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『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH(TRUE)2/Air/まごころを、君に』が“圧倒的”である理由

リアルサウンド

21/1/19(火) 8:00

 通称“旧劇場版”と呼ばれる、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH(TRUE)2/Air/まごころを、君に』が上映中だ。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズの最新作にして完結編になるとみられる『シン・エヴァンゲリオン劇場版』公開に合わせての期間限定上映だったが、新型コロナウイルス感染拡大の影響を重くとらえ、『シン・エヴァ』は公開延期となってしまった。

 しかし、どのタイミングにしろ、“旧劇”が劇場で鑑賞できるというのは僥倖だといえる。なぜなら、『シン・エヴァ』が依然として公開されてない状況において、『エヴァ』の最高峰といえば、やはり“旧劇”であり、“旧劇”こそが全てのエッセンスが凝縮された『エヴァ』そのものであるからだ。ここでは、なぜ本作がそこまで圧倒的な作品なのかを解説していきたい。

 シリーズ最初のアニメーション作品『新世紀エヴァンゲリオン』は、1995年に始まったTVアニメだ。監督は、当時ガイナックスに所属していた庵野秀明。TVアニメ『ふしぎの海のナディア』の次の作品として、多くのアニメファンから期待されていたが、コアなアニメファンではない視聴者にはそれほど注目されていなかった。だが、描かれる人類の危機やキャラクターたちの心理的葛藤など、次第にエスカレートしていく内容は、アニメファンのみならず様々な層の人々に衝撃を与え、再放送時には熱狂的な人気を集めることとなり、その盛り上がりは“社会現象”と呼ばれるまでになった。

 『新世紀エヴァンゲリオン』が様々な人を惹きつけた理由は、一つのシリーズに数々の魅力が存在するからだ。特撮のテイストを含めたロボットアニメとしても、少年の成長物語としても、神話の謎を追うミステリーとしても、綾波レイをはじめキャラクターを愛でるアニメとしても、そしてコミュニケーションをめぐるドラマとしても鑑賞することができ、多様な要素が視聴者の心をとらえることとなった。

 なかでも、緩急のリズムを効果的に変えるメリハリの効いた編集や、ケレン味のある演出、そして90年代に多くの国で問題となっていた、社会において“個”が希薄になっていくという感覚をとらえた部分は、とくに高く評価できる部分だ。

 そんなTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』において、最も物議を醸したのが、ラスト2話である。エピソードがどんどん盛り上がり、渚カヲル登場のエピソードでピークを迎えたシリーズは、最後の2話で、突然に舞台劇のような演出となり、セリフの台本などをそのまま映した映像などが登場する、当時TVアニメとしては考えられないほど実験的かつ難解な内容となった。

 そんなラストに不満を感じるファンが少なくなかった状況と、社会現象が後押しして、『新世紀エヴァンゲリオン』の劇場版が企画された。それは、TVシリーズの総集編とラストの2話を描き直すというものである。当初は一作にその内容を詰め込むつもりだったが、製作の遅延により、TVシリーズ総集編と25話の前半部を含めた『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』(1997年春)、25話と最終話を描き直した『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997年夏)の2作に分かれることになった。これらは当時、「春エヴァ」「夏エヴァ」という愛称で呼ばれることとなった。

 そして翌年、その2つを部分的に組み合わせた再上映作品『REVIVAL OF EVANGELION 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH (TRUE)2/Air/まごころを、君に』(1998年)が公開。今回、2021年に再上映されているのは、ほぼこのかたちに近いものといえる。

 ちなみに、「春エヴァ」が上映される頃は、地方によってはテレビ東京系列の番組が放送されてなく、TVシリーズを観ることのできていないアニメファンたちが存在していた。ビデオ版もまだ途中までしか発売されてなかったため、ファンたちは東京などでTVシリーズを録画している知り合いにダビングしてもらったものを互いに回し合うという、涙ぐましい努力をしていた。またそんな不遇な地方ではTVシリーズを劇場で上映するという緊急措置が行われるなど、かなり混沌とした状況となっていたのだ。

