で描かれた不満とは本質的な違いがある。ここはしっかりと線を引いて理解するべきであろう。

(小野寺系)

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