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金原ひとみは小説を書くことで救われてきた作家だーー『パリの砂漠、東京の蜃気楼』を読んで

リアルサウンド

20/6/4(木) 11:30

 今年4月28日に上梓された金原ひとみのエッセイ『パリの砂漠、東京の蜃気楼』(集英社)は、多数ある彼女の著作の中でも群を抜いて素晴らしい。これまでも、パリで暮らした6年と東京に戻ってからの日々を作品に還元していた(であろう)金原だが、本書は広義の意味での私小説であり、パリと東京での実体験が切実なリアリティを伴って迫ってくる。作家としての自分の内幕をあらいざらい曝け出さんという決意や覚悟が全編を覆っている、とも言えるだろう。本書は現時点での金原の代表作だが、一方、軽い気持ちで咀嚼・嚥下しようとすると(いい意味で)胸焼けや胃もたれがする。それでも、もし最初に金原の本でどれ手に取ったらいいかったらいいか?と聞かれたら、母となった金原の恍惚と不安を描出した『マザーズ』と、この『パリの砂漠、東京の蜃気楼』を勧めたい。

参考:綿矢りさが語る、女性同士の恋愛小説を書いた理由「文章はユニセックスに表現できる」

 ベーシックな情報を共有するために、大きな話題となった2003年下半期の芥川賞を振り返ろう。この回の芥川賞は、小説を書き始めたばかりの若い女性ふたりがダブル受賞。まず、綿矢りさの『蹴りたい背中』。これは綿矢が高校生時代に書いた作品であり、綿矢は受賞時、早稲田大学に通う19歳だった。2007年に『夢を与える』という長編を発表したが、その後の執筆は一時的にとまり、アパレルショップなどでバイトをして糊口を凌ぐ時期もあったという。しかし、2011年に映画化もされた『勝手にふるえてろ』(タイトルが西野カナへ向けたものなのは明白)以降、傑作を生み出していった。また結婚し、母ともなった。 

 その綿矢と芥川賞を同時受賞したのが、当時20歳だった金原ひとみの『蛇にピアス』だ。これは金原の処女作だが、既に迸る才気が全篇に漲っている。金原は小学校で不登校になったが、12歳の時に小説を書き始めた。小学6年生の時に親の都合で1年間サンフランシスコに滞在したのだが、その時に父親が買ってきてくれた小説を大量に読んだという。その中には村上龍や山田詠美などが含まれていたらしい。そして、自分でも小説を書いてみたいと思うようになった。

 転機は中学3年生。翻訳家で大学教授である父(金原瑞人)の創作ゼミに「姪っ子の高校生」として名前と年齢を偽って参加したこと。ほかの学生にバレることはなかったそうで、高校を中退して小説を書き、ある程度溜まると父親にメール。赤ペンが入って返ってきたという。

 綿矢と金原の作品やたたずまいは、対照的とまではいかないが、かなり趣を異にする。例えば、中卒の前科者でコワモテの西村賢太『苦役列車』と、慶応の現役大学院生で三井財閥の末裔でもある朝吹真理子『きことわ』が同時受賞した、2010年下半期の芥川賞を連想する人もいるだろう。

 枕が長くなった。例えば綿矢の『蹴りたい背中』は「さびしさは鳴る」という出だし。印象的だ。一方、金原の『蛇にピアス』では、「スプリットタンって知ってる?」という台詞で始まる。いずれも鮮烈なスタートダッシュだ。なお、「スプリットタン」とは蛇のように舌に二股の切れ目を入れること。この小説はクラブでスプリットタンを知った女性アマが、同棲する男性ルイが身体改造にのめりこむのを見ながら、彫り師のシバの店を訪れてるようになり――。『蛇にピアス』は雑駁に言うとそんな物語だ。

 うねりや激情や高揚が渦巻く文体といい、ひらめきや瞬発力に満ちた展開といい、『蛇にピアス』は金原の処女作としてまったく文句のつけようのない。身近な若者たちの日常を赤裸々かつ刺激的に描いた筆致は冴えまくっている。そう言えるだろう。その後『アッシュベイビー』、『AMEBIC アミービック』、『オートフィクション』、『ハイドラ』といった小説のベースとなる萌芽やプロトタイプは既にここにあった。そう断言してみたくもある。

