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『THE GUILTY/ギルティ』から考える「デスクトップ・ノワール」 変容する視覚と聴覚の関係とは

リアルサウンド

19/3/19(火) 12:00

・「デスクトップ・ノワール」の台頭

 ここ数年、物語の全編がパソコンのデスクトップ上で展開されるという趣向の映画作品が相次いで作られ、注目を集めている。昨年はアニーシュ・チャガンティの『search/サーチ』(Searching, 2018)が話題を呼んだし、現在、劇場公開中のスティーヴン・サスコ監督の『アンフレンデッド:ダークウェブ』(Unfriended:Dark Web, 2018)、およびシリーズ前作のレヴァン・カブリアーゼ監督の『アンフレンデッド』(Unfriended, 2016)などはその代表的な作品だろう。おそらくナチョ・ビガロンドの『ブラック・ハッカー』(Open Windows, 2014)あたりから盛りあがってきたこの種の映画は、日本でもフェイクドキュメンタリーで有名な白石晃士が手掛けた全編スマートフォンのタッチスクリーン上で展開されるという演出のテレビドラマ『ミュージアム-序章-』(WOWOWにて放送, 2016)をはじめ、すでにいくつか作られている。

参考:デスクトップ・ノワールを考える

 筆者の友人でもある映画監督の佐々木友輔と映画ライターのnoirseは、2017年に刊行した共著『人間から遠く離れて――ザック・スナイダーと21世紀映画の旅』(トポフィル刊)で、これらの映画を「デスクトップ・ノワール」と呼び、論じている(そもそも佐々木自身も、『落ちた影/Drop Shadow』[2015]という実験的なデスクトップ映画を制作している)。こうしたデスクトップ・ノワールの台頭については、本格的に考察を加えようとすれば、佐々木とnoirseのように、それなりの分量が必要になるだろう。

 したがって、この短いコラムでは、こうした新しいレイアウトを備えた映画の登場の意味とその作品表現への具体的な表れを、これも現在、話題を呼んでいるグスタフ・モーラー監督のデンマーク映画『THE GUILTY/ギルティ』(Den skyldige, 2018)を事例に考えてみたい。あらかじめ断っておけば、もちろん『THE GUILTY/ギルティ』は厳密には佐々木たちのいうようなデスクトップ・ノワールの体裁の映画ではない(デスクトップ・ノワール作品自体についても、いずれ論じるつもりはある)。しかし、筆者の見るところ、このふたつはいま、映画が置かれている同じパラダイムのうえにあり、似たような文脈で読み解ける作品であると思われるのだ。

・パソコン、スマホ的画面の浸透
 
 まず、大きな見積もりを示しておけば、いわゆるデスクトップ・ノワールと呼ばれるような映画の2010年代における台頭には、わたしたちの生きる現代の映像メディア環境全般の変化が深くかかわっているといえるはずだ。

 2010年代末の現在、わたしたちの日常生活にはじつにさまざまなかたちの「スクリーン」が溢れかえるように遍在している。いまから半世紀前、あるいは1世紀前、そうしたスクリーンとは、映画館に象徴される映像が投影される遮蔽幕であることがほとんどだった。もちろん、20世紀なかばから映画産業を強烈に脅かすように社会に浸透したテレビは、映画とはまた異なったしくみを持つ放送メディアだったが、最近も映像メディア史研究者の北浦寛之(名古屋大学出版会刊『テレビ成長期の日本映画―メディア間交渉のなかのドラマ―』参照)や藤木秀朗(名古屋大学出版会刊『映画観客とは何者かーメディアと社会主体の近現代史ー』参照)が明らかにしているように、それでも映画とテレビは20世紀後半をつうじて、そこで作られるコンテンツを中心に相互に強く影響を与えあいながら発展していったという経緯がある。

 ところが、ちょうど20世紀が終わりを告げるころから、この世界には、そうした映画的なスクリーンとはまったく異質な「画面」が現れ、いまやその趨勢は前者をはるかに凌駕するまでに広がっている。いうまでもなく、コンピュータのデスクトップ、そして21世紀のいまでは、スマートフォンやタブレット型パソコンのタッチスクリーン(タッチパネル)といったデジタルデバイスのインターフェイスである。ごく当たり前のことだが、わたしたちにとってはもはや、映画館や自室のテレビのスクリーンよりも、スマホやタブレット、ノートパソコンのスクリーンを眺めている時間のほうがはるかに長い。そして、そうした新しいスクリーン=インターフェイスでは、かつて20世紀に完成した映画的なスクリーンとはかなり異なった、独自の表象システムが形作られている。そうした今日のインターフェイスやタッチパネルの示す新たな表象や知覚のしくみについては、筆者自身もここ数年、映像メディア文化論の視点からなんども論じてきている(たとえば、拙稿「 『顔』と相互包摂化する映像環境」を参照されたい)。ともあれ、こうした現状を踏まえると、画面そのものをデスクトップに模したデスクトップ・ノワール的な作品が登場してくるのはなかば必然的な流れだともいえるだろう。