 熱狂とともに迎えられた『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』(「春エヴァ」)は、衝撃的な内容だった。この作品は前述したようにTVシリーズ総集編と25話の前半部で構成され、総集編が「DEATH」、完全新作部分が「REBIRTH」と名付けられた。総監督を庵野秀明が務め、メインスタッフの摩砂雪と鶴巻和哉が監督としてそれぞれの作品を手がけている。ちなみに、タイトルの“シト新生”とは、劇中で人類の敵となる“使徒”が再び現れるという意味のほか、“死と新生”、すなわち“DEATH & REBIRTH”を暗示した、ダブルミーニングとなっている。

 「DEATH」は、TVシリーズのカットを中心に、新作カットを一部追加して編集されたものだ。主人公の碇シンジや、綾波レイ、惣流・アスカ・ラングレーらが、それぞれに弦楽器を奏でながら過去を思い出すという設定になっている。まず、この内容からしてぶっ飛んでいる。総集編とは、これまでの流れを説明する役割を担うものだが、「DEATH」はアクションなどの見どころを押さえながらも、追い詰められていく少年少女たちの心理を軸に編集された、ほとんど“リミックス”といえるような独立した作品になっていたのだ。

 この内容は、同じく内面の葛藤がヴィジュアルとしてそのまま描かれる「夏エヴァ」の先触れでもあった。しかし、ここで初めて「エヴァ」に触れる観客にとっては、多くの部分が理解できないものとなっている。これでは、総集編としての存在意義自体が危ういのではないか。三石琴乃演じる葛城ミサトが、TVシリーズの予告編において「サービスサービスぅ」と言いながらも、実際の対応はツンとしている。この不親切さこそが「エヴァ」ならではともいえるのである。

 言及しておきたいのが、劇場公開時期の「DEATH」についてである。この作品は、公開当時WOWOWで放送されたバージョン「DEATH (TRUE)」で内容が一部修正され、さらに翌年の『REVIVAL OF EVANGELION 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH (TRUE)2/Air/まごころを、君に』公開時に「DEATH (TRUE)2」という再々編集版となった。現在観ることのできるバージョンは、庵野監督が“本来のかたち”だとしている「DEATH (TRUE)2」であり、今回の再上映版もこれが上映されている。

 修正前の「DEATH」では、惣流・アスカ・ラングレーの精神的葛藤が長く描かれ、同じ場面を何度も繰り返す反復的な演出や、サイコホラーのような表現が見られた。WOWOWで放送された「DEATH (TRUE)」では、そのあたりがすでに削られていて、ゲンドウの右手に融合した、ある“生物”が描かれたカットが加わるなど、ほぼ「DEATH (TRUE)2」に近いかたちとなっていた。そして、25話の前半を描き直した「REBIRTH」もまた、暫定的なかたちの作品であり、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』(「春エヴァ」)は、当時発売されたソフトや、BOX版などでしか観ることの難しい、レアな作品となったのだ。

 そして、満を侍して公開された「夏エヴァ」こと『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』は、圧倒的なアニメーション表現によって、さらなる衝撃を与えると同時に、賛否の意見が飛び交い、論争が巻き起こる問題作となった。

 まず、アニメーションそのものの出来が素晴らしい。Production I.Gが共同製作したことも手伝って、全体の作画技術や原画のクオリティが、TVシリーズから飛躍的にアップしている。1997年当時は、同時期公開のスタジオジブリ映画『もののけ姫』が象徴するように、セル画によるアナログ手描きアニメーションが終わりを迎えていく時期であり、日本のアニメーションが受け継いできた従来の技術が一つのピークを迎えた時期でもあった。ダイナミックな構図や、作り手の直感による疑似的なカメラワークによるアクション表現など、その完成度は、この後の「新劇場版」シリーズと比べても圧倒的だといえよう。

