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大泉洋だからこそ演じられた鹿野靖明 『こんな夜更けにバナナかよ』は“自由”とは何かを問いかける

リアルサウンド

18/12/28(金) 6:00

 いよいよ公開となる『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』は、渡辺一史による同名のノンフィクションを原作にした映画である。

 主演は大泉洋。彼が演じる、ボランティアに夜中にバナナを買いにいかせるような、一見わがままで、好き勝手に生きているように見える鹿野靖明に最初は戸惑うかもしれないが、いつしか彼の魅力に飲み込まれてしまう。高畑充希演じるボランティアの美咲も、鹿野に戸惑い、怒り、やがて近づいていく。美咲は、映画の観客の目線とともに動いているキャラクターと言っていいかもしれない。

 本作は、美咲とその彼氏である医学生の田中(三浦春馬)と鹿野との三角関係を描いた恋愛ものでもあるし、そんな3人の青春の物語である。ときにはくすっと笑い、そして気づくと泣けてくる(もちろん、監督や大泉も各所で言っている通り、それを意図しているのではない)、優れた映画だと思ったのだが、二度目は、また違った目線で観ることができた。

 二度目により注目したのは、鹿野がなぜここまでして自由を得ようとしているのかだった。

 鹿野が自由を求めることは、ほかの人が当たり前に思うこととなんら変わらない。しかし、鹿野のように筋ジストロフィーの患者がそれを求めるだけで、ときに人から「わがまま」とみられてしまう。その当たり前を求めることの正当さを、正当でないとみている人々に対して、問題提起している映画にも思えるのだ。そうなると、鹿野が自由奔放、傍若無人であることには、表面的なだけでない意味がある。

 そこで思い出されるのは自己責任論である。改めて自己責任とは何かと考えると、誰かが人の助けを必要とする状況があったとして、その助けが必要になった原因はその人本人にあると「他人」が突き付けることであるのではないか。自己責任を突き付ける人は、なぜか社会的に誰かが助けを求める状況があると、自分へのリソースが減ると考えてしまう。自分も含め、誰もが助けを必要とする状況があるかもしれないことに気づいていないようにも思える。

 そんな自己責任論者の意見を飲んでしまうと、鹿野のような者は、楽しんだり、好きなことをしたり、自由なことをしてはいけないということになってしまう。

 鹿野が映画の中で、突然電話一本でボランティアを辞めるという学生の発する「鹿野さんて、人生を謳歌してるっていうか、自由だし幸せそうじゃないですか」という言葉に対して、「何言ってんだよ、おれが人生楽しんじゃいけないのかよ」と怒るシーンがある。学生の言葉が、自己責任論を持つ人の意見をよく表した象徴的な一幕だった。

 また鹿野は自分の介助を、母親にゆだねるのではなく、自らが必死にボランティアを集めて実現しようとしている。そこにも大きな意味があり、それが実は自己責任論に対しての反論にもなっているように思えるのだ。

 例えば、一般的に、もしも介護が必要な家族がいた場合、それを家族が助けるのは当たり前と思う人もいるだろうし、それが感動的に描かれることだってある。

 しかし、世の中には、家族という制度に頼れない人も存在する。また、独身者が孤独死するのも自己責任とみなす人もいる。だが、そんな人たちに自己責任を突き付けるということは、孤立しているものは、世の中の落伍者となってもいいと賛同していることと同じである。ここでも、自己責任論者の、自分だけは制度に守られ、そこからこぼれおちないという驕りが感じられる。

 映画には、そんな制度に対してナチュラルに疑問を持っているのがわかるシーンがある。鹿野はあるときから人工呼吸器をつけることになるが、器官に痰が入ったら死の危険が伴うし、痰を吸引するためには、24時間、看護師などがつきっきりでみないといけない。しかも痰吸引は医師や看護師だけが行える医療行為であり、例外的に家族にしか認められないのである。

 それに対し、鹿野とボランティアは、単に制度の言うなりになるのではなく、疑問を呈し、変えようと働きかけるのである。

 抵抗と実験的な改革していくことで、ボランティアは鹿野と疑似家族のような関係性にもなっていく。そんな流れを見ていくと、血縁と婚姻による家族に何もかもを委ねさせることも自己責任論につながっているとわかるし、だからこそ、鹿野は、母親に深い愛情を感じながらも、自分の介護を母親に委ねることはしないのだということも見えてくる。

 自由を得るために、周囲と世の中に働きかけるのは、鹿野にとってはしんどいことでもあるだろう。それでも鹿野が動き続けるのは、単に自分のためだけではなく、社会に対しての問いもあったからだろう。鹿野の魅力は、その「人たらし」的な人間性にも宿っているが、彼が動き続けたことにもあったのだと思う。

 前田哲監督にインタビューしたときに、「この映画は大泉さんがいないと成立しなかった」と語っていた。大泉洋は、鹿野靖明になりきるために、体重を落とし、コンタクトで視力を落としてから眼鏡をかけて役づくりをし、実際に存命のときの鹿野さんに触れた人々にも、鹿野さんそのものと思われるようになったという。

 実際、映画のファーストカットでは、まったくこれまでの大泉洋とも違うのに、この役は大泉洋にしか演じられないと実感させられた。鹿野のわがままなのに何とも言えない「人たらし」なキャラクターに説得力があるのも、大泉洋が演じてこそだろう。

 それに加え、雑誌『STEPPIN’OUT!』では、大泉洋自身がこうした作品の背景に流れるもの、特に「人に迷惑をかけること」の意味や、自己責任というものを実に深く考えたということが分かった。また、前田監督は、この映画がメジャーであるためにも大泉洋が主演でないといけなかったとも語っていた。大泉洋が出演することで、数多くの人が映画を見て、素直にさまざまなことを感じられる。そんなことにも大きな意味があるのではないだろうか。(西森道代)

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