・『THE GUILTY/ギルティ』における聴覚的要素の優位
 
 さて、さしあたり以上のように文脈を立てると、直接的にはデスクトップ・ノワールには区分し難い『THE GUILTY/ギルティ』の個性的なコンセプトや画面も、同様のアクチュアリティをもってわたしたちの前に迫ってくる。『THE GUILTY/ギルティ』は、緊急ダイアルの一室だけを舞台に、ほぼ主人公のヘッドフォーンから聴こえるサウンド(音と声)だけで、ある誘拐事件の顛末が描かれるという、きわめてシンプルな構成のリアルタイムサスペンススリラーである。主人公であるアスガー・ホルム(ヤコブ・セーダーグレン)は、自らもある罪=事件がきっかけで警察官の第一線から緊急通報司令室オペレーターに左遷されてきていた。自転車泥棒から交通事故による緊急手配にいたるまで、日々、些細なトラブルに対応するだけの毎日のなか、あるとき、一本の不穏な声の電話を受ける。それは、いままさに高速道路上を疾走する男の車に乗せられ、誘拐されている女性からのものだった。アスガーはヘッドフォーンを通じて鼓膜に響く電話からの音だけを頼りに、「見えない誘拐事件」の解決に踏みだす――。

 いうまでもなく、本作の妙味は、あたかも演劇の一人芝居のように、ワンシチュエーション/リアルタイムという設定上の拘束とともに、作中で描かれる肝心の事件そのものがいっさい視覚的に描かれず、すべて聴覚=音声だけで示されるという奇抜な趣向にある。この点では、演劇的構成との近さという面でも、本作を『カメラを止めるな!』(2018)や『ハッピーアワー』(2015)など、近年の日本のインディペンデント映画作品との関係から比較して論じることも可能だろう。

 まず、「リアルサウンドテック部」に寄稿したバーチャルカメラについてのコラムでも記したことだが、もとより、こうした見えない/見せないという視覚的要素の地位低下と、その反対に、聴こえる/触れるという聴覚・触覚的要素の地位向上というのは、昨今の映画の物語空間のいたるところに広がっている目立った特徴であり、その点では『THE GUILTY/ギルティ』もそれを忠実に踏襲した映画だ。緊急ダイアル室であれ一軒の家屋であれ、あるいは外界から遮断した布のなかであれ、ある「密室」に固定され、しかも、そこでは登場人物たちにとって「音」だけが唯一の頼りになるという状況設定において、本作のアスガーは、たとえば『バード・ボックス』(Bird Box, 2018)のマロリー(サンドラ・ブロック)とぴったり重なっている。

・視覚と聴覚の関係の逆転現象
 思えば、上記のコラムでもその文章を参照した映画批評家の蓮實重彦は、いまから10年あまり前、「あらゆる映画はサイレント映画の一形態である」という奇抜な主張を行ったことがある。

***

一般に「映画」という語彙で知られている視聴覚的な表象形式が、娯楽としてであれ芸術としてであれ、その消費形態のいかんにかかわらず、一〇〇年を超えるその歴史を通して、音声を本質的な要素として持つことはなかったというものであります。[…]
映画の撮影は、こんにちにいたるも、音声がこうむるこうした複数の拘束からいささかも自由になってはおりません。キャメラは、サイレント期とまるで変わることなく撮影クルーの中心に君臨しているからです。[…]あらゆる映画が本質的にはサイレント映画の一形式だという仮説は、そうした現実をふまえたものにほかなりません。

(蓮實重彦「フィクションと『表象不可能なもの』――あらゆる映画は、無声映画の一形態でしかない」、石田英敬、吉見俊哉、マイク・フェザーストーン編『デジタル・スタディーズ第1巻 メディア哲学』所収)

***

 ここで蓮實は、撮影所システム時代の技術的・物理的な制約から「ホロコーストの表象不可能性」をめぐる一連の論争、そして「9・11」のニュース映像まで多彩な事例を示しながら、「映画」という20世紀が生んだ特権的な複製メディアが、いかにその本質に「声」という現前性への禁止を抱えこみ、「視覚の優位性」を維持し続けてきたかを述べている。

