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世界中の人間に共通する課題 “なさそうでなかった”戦争映画『ジョジョ・ラビット』が描いたもの

リアルサウンド

20/1/25(土) 10:00

 ナチスドイツを題材にした、“なさそうでなかった”戦争映画『ジョジョ・ラビット』は、観客に新鮮なインパクトを与える作品だ。本作は、ナチスの青少年組織“ヒトラー・ユーゲント”に所属し、アドルフ・ヒトラーを崇拝する10歳の子どもの目を通して、一種のおとぎ話のような世界を描いている。

参考:スカーレット・ヨハンソンらがタイカ・ワイティティの手腕を絶賛 『ジョジョ・ラビット』特別映像

 1945年のナチスドイツ崩壊から、すでに75年。当時を知る世代が少なくなるなか、この題材を扱う人々も、鑑賞する人々も、その多くが実際の体験から切り離されたかたちで、歴史的な悲劇に向き合っている状況といえる。

 では我々は今後、ナチスドイツの行ったような、人類が犯した過去の許されざる行為を、博物館の展示ガラスを通すように、あくまで距離をとった“歴史”の一部としてとらえることしかできなくなっていくのだろうか。本作『ジョジョ・ラビット』は、そんな不安に対し、ひとつの答えを提示する作品となっていた。ここでは、その内容を振り返りながら、本作が描いたものを明らかにしていきたい。

 まず目を見張るのは、映像や演出に漂うポップな雰囲気だ。画面の色合いについては、過去の出来事だと思わせるように、少しシックな色調に抑えてあるものの、それでいてカラフルな色が躍り、心を浮き立たせるイメージを与え、一見して“現在の作品”と思わせている。さらには、ほとんどギャグといえるようなユーモアの含まれた場面がいくつも用意され、時代に合わないビートルズやデヴィッド・ボウイらの楽曲が使用されているのが興味深いところだ。トリッキーな手法ではあるが、それによって現在の観客は、当時を“いま”としてとらえることになる。

 このあたり、ウェス・アンダーソン監督の『ムーンライズ・キングダム』(2013年)を想起させられる、一種の“ゴキゲンさ”も存在しているといえる。ナチスドイツを題材とした映画といえば、たいていは彩度が低く、硬く冷たい印象を与える作品が多い。それは、ドイツ国内外のユダヤ人を捕らえ、収容所で大量の集団殺戮(ジェノサイド)を行ったという、世界の歴史でも類を見ない、狂気の国家的犯罪が存在したことを思えば、当然だともいえるだろう。

 本作の監督、タイカ・ワイティティは、ブレイク作となった『マイティ・ソー バトルロイヤル』(2017年)において、ある民族が故郷を失った悲劇的なシーンで、わざわざギャグを放ったという過去がある。コミック原作映画だから良かったようなものの、そのシーンを思い出すと、実際の歴史を題材にした本作を観るにあたって一抹の不安を覚えるのは仕方がないことかもしれない。

 そのあたりの不安を払拭する材料は、この作品の主人公ジョジョが、総統に心酔するヒトラー・ユーゲントに所属する少年であり、彼の目線で世界が描かれていくという部分である。少年は、ナチスの理念や方針を盲目的に受け取っており、ナチスドイツを、それこそ“アベンジャーズ”のような正義の存在だと信じきっているのである。そんな組織の一員として正義のために協力できるというのは、さぞ楽しいことだろう。カラフルで楽しい雰囲気なのは、ジョジョのそんな内面を反映しているのだ。

 そして、同時代にドイツと同盟を結んでいた日本の多くの市民が、自分の民族は優秀な血統を持ち、イギリス人やアメリカ人を「鬼畜米英」と呼ぶことを教育され、中国人や朝鮮人を蔑視していたのと同じように、ジョジョもまた、ユダヤ人をはじめとして、敵勢力についた国の人々を、栄えある「アーリア人」である自分と比べ、劣悪で邪悪な存在だと思い込まされているのである。

 このようなファシズムの熱狂による思い込みが、本作では非常に分かりやすく戯画化されたかたちで表現される。それが、ワイティティ監督自身が演じる、ジョジョの“想像上の友達”、愉快なヒトラーおじさんである。

