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『リチャード・ジュエル』が誘う終わりのない問い イーストウッドの“悪意”を受け考えるべきこと

リアルサウンド

20/2/6(木) 10:00

 私たち現代観客は『リチャード・ジュエル』というアメリカ映画をどのように見たらよいのだろうか。一見シンプルなテーマを持ち、ひょっとすると類いまれな感動と落涙にすらいざなわれてしまいもするこの映画に、人はするどく不審な点を嗅ぎつけ、堂々巡りの問いへと誘い込まれていく。身近な言い方を使うなら「ツッコミドコロ満載」の映画だということになる。感動的な良いハナシではあるが、ちょっと変だぞ。疑いが頭をもたげ、この疑いについての堂々巡りが始まる。

 クリント・イーストウッドの映画を見るとは、この疑いの堂々巡りに巻き込まれ、それに耐える体験のことだろう。ところが、ここ日本ではイーストウッド映画は無抵抗に支持されすぎた感がある。参考として『キネマ旬報』の年間ベストテンを例に取ると、1993年に『許されざる者』が1位を獲得したのを契機として、軒並みベストテンの上位を飾り、日本で最も人気のある映画監督のひとりとなった。『マディソン郡の橋』3位、『スペース カウボーイ』1位、『ミスティック・リバー』1位、『ミリオンダラー・ベイビー』1位、『父親たちの星条旗』1位、『硫黄島からの手紙』2位、『グラン・トリノ』1位、『チェンジリング』3位、『 インビクタス/負けざる者たち』2位、『ヒア アフター』8位、『J・エドガー』9位、『ジャージー・ボーイズ』1位、『アメリカン・スナイパー』2位、『ハドソン川の奇跡』1位、『15時17分、パリ行き』6位、そして現在販売中の最新ベストテンで『運び屋』4位。壮観だが、いくらなんでも出来過ぎではないか。

 ここまで一貫して絶賛が持続するのには、違和感を拭えない。私たち日本の観客はイーストウッド映画がもたらす問題点を看過したまま、絶賛装置をかんたんに作動させてはいまいか。そのあたりをめぐり、今回の新作『リチャード・ジュエル』は少なくない材料を提供してくれているように思う。

 1996年の夏。アトランタオリンピック関連イベントの野外会場で、テロリストの仕掛けた爆弾を発見し、いったんは地元のヒーローとなった警備員リチャード(ポール・ウォルター・ハウザー)は、その3日後には第一容疑者に転落する。英雄気取りの自作自演だという疑いだ。自宅前に大勢の報道陣が24時間張り込んで、彼と彼の母親(キャシー・ベイツ)の生活は破壊された。ただし、この作品は実話の映画化であり、リチャードの容疑は事件から3カ月目にして晴れるという幕切れが、あらかじめ観客に知られた状態で見ていくことになる。「ネタバレ」を異様なまでに嫌悪する現代の観客像に抵抗するかのように、『リチャード・ジュエル』は「ネタバレ」された物語を、堂々と語り直していく。あたかも本作のワンカット、ワンカットが「じつはあなた方観客は、リチャードの真実を知っていると思い込んでいるだけではありませんか?」と問いただすかのように。

 クリント・イーストウッドは本作を監督した動機として、「リチャードの名誉を挽回するため」と語っている。「彼は普通の男なんだ。こともあろうに警官になりたいと願い、人々がよりよい生活を送れるよう献身的に働きたいと願い、そしてあんな英雄的な行為をとったら、そのために大きな犠牲を払うはめに陥った。彼は世の中から見捨てられたんだ」(劇場用パンフレットより)。

 しかし、彼が「普通の男」だと思える要素は、アメリカ南部の住人でなければ通用しない点も多い。彼の趣味は狩りだというが、それにしては重装備の銃器類や刃物が自室に保管されている。軍事おたく、セキュリティおたくの様相を呈し、観客の中の「普通」という概念を容赦なく揺さぶるだろう。

 事実として彼が本当に爆弾を発見した勇気ある警備員であることは、映画の前半部分でちゃんと描かれている以上、私たち観客が彼を犯人だと疑うことはあり得ない。しかしながら、彼の性質、信条、買い揃えた品々を目撃するにつけ、さらに映画の冒頭で彼が他人のデスク引き出しをいろいろと観察しているところを見るにつけ、それが彼のサービス精神、人の役に立ちたいという善意のものであっても、「これは普通とはほど遠い」「なぜ彼は罠にはまる要素ばかり集めてしまったのか」と問わざるを得ない。このような疑惑の煽り方はいったい何のためになされるのだろう。イーストウッド映画の奇妙な謎、疑問点は、映画の細かい点を頓着しない彼の放埒さに原因を求めるべきなのか。それとも、もっと歪んだ悪意の仕掛けとしてあるのか。

