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2010年代のアイドルシーン Vol.8 2014年の渡辺淳之介(前編)

ナタリー

2014年の渡辺淳之介

2010年代のアイドルシーンを複数の記事で多角的に掘り下げていく本連載。今回は音楽プロダクション・WACKの代表取締役として、“楽器を持たないパンクバンド”BiSHをはじめとする数多くのグループを手がけている音楽プロデューサー・渡辺淳之介にフォーカスする。

現在、WACKは幅広い層から厚い支持を得ているBiSHを筆頭に、アイドルシーンにおける一大勢力としての地位を確立しているが、このコラムで着目するのは会社が設立された2014年の出来事。AKB48やももいろクローバーZが東京・国立競技場での単独コンサートを成功させるなど、アイドルシーンがひとつのピークに達していた中、渡辺は第1期BiSの解散、つばさレコーズからの独立という流れを経て、翌年のBiSH結成に向けて準備を進めていた。今に至るキャリアの中でターニングポイントとなったこの年のことを当人はどう振り返るのか。前編となるこの記事ではBiSの発起人の1人であるプー・ルイ(PIGGS)の証言も交えつつ、神奈川・横浜アリーナでの第1期BiS解散ライブまでの動きをたどった。

取材・文 / 小野田衛

大きかったのは、でんぱ組.incの存在

2010年からのアイドルシーンを振り返る当連載の中で「絶対に登場していただきたい」と狙いをつけていた人物、それがWACK代表の渡辺淳之介である。近年、破竹の快進撃を続けるBiSHの生みの親であり、現在はほかにもBiS、EMPiRE、豆柴の大群、GO TO THE BEDS、PARADISES、ASPといった多くのグループをプロデュース。間違いなくカリスマと呼べる音楽プロデューサーの1人だ。

渡辺の方法論は極めてセンセーショナルで、BiS「My Ixxx」でメンバーが全裸となるミュージックビデオを撮影するなど、常に世間の度肝を抜き続けてきた(参照:アイドルなのに野外で全裸、BiSが初シングルの衝撃PV公開)。WACK所属グループはそれぞれに個性があるものの、時代の空気感を読みながら型にはまらないアプローチで話題を強引に振り撒く姿勢は一貫している。WACK勢の中でも出世頭のBiSHは幕張メッセや大阪城ホールなどの大会場で公演を行うようになり、新譜をリリースするたびにオリコン1位を獲得するほどの人気グループに成長した。

渡辺のプロデュースは過去のロックカルチャーへのオマージュが目立つのも特徴で、アイドルに興味を持たない層も取り込むことでメジャー化に成功。その一方で渡辺は毀誉褒貶相半ばする人物でもある。メンバーやファンが渡辺に心酔する様子が宗教的であると揶揄されたり、合宿での言動がパワハラではないかと批判された過去もあった。

しかし今回、ここで取り上げたいのはこうした渡辺の特異な人間性についてではない。「2014年の渡辺淳之介に何が起こったのか?」というのが本稿のテーマなのである。

渡辺がBiSでアイドルのプロデュースに乗り出したのが2010年の話。その時点で彼は川嶋あいや水曜日のカンパネラなどが所属する、つばさレコーズの正社員だった。その後、2014年に第1期BiSは解散(※のちに再始動するBiSと区別するため、本稿では便宜上「第1期BiS」と表記する)。同時期につばさレコーズを退社した渡辺は新たにWACKを設立する。当初、WACKではロックバンド・This is not a businessなどを運営していたものの、2015年に入ると「BiSをもう一度始める」と再びアイドルのプロデュースを開始。これがBiSHの出発点となっている。現在のアイドルシーンにおいてWACKが一大勢力となっているのは明らかだが、となると2014年前後の渡辺の動きが歴史の変換点だったのではないかというのがナタリー編集部の見立てだった。

取材当日、「今日はなんでもしゃべりますよ」と明るい調子で椅子に腰かけた渡辺に対し、「2014年の渡辺さんは何を考えていたのか? 伺いたいのはズバリそこなんです」と切り出す。「2014年か……」としばらく考え込んだ目の前の敏腕プロデューサーは、「とにかく大きかったのは、でんぱ組.incの存在なんですよね」と意外な角度から話を始めた。

