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芥川賞受賞作『破局』が描く、ゾンビのような恋愛 どこまでも空虚な男が行きつく果ては?

リアルサウンド

20/8/31(月) 10:00

※本稿は作品の結末に触れています。

 この作品を読んでいて、遠野遥という作家の空虚さというか、空洞というか、どんなに手を伸ばしても空を掴むような感覚がずっと抜けなかった。彼は芥川賞受賞後のインタビューでも「そもそも私は、何かを伝えるために小説を書いているのではない」「私の作品をどう楽しめばいいのか、私にもよくわかってない」など、自分で自分の空虚さ、何も無さを持て余すような発言を連発している。自らを繕おうとせず、自然体のさらに先をいく姿を見て、ああ、なんかすごく令和の芥川賞受賞者っぽいなと思った。

 第163回芥川賞受賞作『破局』は、そんな遠野自身を投影したかのような大学生の陽介が主人公だ。都内の大学に通う彼は公務員試験の勉強をしながら母校の高校でラグビー部のコーチをしている。政治家を志す恋人の麻衣子とあまりうまくいっていないときに、お笑いライブで同じ大学の後輩である灯と出会う。

 麻衣子の誕生日にデートに出かけ、ホテルで事に及ぼうとしたら「月のものだから」と断られてしまう。彼女がシャワーを浴びているあいだに陽介はライブ以降ずっと連絡を取り続けている灯を思って自慰行為をする。射精後に彼はこう思う。

〈今の私は、麻衣子のために何かをしたい気分だった。〉

 そこには麻衣子への想いとか、愛情とか、そういったものは一切介在しない。今日は麻衣子の誕生日で、自分は彼氏だからそうするべきだという「役割」を全うしているに過ぎない。うまくいかなくなって当然だろうと思った。だって、この人デートしていてもちっとも楽しそうじゃない。

 陽介は幼い頃に父親から「女性に優しくしろ」と言われ、今でもその言いつけを守り続けている。父親を尊敬しているからとか、女性に優しくするべきだと自らが感じたからではない。それが自身の喜びに結びつくかどうかは咀嚼せず、淡々と目の前に並ぶタスクを片付けるかのように拾い上げていく。身体を鍛えること、ラグビーを教えること、彼女を作ること、セックスをすること。こうしたら自分の感情がこう動くというよりも「べき」が強い行動規範になっている。麻衣子とのデートや灯に対する振る舞いを振り返ってみると、確かに彼は優しいのかもしれない。行動だけ見れば。

 公務員試験が終わって麻衣子に会おうと言うと、お世話になってる小山という議員の家に招待されているから都合がつかないという。

〈麻衣子に以前聞いたところでは、小山は五十代の半ばで、既婚者だった。五十過ぎだろうが既婚者だろうが、男は男で、性器もまだまだ勃起するだろうと思った。〉

 嫉妬ではない。自分の所有物を他人に干渉されることへの憤りがあるだけだ。麻衣子と会えなかったちょうどその日に灯から連絡がきて食事を共にし、彼女の家を初めて訪れる。やがて陽介は麻衣子と別れて灯と付き合うようになる。

 灯と付き合い始めてすぐの真夜中にインターホンの音で目が覚める。鳴らしていたのは終電を逃した麻衣子だった。

〈私の知っている麻衣子は、決して終電を逃さない。〉
〈約束もなく家に来ることも絶対になかった。〉

 強引に上がり込んだ麻衣子は、お世話になっていた議員から「誘い」を受けたのを断ってここまで来たのだと言った。陽介も麻衣子も似たもの同士だ。空っぽの自分自身には目を向けず、自身に空いた穴を「相手を失ったからだ」と決め付けて行動する。間違った行動はどんどんその穴を拡げていく。

 灯と付き合い始めてからも陽介の「べき」に基づく行動は一貫している。旅行先の公園で灯が滑り台を滑るのに手間取っているときに、ある男が彼女の方を見ていることに気付く。

〈私がしたように、灯の下着を見ようとしているのかもしれないと思い、牽制のために男のほうへ体を向けた。私は灯の彼氏だから下着を見ることもあるが、この男にはその権利がなく、もし本当に見ようとしているなら、私はそれをやめさせなくてはならない。〉

 ここでも陽介の感情は一切見えてこない。嫉妬とか独占欲とか、女性と付き合っている男性が持っているであろうものがすっぽり欠落している。そこにあるのは「灯の恋人として自分はどう振る舞うべきか」という、ただそれだけの規範である。まるで陽介自身が陽介というひとりの人間に乗って、最善の選択肢を選び続けているかのようだ。

 しかし、彼はこのあと突然涙を流す。旅行中に灯に温かい飲み物を買ってやろうと自動販売機の前まで来たが、冷たい飲み物しか置かれていなかった。灯に飲み物を買ってやれなかったことを悲しく思い、陽介は涙が溢れて止まらなくなる。

〈その上、私は自分が稼いだわけではない金で私立のいい大学に通い、筋肉の鎧に覆われた健康な肉体を持っていた。悲しむ理由がなかった。悲しむ理由がないということはつまり、悲しくなどないということだ。〉

 優しい彼女がいて、いい大学に通っていて、鍛えられた肉体を持っていて。そんな自分は恵まれているし、悲しくなんかない。果たして本当にそうだろうか。どんなに第三者から見た良い条件が揃っていても、自分が納得し、満足していないとそんなものはなんの意味もない。涙を流しても、彼はそのことに気付けない。理由なんかなくたって、悲しんだっていいのに。

 最後、灯と〈破局〉を迎えて陽介は動揺する。私は安堵していた。彼も別れ話を切り出してきた恋人に縋れるような人だったのだと。今まで抑え込んでいた感情が、痛みと悲しみを伴ってずるずると引きずり出されていく。

〈ゾンビになったと思えば、痛みも悲しみも感じない。〉

 生きている限りゾンビにはなれない。生きていれば痛いし、悲しい。彼が最後に見せる姿は滑稽だが、今までで人間らしくて、私はとても好きだと思った。

■ふじこ
兼業ライター。小説、ノンフィクション、サブカル本を中心に月に十数冊の本を読む。週末はもっぱら読書をするか芸人さんの配信アーカイブを見て過ごす。Twitter:@245pro

■書籍情報
『破局』
著者:遠野遥
出版社:河出書房新社
価格:本体1,400円+税
出版社サイト

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