 悪意の仕掛けといえば、すでに世界中で報道されている同作への批判に触れないわけにはいかない。「FBIは地元の英雄リチャードを疑っている」というスクープ記事を書いた「アトランタ・ジャーナル・コンスティテューション」紙の実在の女性記者スクラッグス(オリヴィア・ワイルド)の描き方が事実と異なり、FBI捜査官からセックスを引換えに容疑者情報を手に入れた狡猾な記者として描いたため、同紙は法的手段も検討中だ。すでに彼女は故人であるため、映画に反論できず、彼女の元同僚たちはこれが事実ではないと述べている。AFP=時事通信は製作のワーナー・ブラザースの反論を掲載した。リチャードが疑われていると真っ先に報じた同紙が「映画の制作陣とキャストを中傷しようとしているのは残念であり、結果的に皮肉なことだ」。

 イーストウッド本人はあっけらかんと次のように述べる。「彼女はああだったんだよ。(中略)とにかく尋常ではない人だったらしいよ。彼女は常に警察とつるんでいた。(中略)この件にかんして彼女がどうやったかについて、私たちは私たちなりの推測をした」。(劇場用パンフレットより)

 ワーナー社が「皮肉」という単語を使ったから、こちらも使わせていただくが、この事態は皮肉なことだ。真実をあらためて語り直すことで、傷ついた英雄の名誉回復を図って制作されたこの『リチャード・ジュエル』という映画が、リチャードを貶めることとなった記事の書き手に対して、「推測」によって似たような問題を引き起こしている。そしてそれはシナリオの不備というより、意図的に仕掛けられた挑発に思える。映画は女性記者への仕返しの意図を持ったのか。いや、ジェンダー問題がかつてよりも顕在化し、問題として語られるようになった昨今の傾向を睨みつつ、いくぶんか炎上的な手法もにじませたのかもしれない。

 だとするなら、本作を単なる美談として考えるわけにはいかない。映画はマスメディアや第三者によるリチャードへの仕打ちを告発し、彼の名誉を守ると同時に、別の人物(スクラッグス記者)には過剰な仕打ちをほどこしたことになる。FBIがリチャードには共犯がいると推測し、共犯者である親友とはホモセクシャルな関係だと推測していると知るやいなや、リチャードはそれまでの穏健さを失って烈火のごとく憤慨し、自分が同性愛者でないことを証明したいと息巻く。この憤慨ぶりがある意味で、彼にとって自由への突破口のような形を取ることも、見ていて不快だったと筆者は告白しなければならない。保守的なアメリカ南部の、20世紀末の白人男性の心象などそんなものだと言われればそれまでだが、この映画の採用するエピソードの選択は、かなり歪んではいまいか。

 ここまで書いてきて、筆者自身怯まざるを得ないのは、だいぶネガティヴなことを書きつらねたなという自覚のためである。というのも、筆者はこれらの少なくない瑕疵にもかかわらず、本作にかぎりなく感動している自分を発見してもいるからだ。それは筆者が男性だから、女性記者の描写に対して感覚が鈍いからだろうか。いや、それは違う。上記のように、これらの瑕疵は看過できないことは明白だ。

 それでもなお、画面が生の息づきで活気を帯びたり、せつない停滞を過ごしたりして、この苦しみに満ちた物語を縁取っていくのである。映画ファンとはかくも愚かで、現実に目をつぶり、美学に耽溺してしまう人種なのかと疑惑をみずからに突きつけつつ、我が子の潔白を訴えるスピーチをするキャシー・ベイツの目をーー、ドーナツ屋での弁護士とリチャードの安堵の抱擁をーー、マスコミの攻勢にさらされたリチャードがみぞおちを押さえ(心臓疾患の典型的な症状だ)、それでも一言も発しないしぐさの隠された苦しみをーー、私たちは運動と時間の芸術として、条理ある疑いのかなたに見逃さないようにしなければ。そうでなければ、映画が単なる社会考察と性格批評のサンプルに堕していく危険がある。ファシズムに魅せられたベルトルッチのイタリア映画を見るのと同じような両義性によって醒めた(冷めた)瞳と耳の絶え間ない取引の中で、現代映画が陥る瑕疵を認めつつ、そこに引っかからない襞をも見出していく。今のところ、筆者が『リチャード・ジュエル』から受けた得も言われぬ感動について語れるとしたら、こうした地点にとどまっている。(荻野洋一)

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