 そして、何より圧倒されるのは、本作のテーマやストーリーである。「REBIRTH」でも描かれた問題の冒頭部分では、使徒の攻撃による精神汚染と、自らの存在意義を失ったことで入院している惣流・アスカ・ラングレーの裸を眺めながら、碇シンジが自慰行為をして「最低だ、俺って……」と自己嫌悪に陥る場面が表現される。このように、誰が見ても卑劣で、蔑まれるような主人公の行いを見せることで、反発の声があがったことは確かだ。しかし、シンジ自身が「最低だ」と自認しているように、このような罪を犯してしまう自分への失望が、本作のテーマと深く関係することになるのも確かだ。そして、このシーンを見せること自体が、“きれいごとの嘘ではなく、汚くとも本当のことを描く”という、監督からの観客への宣言になっているのである。

 日本における“近代文学”は、その黎明期に書かれた森鴎外の『舞姫』(1890年)に代表されるように、主人公をはじめ登場人物を善悪のような二元的な存在として描かず、善と悪を含んだ複雑な存在として描くことから始まっている。旧劇公開当時、「エヴァは文学」と盛んに言われたのは、このような複雑な人間性を獲得している人物のドラマを描いたからだ。

 そして最終話で、ついに作中最大の謎であった「人類補完計画」が発動する。その真相となる人類全体の贖罪の行為は、“神と等しき存在”となったエヴァンゲリオン初号機と、そのパイロットである碇シンジの願いそのものともつながっていく。“行き詰まった人類”を補完して同一の存在にしてしまうという計画は、他者への恐怖と自分自身への絶望という、ネガティブな個人的感情と歩調を合わせていくのだ。

 この背景として、日本で一時ブームとなるも、凶行へと走っていったカルト教団「オウム真理教」が起こした事件の影響があったはずである。多くの被害者を生み出した、この悲劇が起こったのは、信者たちが自分自身の頭で考えることを放棄し、絶対者とされた人物の言葉に踊らされ利用されてしまったことが大きな要因ではないのか。それは、岡本喜八監督の『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年)が本作に大きな影響を与えているように、ファシズムが引き起こす悲劇とも重なりを見せる。

 奇しくも近年、世界で大きな問題となっているのが、事実に基づかない情報に多くの人々が乗せられて判断を誤ってしまうという出来事である。これは、かたちを変えた第二次世界大戦時のファシズムの台頭であり、かたちを変えたカルト宗教の台頭ではないのか。

 本作はさらに、「エヴァ」のファンにすら牙を剥く。劇場に集った観客の姿を撮影した実写映像を使用し、その上に「気持ち、いいの?」という字幕を被せたのである。その挑発的な演出は一部の観客を怒らせ、作品の賛否を分ける事態となった。しかし、既存の考えや自分を規定するものを疑うという本作のテーマを考えれば、この表現はある意味で真摯な姿勢だといえよう。ファンたちがアニメーション作品に耽溺していくこともまた、一種のカルトの萌芽ではないのか。本作はその象徴となるキャラクターを“殺す”ことによって、「エヴァ」という“夢”から観客を現実へと帰還させるのである。

 自分の都合の良いものだけを信じるのでなく、自分や他人と真に向き合って現実と対峙すること。そして、自分の頭で考えること。本作『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH(TRUE)2/Air/まごころを、君に』が到達する結論は、いま再び重要なメッセージとしてわれわれ観客に響くだろう。もし新劇場版を楽しみながら、本作を未見だという観客には、できることならぜひ劇場で鑑賞して、本作がもたらす興奮と、深さを味わってもらいたい。

 公開が延期された、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズの新作にして最終作となるはずの『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が掲げるコピーは、「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」。おそらくこれが宣言しているのは、テレビシリーズや「旧劇」も含めた、全てのシリーズを本作で終わらせるという決意であろう。果たしてそれが、前衛的で重要なメッセージを持つ「旧劇」に新たな最後を与えるほどのものになるのか。その視点や興味も含めて、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の公開を楽しみに待ちたい。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH(TRUE)2/Air/まごころを、君に』
1月8日(金)~22日(金)期間限定上映
(c)カラー/EVA製作委員会

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