「あの頃、でんぱ組.incとBiSはスプリットCDを出したりして、シーンを一緒に作っていこうという機運があったんです。いわゆる独立系というか、“インディーズ事務所の最有力サブカル系アイドル”みたいな立ち位置でしたから。それで2組が『ここから行くぞ!』とやっていく中で、明らかにBiSはコアな方向に向かい、でんぱ組はマスに向かっていった。これで明確な差をつけられたんです。それがすごく悔しかった思い出がありますね。結局、彼女たちはもっと先を見ていた。彼女たちというか、もっとはっきり言っちゃうと、もふくちゃん(福嶋麻衣子=でんぱ組.incプロデューサー)ですよね」(渡辺)

渡辺のコメントには補足が必要だろう。これまで当連載でも繰り返し触れてきたように、アイドル戦国時代が本格化したのが2010年。そこからグループが雨後の筍のように誕生し、ローカル系アイドルやインディー系アイドルにも注目が集まるようになった。ファンの熱狂を目の当たりにして、「これはいける!」と運営スタッフの闘志に火がついたのも当然の話である。今だったら天下が獲れるかもしれない。世の中の価値観を覆せるかもしれない。時代を自分の手に手繰り寄せるために、メンバーも死に物狂いでライブやイベントに臨むようになっていく。

アイドルバブルはすでに弾けていた

だが渡辺は当事者でありながらも、どこか醒めた目線でこの現象を受け止めていたようだ。彼の歴史認識では「2014年時点で、アイドルバブルはすでに弾けていた」ということになる。2014年といえば、3月にはAKB48やももいろクローバーZが国立競技場でコンサートを開催し、まさにアイドルブームの絶頂期と見なされていた頃だ。いったい、どういうことなのか?

「でんぱ組.incが突き抜けて、BiSが解散した。これが2014年の出来事なわけです。僕たちBiSは、横浜アリーナの観客動員数が公称7000人というところで解散。一方のでんぱ組は2014年に日本武道館をやったあと、2015年に代々木第一体育館2デイズ。これが公称でトータル2万人くらいだったのかな。ところが、この2組に続くクラスのグループがいなかったんですよね。武道館ライブを開催するものの、集客面で苦戦するグループもありましたし。そんな中、きちんとした形で武道館を埋められたのが、でんぱ組。僕たちBiSは結果的に横浜アリーナを埋められなかったけど、たぶん武道館のキャパでやっていたら埋まっていたように見えたとは思うんです」(渡辺)

AKB48などに代表される大手を除いて考えた場合、ブームと騒がれるわりに層が薄かった。トップと地下群は存在したものの、先頭集団を追走すべき中間層がごっそり抜けていた──。このような渡辺の指摘はライブの観客動員数だけでなく、CD販売枚数というデータ上でも確かに裏付けされている。現場に立っていた人間ならではの鋭い分析は続く。

「ひめキュンフルーツ缶などの地方発アイドルが注目された流れも、2014年時点ではもうひと段落していましたしね。2015年の『TOKYO IDOL FESTIVAL』で大阪☆春夏秋冬が『見つかった!』と騒がれましたけど、あれが最後の花火だったのかもしれない。今考えると僕たちがBiSを始めてから2012年くらいまでが本当のバブルで、地下アイドルはどこでも客が入るといった感じだったんです。平日の月曜から金曜まで300人から400人規模の地下アイドルイベントが乱立していて、そこで僕たちも荒稼ぎしてたんですよね(笑)。チケットバックがありましたから。とにかく毎日現場があるみたいなイメージ。もっとも、今やそれもなくなりましたけど。

のちにBiSを解散させてBiSHを始めるようになると、最初こそほかのグループとツーマンもやっていたんですけど、圧倒的にBiSHのほうが対バン相手よりも客を連れてくるという状況が続いたんです。こうなると、やっぱり考えちゃいますよね。でんぱ組と一緒にやっていた頃は、口では『一緒に盛り上げようぜ!』と言っておきながら、実際はでんぱ組に頼っていた部分も大きかった。だけど逆の立場になってみると、あまり自分たちとしては“うまみ”が感じられない。それどころか、メジャーを目指すうえで遠回りになるような気もしてきて……。こういうことばかり言ってるから俺はすぐ叩かれちゃうんだけど、でもこれはリアルな話。だから2015年以降のBiSHはアイドルとの対バンをほとんど行わず、ワンマンで突っ走っているんですよ。フェスには出てきましたけどね。このアイドルシーンに頼る必要性がないというのが正直なところなんです」(渡辺)