 実際の演説などから総合された、ジョジョ少年の想像したヒトラーは、明るい態度でいつでもフレンドリーに接してくれる一番の親友だ。彼は、ヒトラーの思想や主張を繰り返し投げかけ、それがジョジョの行動の規範となっている。自分自身の考えではなく、他人の示した理想に対して盲目的に従って生きていく……これは、一種の洗脳状態にあるといえるだろう。スカーレット・ヨハンソンが演じる、進歩的な思想を持つジョジョの母親は、あのかわいい息子が、なぜ差別的で身勝手なナチの思想にあれほどかぶれているのかを、残念に思いながら日々を送っている。

 そんな主人公が、果たして主人公足り得るのかという部分を、本作はしっかりと処理している。ジョジョはヒトラー・ユーゲントの教官に「ウサギを殺せ」と強要されるが、どうしても殺せず、命令に背いて逃がそうとするのである。

 ナチスドイツの兵士たちは、無抵抗のユダヤ人たちを大勢虐殺した。少し前までは隣人だった人々を、少し前まで普通の市民だった人々が殺したのだ。しかし、ジョジョはウサギを殺さなかった。表面的な考え方はともかくとしても、根っこの部分で、そのような残虐なことができる人間ではないことを、観客に証明してみせたのである。

 そんなジョジョは、ナチスの手を逃れて隠し部屋の中に住んでいる、アンネ・フランクのイメージをまとったユダヤ人少女エルサと出会うことで、認識を改め始める。彼女はユダヤ人なのに、亡くなった姉にそっくりだったのだ。

 ユダヤ人はヨーロッパ、ことにドイツにおいて歴史的に偏見や差別にさらされてきたこともある存在だが、その民族的な定義は主にユダヤ教を信じているかどうかによる。文化による違いはあっても、そこに人種としての決定的な違いや優劣を見出すのは困難なのである。にも関わらずヒトラーは、国を衰退させるユダヤ人は民族ごと殺害するしかないという、過激なカルト思想に陥り、歴史的な凶行へと国家を導いていった。

 本作では、ソ連軍がベルリンに侵攻している最中、もはやユダヤ人はどうでもよく、ロシア人こそが悪魔的だとされる思想が現れ、そのように都合よくコロコロと変わる民族差別が、いかに非科学的で、庶民を目的に誘導する政治的なものなのかという事実が示唆されている。

 そして、サム・ロックウェル演じる将兵の運命が暗示していたように、ナチスドイツそのものが暴力にさらされる描写をすることで、作品内で価値観の転換が行われていたことが興味深い。映画では描かれないが、ベルリン陥落においては、ソ連軍の将兵による性的暴行によって、多くのドイツ人女性が被害に遭い、死亡したことも歴史的な事実だ。戦争における犯罪に手を染めてきたのは、ナチスドイツだけではないのだ。

 現在、イスラエル・パレスチナ紛争によって、軍事力によって上回るユダヤ人が、アラブ人を攻撃したり、排斥、差別を行うという問題が起きている。歴史的に差別を経験してきたユダヤ人もまた、差別側にまわることもある。

 では、人類の歴史において最も悪いのは何なのだろうか。それは、他者への差別や暴力であり、事実を確かめずにそのような思想を受け入れてしまう、一人ひとりの心の弱さなのではないだろうか。ジョジョは最終的にワイティティ演じるヒトラーおじさんを排除することに成功する。それは、押し付けられた思想に乗っかるのではなく、事実を基に“自分の頭で考える”ことの重要性を描いた部分である。

 エルサは両親を殺害したナチスを生涯許すことはないだろうし、ナチスに荷担してきたジョジョの過去を許す義務もないだろう。しかし、ユダヤ人の本質が宗教や思想などの文化的なものであるのと同様、ナチスもまたひとつの思想や主義に過ぎないのも確かである。偏見や差別思想を持っている人であっても、それを取り除くことができれば、生まれ変わることは可能なはずだ。そうすれば、かつての敵同士も、いつかはともにダンスできる日が来るかもしれないのだ。

 自分ひとりの力で戦争を回避することは難しい。だが、ナチスの思想を否定し戦った、勇敢なジョジョの母親のように、一人ひとりが、そのとき“やれること”をすれば、悲劇を止めることはできるかもしれないし、事前に戦争を阻止することもできるはずだ。それは社会のなかに生きている、世界中の人間に共通する課題であるといえる。

 本作は、ナチスを題材にした映画を、まさに“いま、このとき”に生きている我々自身の問題として描いた。そしてそれを描くためには、必ずしも当時のドイツを経験として知っている必要はない。同じ問題を背負った、いまの人間の姿をそこに映し出せばいいのである。(小野寺系)

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