 今挙げた作品群は、件のダブル受賞を知らない世代にも訴求力を持ち、今なお新鮮な驚きをもって迎えられている。彼女の初期作には、素手で爆発物に触れているような不穏さがあり、切れば血の出るように脆さや儚さが凝縮されていた。その無防備さは時に「若書き」と言える部分もあるのだが、それらの要素が小説においてはすべてプラスに働いており、まだまだのびしろが残されていると確信した。

 金原の著作にはタブーや偽りがない。無論、執筆にあたって全体の構成を考え、登場人物の性格や設定を練り上げ、推敲を重ねていくのだろう。だが、作品の質感や濃淡は、あくまでもその時々の金原のテンションやコンディションに左右されていると思える。その意味では、子供を産み母になり、仕事と養育を両立したからこそ、2011年刊行の傑作『マザーズ』は胚胎したのではないだろうか。

 『マザーズ』の主人公は高校時代からつながりのあった3人の母親。皆、赤ちゃんを育てていながら、不倫や浮気、ドラッグ、虐待等々、他者には漏らせない事情を抱えている。3人は相互扶助によって生き延びるのだが、時に修復不可能な惨事へと巻き込まれ、衝撃的なクライマックスを生む。3人の母のうち最も奔放な性格の作家、ユカには金原自身が投影されているのだろうか。「セックスって全肯定だからね。全肯定って暴力だからね」という箴言をもらす。ストレートな台詞は、まさに金原の本音の露出といった風情である。

 赤ちゃんは時に、母にとってわがままで身勝手な他者であり、また同時に共感し愛おしく感じる身内だろう。まったく自分の思い通りにはならないが、分かり合えないところから共同生活をスタートさせなければならない。評者は咄嗟に、最近刊行されたばかりの忌野清志郎『使ってはいけない言葉』(百万年書房)にこんな言葉が躍っていたのを思いだした。

まるで子供のようだと思われるかもしれませんが、夢を実現させるためには子供になるのがいちばんなんですよ。小学生や幼稚園児たちはその辺の大人たちよりも、よっぽど本気で生きています。本気で驚いたり、笑ったり、悲しんだり、ふざけたりもします。遊ぶ時だって本気です。それが段々大人になっていくうちに世の中をなめてみたり人をおちょくったり、妙に大人になぶったり、他人や自分に嘘をついたりすることを覚えてしまう。

 なお、東日本大震災直後の東京に居心地の悪さを感じた金原は、岡山で暮らしたのち、パリに移住。6年、彼の地に暮した。彼の地で金原は、2人の子を育てながら文章を書き続けた。パリでは言葉がまったく通じず、煩雑な役所の手続きなどに難儀したそうだ。言葉の壁や価値観の違い、モラルの在り方も日本とはだいぶ勝手が違っており、2人の子を育てながらの執筆活動は苦労の連続だったそう。もちろん、日本には日本のよさがあるのだが、それは本書を読んで楽しんでほしい。2011年に『マザーズ』が刊行され、Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞した。『マザーズ』の読みどころは多数あるが、要点でありキモとなるのが以下の一節。祈りや誓いような、いやほとんど信仰告白とでも言える述懐である。

幸せになりたい。幸せになりたい。私は幸せになりたい。でも私の求める幸せは、一生手に入らない。私の求める愛も幸福も充足も、全て小説の中にしかないからだ。私が小説を書き続けるのは幸福を追い求めるからで、小説を書かなくなった時が、幸福を求めるのを止めた時なのだ。

 そんなパリから東京に戻った金原の東京発第一作が『アタラクシア』。『アタラクシア』は心の平穏というフランス語だが、そのタイトルとは裏腹に、ほぼ全員が表の顔と裏の顔を自在に使い分けている。彼女たちの人間関係の綾は『蛇にピアス』と較べると、自然で過不足ない構成の元、綿密かつ仔細に全体像をイメージしながら綴られているように思える。拙速より巧緻を選んだ、というところだろうか。ところどころに配置された仕掛けに唸らせられるのだ。

 自分が「今、ここ」を生きているという確証など、どこにも、誰にもない。評者も金原も、皆がそうである。だが、金原は小説を書くことによって社会や世界とかろうじて繋がっている。浮気や不倫、裏切り合い、グロテスクな性描写は、奇をてらったわけでも露悪趣味でもない。彼女は救いと祈りを込めて死ぬ気で小説を書く。書くことによって浄化されて生きながらえる。生きながられたからまた書く……と、この円環が自動機械のように機能する。本を書き終えたからまたいつもの日常に戻り、書くことでまた日常に戻ってくる。そう、金原ひとみは、結果的に小説を書くことで救われてきた、生まれついての作家なのである。