アイドル戦国時代の終焉を敏感に感じ取った渡辺は、戦略を大きく転換させていく。ここからは共存共栄の考えは捨てたほうがいい。下手したら共倒れに終わる恐れもある。歯に衣着せぬ発言からとかく誤解を受けやすい渡辺だが、「メリットがない以上、やる必要がない」というプロデューサーあるいは経営者としてのシビアなジャッジは至極真っ当だと言えよう。事実、BiSHのみならずほかのグループも含め、現在のWACKはアイドル対バンをほとんど行っていない。一種の鎖国政策と見なすこともできる。

アイドルは大人のおもちゃのようなもの

ところで渡辺自身はアイドルを手がけたくて業界入りした人間ではない。音楽好きではあったものの、リスナーとしてもアイドルに興味など一切なかったという。そんな渡辺をアイドルの世界に引きずり込んだキーパーソンが、長年にわたる盟友のプー・ルイである。2010年にBiSが結成された経緯を本人が次のように解説してくれた。

「私はハロプロ(ハロー!プロジェクト)が大好きなんですけど、渡辺さんの頭にはアイドルのことなんて1mmもなかったと思います。最初に出会った頃の渡辺さんって、今よりも貫禄があって怖かったんですよ。見た目的にもカート・コバーンみたいなロン毛だったし。それで私もつばさレコーズのオーディションに受かってソロデビューしたはいいけど、どうしていいのかわからないような状態が続いていて……。そんな中、(音楽ニュースサイト)『OTOTOY』さんの連載企画の打ち合わせがあり、そこでアイドルが好きだという話をしたら、編集長の飯田(仁一郎)さんが『そんなに好きなら、アイドルグループやっちゃえば?』と言ってくださいまして。当時、私は渡辺さんのことが大嫌いだったので、困らせたいという気持ちも大きかったですね。それで『アイドルやります!』と宣言したんです」(プー・ルイ)

「OTOTOY」編集部での“三者会談”が終わったあと、喫茶店に連れていかれたプー・ルイは「考え直せ」と渡辺から詰められた。しかしプー・ルイの意思は意外に固く、あれやこれやという間にメンバー選考オーディションに突入してしまう。こうなると、もう渡辺もあとには引けなかった。右も左もわからなかったが、とにかく本気でアイドルグループを売ろうと覚悟を決めていく。再びプー・ルイが証言する。

「第1期BiSの頃は今ほど世間に知られていなかったから、常に焦っていたんですよね。でもそれは私だけじゃなくて、渡辺さんも同じだったと思う。常に面白いことを仕掛けていかなくてはいけないと、ずっとBiSのことを考えてくださっていました。あの当時、渡辺さんもBiSを売らなければ未来がないという気持ちでいたのは間違いないです。渡辺さんはプロデューサー。私はメンバー。だから立場は違っていたものの、勝手に共犯者のような気持ちで私はいましたね」(プー・ルイ)

一方の渡辺は、BiSが結成された2010年当時のことを次のように述懐する。

「確かに僕はアイドルに関する予備知識なんて一切なかったです。そんな中で感じたのは、言い方は悪いですけど、何もできない奴らが調子に乗っているなということ。普通のアーティストは自分で曲を作って歌詞を書いてステージに立つわけです。ただアイドルは何もできない女の子が楽曲を渡されて、会場を用意されて、『武道館に行きたいです』とか言ってる。もちろん才能がある子たちも中にはいると思うんですけど、基本的には何もできないし、すべてやってくださいという甘えたスタンスで来る。これは2010年だけじゃなく、2014年にも感じていたし、2021年現在も感じることです。こういう言い方をすると、ファンの人からは怒られるかもしれませんね。でも逆説的に彼女たちが何もできないからこそ、可能性が広がるという部分は確実にあるんですよ。何もできないからこそ、自分たちの夢を試せたと感謝している気持ちはすごく強い。

例えば僕とずっとタッグを組んでいるサウンドプロデューサーの松隈ケンタにしたって、志半ばで自分のバンドが活動休止に追い込まれたという過去を持っているんですね。だけど自分の音楽を世の中に届けるという意味では、アイドルほど便利なものはない。僕から言わせれば、アイドルというのは大人のおもちゃなんです。大人のおもちゃなんだから、最大限まで自分たちで利用できる方向を考えましょうというのが基本理念。BiSが解散したあと、いよいよ本格的に好き勝手に動こうぜとやっているのはそういうことなんです」(渡辺)

「何もできない奴らが調子に乗っている」とはひどい言い草だが、これは多分に渡辺特有のシニカルなコメントである可能性も高いため、額面通りに受け取るのは早計かもしれない。それよりも重要なのはプー・ルイに巻き込まれただけの渡辺が、アイドルという沼の魔力に引き込まれていく過程である。早稲田大学卒業後、ロック青年だった渡辺は音楽事務所デートピア就職を経て、つばさレコーズの中で「何かを成し遂げよう」ともがき続けていた。アイドルというフォーマットだったら、自分も何者かになれるのではないか。それは一種の光明だったに違いない。

参考にしたのはAKB48とマルコム・マクラーレン

アイドルをイチから勉強しようとしたとき、渡辺がまず参考にしたのはAKB48だった。中でも映画「DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る」からは多大な影響を受けていると断言する。前田敦子が過呼吸で倒れるシーンが有名な作品である。

「前田敦子ちゃんが倒れるところを観て、多くのアイドルファンは衝撃を受けたじゃないですか。だけど僕は、多くの人が衝撃を受けているという事実に衝撃を受けたんです。だってそれまで自分の周りではあれが普通の世界でしたから。倒れたあと、『フライングゲット』で華麗に戻ってくる場面も含めて、前田敦子ちゃんがかわいそうとはとても思えなかったんです。そもそも彼女たち、ちゃんとしたナースカウンセラーみたいな人も付いているわけですしね。僕からするとそこまで大したことじゃないことが残酷ショーとして衝撃になるんだということが衝撃だったんです。やっぱり大手はすごいな、同じことをやっていたら絶対に敵わないなと思い知りました。同じアプローチをしたところで、地下アイドルのファンにはまったく響かないでしょうしね。同じ土俵で戦えないのなら、どうすればいいのか? 大手と違うことをやるしかない。それで過激なことをBiSでやるようになったんですよ。そのへんはAKB48さんから学ばせていただきました」(渡辺)

今でこそ柏木由紀をWACKでプロデュースしたり、TBSの人気番組「水曜日のダウンタウン」とタッグを組んで豆柴の大群をデビューさせたりと、音楽シーンでメインストリートをひた走っている渡辺だが、当時の状況はまるで違っていた。第1期BiSでは「大手事務所はバビロン。俺たちはそこに立ち向かう反逆戦士」という気概でいたという。そのためにも、プー・ルイが指摘するように世間をあっと言わせるような“仕掛け”を渡辺は常に考えていたのだ。

「話題を切らせてはいけないんだという焦りがありました。特に2013、2014年くらいはアイドルがまだいっぱい出てきていた時期だし、その中で常にニュースソースが一番あるグループにしなきゃいけないんだという考えがあって。たぶん1週間に1個くらいは何かしらニュースを出してたんじゃないかな。『BiSの話、最近は聞いてないな』と思われた瞬間に追われなくなっちゃいますからね。

やっぱりこれも『少女たちは傷つきながら、夢を見る』の話になっちゃうんですけど、アイドルってこんなにもストーリーが大事なんだということをあの映画で学んだんですよ。例えば劇場で数人しかお客さんがいないところからここまでのし上がってきたというエピソードとか。『そうか、アイドルってすごく成長を見守る文化なんだな』といった感じで僕も学習していったんです。ももクロ(ももいろクローバーZ)の物語もそういう要素は強いじゃないですか」(渡辺)

アイドルに物語性が大事だということは、まったくもってその通りである。ただし初期のBiSはAKB48のように地上波で週1回のレギュラー番組を持っていたわけでもなく、自分たちで能動的に話題を提供していくしかなかった。その際、渡辺が大いに参考にした人物がSex Pistolsの名物マネージャーであるマルコム・マクラーレンだった。