 他の作品に触れる紙幅はないが、特筆すべきは、金原の小説には世間の良識の埒外にいるような人物が度々現れること。人間としてどこか欠けていたり、偏っていたいたり、不安定だったり、世間からダメ男/ダメ女というスティグマ(烙印)を押されたり。彼ら/彼女たちの「本音」は『マザーズ』や『パリの砂漠、東京の蜃気楼』に見られるものだ。特に『パリの砂漠、東京の蜃気楼』には、幼少の頃に不意に紙で手を切ったようなヒリヒリした感触がある。寒気が走るようでいて、目のくらむようなあの幼少期の昏さ――。

 先述の通り、2年前の夏、金原は6年間暮らしたパリから東京へ帰ってきた。『パリの砂漠、東京の蜃気楼』は、2つの街を形容して冠したタイトルである。パリと東京の間で揺れ動く金原は、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの投身自殺へと筆をすべらせる。この自死を、金原は「窓側への誘惑」と表現する。ドゥルーズと同じく、自分も身を投げてしまわないだろうか?という独白である。

 とにかく何かをし続けていないと、自分の信じていることをしていないと、窓際への誘惑に負けてしまいそうだった。これまでしてきたすべての決断は、きっと同じ理由からだったのだろう。不登校だったことも、リストカットも、摂食障害も薬の乱用もアルコール依存もピアスも小説も、フランスに来たこともフランスから去ることも、きっと全て窓際から遠ざかるためだったのだ。そうしないと落ちてしまう。潰れてしまう。ぐちゃぐちゃになってしまうからだ。どちらでも安住できる居場所はない。だが、しかし書き続けるしかない。

 また、『パリの砂漠、東京の蜃気楼』には、こんなやりとりがある。「誰か本音を話せる人がいるの?」と知人に問われた金原は「大丈夫。私は小説に本音を書いてる」と答える。「ずっとそうやって生きていくの?」というさらなる問いに「そうやって死んでいく」と返すのだ。

 作家としてのプライドや矜持に読み手の身が引き締まる。母になったらなったなりにそれを作品に投影し、常に読み手を飽きさせないように細部を練り上げ、社会の空気も自然に作品に反映してきた。だから、その本音が漏れだした『アンソーシャル・ディスタンス』(文芸誌『新潮』に掲載)や「パリに暮して」というエッセイには彼女の本音が散りばめられている。様々な局面で追い詰められながらも、ひたすらに執筆によって昇華・鼓舞しているような実感がここにはある。汲めども尽きぬ筆致の奥行きと広がりを思うと眩暈がする。いやはや、なんという才能だろう。

 ちなみに、金原と同時に芥川賞作家となった綿矢りさ。このふたりは今もなお交流を続けており、対談などで顔を合わせることもある。2007年の対談で金原は綿矢の小説『わたしをくいとめて』について、「綿矢さんは小説に選ばれたような作家さんだなあと痛感しました」と話している。この発言、まるで執筆を続けなければフリーズしてしまう金原にこそ似合う言葉ではないか。

 無双モードで傑作を連発している「綿金(わたかね)世代」の少し上にあたる評者としては、こんな論を書けたことそのものが僥倖に他ならない。試行錯誤やマイナー・チェンジこそあるものの、新刊で出るたびにワクワクさせてくれるのだ、彼女たちは。だからこそ、彼女たちは今もなお文学界の渦の中軸を成すミューズであり続けているのである。つくづく「わたかね世代」の意気込みと覚悟を思い知る次第だ。

 ちなみに、綿矢や金原の作品に共振/共感した人には、『東京ラブストーリー』や『カルテット』の脚本でも知られる坂元裕二のドラマを見て欲しい。特に、『マザーズ』に感じ入った読者には、坂元が脚本を書いた『Mother』や『Woman』を視聴することをお勧めする。ともに、出産/育児の避けがたい困難や、生命が育っていこくことの愉悦が巧みに描かれているからだ。あるいは、さらなる読書欲が生まれたという方には、山内マリコ『パリ行ったことないの』、絲山秋子『離陸』、金原ひとみ『パリの砂漠、東京の蜃気楼』をまとめて読むと面白いのではないだろうか。(土佐有明)

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