「『セックス・ピストルズを操った男‐マルコム・マクラーレンのねじけた人生』(CBSソニー出版)という本がありまして、現在絶版でプレミア化していて1万円くらいするんですけど、僕は本当にこの本を熟読していて(笑)。やっぱり彼がすごかったところってスキャンダルを肥しにするというか、とにかく新聞の1面を取ることが大事という信念があるわけですよ。そのためには捕まってもいいみたいな覚悟。ナメ切ったことを徹底してやっていくという姿勢が、当時の世相に合っていたと思うんです。だって当時のイギリスは失業率も大変なことになっていて、その中で反体制丸出しのバンドがチャート1位を獲得したわけですからね。もっとも、この1位というのもなかったことにされるわけですけど」(渡辺)

この“体制側によって1位が阻止されたシングル”というのは、1977年にリリースされたSex Pistolsの「God Save the Queen」のことを指す。イギリス国家と同名曲でありながら内容的には痛烈な王室批判メッセージで貫かれており、フラストレーションを抱えた若者たちから絶大な支持を得た。そういったロック本来が持つ危険な魅力に渡辺は心酔しており、BiSでもその方法論を踏襲しようとしていた。世間で物議を醸すのは当然の話だった。

前述した全裸MVだけでなく、握手会ならぬ「ハグチェキ会」の実施、ノイズバンド・非常階段とのコラボ、「メンバーに3時間家政婦をしてもらう権利」をメンバーに内緒でYahoo!オークションに出品、ももクロ街宣車“奇襲”事件、ファンを欺く王道アイドル路線への転向宣言(ドッキリ企画)、デザイナー・コシノジュンコの電撃加入……AKB48(秋元康)とSex Pistols(マルコム・マクラーレン)を参考にした過激な仕掛けの数々が、当時のサブカルチャーのシーンでもエッジの立った音楽ファンに刺さったのは事実だ。当時はそんな表現すら存在しなかったかもしれないが、BiSは「バズらせる」ことに命を懸けて「炎上商法」を全力で貫徹したのだった。何かアクションを起こすたびにメンバーは大きな非難を浴びたものの、アイドル界で確固たる地位を築いていく。

第1期のBiSが一番楽しかった

しかし、そんな業界の風雲児・BiSも2014年には解散の道を選ぶことになる。事実上、グループの発起人であったプー・ルイは、この終幕について「あれはあれでよかったんだ」と冷静に振り返っている。

「そもそもBiSは解散を前提に活動していたと言っていたので、最後の6人体制になる前あたりから『そろそろだろうなあ』と思っていました。だから解散の話を聞いたときも『ついに来たかあ』という感じで特に驚きませんでしたし。

それよりも、目標としていた場所でライブができないということを告げられたことのほうがつらかったですね。研究員(※BiSファンの呼称)との約束を守れないショックが大きかったです。でも、その後は渡辺さんをはじめとしたスタッフの皆さんががんばってくれたおかげで、最初の目標よりも大きい会場を借りてくださって! 当初描いてたイメージとは違う終わり方だったけど、そのおかげでその先の夢も持てるようになりましたし。いろんな人たちのいろんな気持ちの詰まった、幸せな解散だったと思います」(プー・ルイ)

ここでプー・ルイが触れている「目標としてきた場所」とは日本武道館を指す。そして「当初の目標よりも大きい会場」とは横浜アリーナのこと。なぜ武道館公演が頓挫したかという理由については当時からさまざまな憶測が飛んでいたが、いまだに渡辺はこの点に関して「それだけは言えない」と口を閉ざす。なんにせよ、2014年7月8日、6人は「BiSなりの武道館」と銘打った解散ライブを横浜アリーナで決行したのである(参照:さらばBiS!怒涛の解散ライブで49曲熱唱)。

武道館で行われたモーニング娘。・高橋愛の卒業公演にプー・ルイが感動し、「自分たちも人気絶頂のときに解散したい」と決意。結果的にその会場は横浜アリーナに変更されたものの、メンバーもファンも最後に燃焼し尽くした──。しかし、このBiS物語について個人的には腑に落ちないものを以前から感じていた。

まず引っかかるのは「2014年が本当に人気絶頂だったのか?」という点である。第1期BiSの3年半では集客に苦しんだ公演もあったものの、基本的に観客動員数は増え続けていた。だとすれば、本当のクライマックスは2015年以降にやってくると考えるのが当然であろう。少なくとも2014年段階で「もうやり尽くした」と決めつけるのは時期尚早ではなかったのか。

さらにもう1点。渡辺は書籍「アイドルをクリエイトする」(著:宗像明将 / 出版ワークス)の中で「BiSはコストをかけないから、ずっと黒字だった」「最後の年商は2億円くらいあったと思う」といったことを語っている。この時点で一介のサラリーマンに過ぎない渡辺が「BiSを解散させます」と決めたところで、会社の上層部が「はい、そうですか」とすんなり納得する図が想像できない。何せBiSは会社にとってドル箱的な存在になっていたのだ。

「本当のところ、BiSはどうして解散する必要があったんですか?」

改めて渡辺に問い質した。「もう単純に持たなかったんですよね、体力的に。メンバーも僕も……」というのがその答えだった。

「終わりがあったからこそ全力で突っ走れたものというのが、どうしてもあって。もしあの横浜アリーナのあとも続けていたとしたら、それはもうボロ負けの歴史になっていたと思う。結局、BiSというのは完全に内輪向けのパーティを続けていただけなんですよ。でんぱ組と違っていたのは、まさにその点なんです。僕たちだってファンに向けてめちゃくちゃがんばっていたのは同じなんだけど、その方向がどんどんコアに向かっていった。マスに向かっていかなかった。これは本当に今だからこそ、しみじみわかることなんです。つまり当時のBiSのアプローチでは横浜アリーナの7000人が限界値だった。そのことを勉強させてもらったのが、あの解散ライブだったというわけです」(渡辺)

研究員と呼ばれるファンとの内輪向けパーティ。仲間内の悪ふざけは抜群に面白く、仲間たちの人数も右肩上がりで増えていった。だが、やがてその限界に突き当たる日を迎える。それは青春という季節の挫折でもあった。

「クラスの文化祭を横浜アリーナでやった感じなんです。クラスなので、みんなが対等。僕も若かったし、僕より年下のファンもみんな僕のことは呼び捨てでね(笑)。『おい、淳之介!』なんて話しかけてくる仲。それこそ下北沢SHELTERとかでやっていた時代から友達みたいに酒を飲んだり、一緒に遊んだりしていましたからね。ベロベロに酔っぱらったりもしていたし。でも……やっぱり楽しかったんですよ、純粋に。今のメンバーたちには失礼ですけど、今までで何が一番楽しかったかというと、僕はやっぱり第1期のBiSが一番楽しかった」(渡辺)

BiSHがこれだけ売れている今でもそう思うのか? そう尋ねると、もちろんだと渡辺は即答した。

「ファンの人たちと、いろんなことが共有できていた気がするんです。少なくとも横浜アリーナに来ていた7000人のうち、1000人とは気持ちが通じ合っていた気がする。僕はその感じが気持ちいいタイプの人間なんですよ。ある意味、最後に横浜アリーナに集まった7000人全員がBiSだったのかもしれません。研究員もBiSの一員ということで。

僕は高校を中退したから文化祭とかを斜に構えるような男だったんですけど、そうやって歩んできたことの後悔も同時にすごく持っていて。その恨みというか自己投影的な願望を横浜アリーナにぶつけたところもありました。『みんなで一緒になって文化祭をブチ上げてやろうぜ!』といった感覚。研究員の中にはBiSにハマったことで離婚して家庭が壊れた人もいるし、職場で居場所がなくなり借金まみれになった人もいる。内輪向けの悪ふざけがきっかけで、人生が転がり続けたということなのでしょう。それだけのパワーがBiSにはあったんです」(渡辺)

しかし、もうパーティの時間は終わりが迫っていた。次のステップに進むため、ここに留まることができない。そう考えた渡辺はBiS解散を決意すると同時に、会社にも辞表を提出する。そうすることで自らに対する落とし前をつけようとしていたのだ。

<後編に続く>

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