 しかし、誰の目にも明らかだが、繰りかえすように、2010年代末の現代映画のハードコアが示す「音声を本質的な要素として持つ」作品の大規模な台頭は、この蓮實の主張(映画における本来的な視覚的要素の優位と聴覚的要素の劣位)とは真逆の事態だろう。それもそのはずで、たしかに映画に限っては蓮實のいうとおりだろうが、現代のわたしたちを取り巻くスクリーンの多くは、蓮實の念頭に置く「映画」とは決定的に遠く隔たっており、ひるがえっていまや映画の画面もまた、こうした新しいスクリーンの秩序や慣習を精緻に「擬態」しつつあるからだ。

 では、その例を『THE GUILTY/ギルティ』で見てみよう。作中、後半でアスガーは一度だけ、あてがわれたデスクから離れ、奥の休憩室に移動するのだが、それ以外は全編を通じて、映画は完全に、仕事デスクに座ってデスクトップを見ながら電話で相手と対応するアスガーの姿のみをただ、えんえんと写すだけである。

 それでも画面がまったく退屈にならないのは、ひとまず厚い肌にくっきりと皺の刻まれた、主演のセーダーグレンの岩石のような顔や手の表情を微細に捉えたクロースアップをはじめ、緩急自在に多角的な視点から小気味よくカットを割って見せていくジャスパー・スパニングのカメラワークがじつにみごとだからだ。

 とはいえ、それは、デスクに座る人物に視点がほぼ固定され、被写体となった人物が画面外の不可視の他者に対してえんえんと話し続けるという、この『THE GUILTY/ギルティ』の独特の画面は、他方で、さきほども述べた今日の映像メディア環境に浸ったわたしたちにとって、また別の連想が働くような、よく見慣れた光景でもあるからではないか? そう、『THE GUILTY/ギルティ』の画面は、昨今のYouTuber(あるいは、かつてのニコ生の生主?)のそれとよく似ているのである。

 知られるとおり、彼らもまた、ウェブカムのついたデスクトップ画面に向かってたいがい上半身のみを写しつつ、えんえんと喋っているからだ。やはりさきほどの「リアルサウンドテック部」コラムで、現代の映画の画面がある種の「YouTuber化」=人物の顔のクロースアップの増加を蒙っていると記したが、奇しくも『THE GUILTY/ギルティ』もまた、まぎれもなく「顔の映画」かつ「デスクトップふうのサスペンス」であり、なおかつその意味で本作の画面もまた、多くのデスクトップ・ノワールと同じく、映画的なスクリーンというよりは、パソコンやスマホのインターフェイスこそを容易に連想しうるようなレイアウトを備えているのだ(余談ながら、この点でも、今日の日本のインディペンデント出身の若手の映画は、三宅唱の『THE COCKPIT』[2014]にせよ、山下敦弘と松江哲明の『映画 山田孝之3D』[2017]にせよ、同様の画面を示すものが多い)。

 さらに、『THE GUILTY/ギルティ』では、オープンイヤーステレオヘッドセットを装着した鑑賞イベントも行われたという。つまり、通常の音声は劇場のスピーカーから流れるが、劇中の電話の音声のみが観客のつけたヘッドセットから聞こえてくるという仕掛けで、まさに観客は作中のアスガーになったような疑似体験を味わいながら映画を鑑賞できるのである。

 とはいえ、これも容易に想像できるように、こうした映画世界の疑似体験をより本格的に味わいたいのならば、のちに本作のソフトがリリースされた際、まさにアスガーが眺めているようなデスクトップのインターフェイスで映画を再生しつつ、イヤーフォーンやヘッドフォーン――もしくは先述のイベントのような特典機能がディスクについていれば、オープンイヤーステレオヘッドセット――をして鑑賞すればよいだろう。こうしたある種の「メタ物語的」な鑑賞行為(映画の作中人物と鑑賞者が相似形を描く枠組みにおさまることで、作中への円滑な没入を促す一方、逆説的にも、同時にその虚構性も浮き彫りになる二重化された鑑賞行為)において、『THE GUILTY/ギルティ』の画面は、限りなく「デスクトップ的なもの」に接近していくことになる。音=聴覚的要素の前景化という本作の趣向は、通常の映画的スクリーンと観客との距離感覚を失効させるこうした鑑賞体験において、最大の効果を発揮するはずだ。

 そして、この点においてこそ、『THE GUILTY/ギルティ』はデスクトップ・ノワールの構造とも重なることになるのだ。というのも、いうまでもなく、『search/サーチ』にせよ『アンフレンデッド』にせよ、デスクトップ・ノワール作品にとっての最適化された鑑賞条件は、映画館の巨大なスクリーンではなく、むしろほかならぬ「自宅の(できれば)Macの画面で鑑賞するとき」だろうからだ。ここでもまた、デスクトップ・ノワールは、かつてのフェイクドキュメンタリーをメタ物語的(ゲーム的?)にアップデートしたような自らの特性を最大に発揮することになる。

 この意味で、『THE GUILTY/ギルティ』やデスクトップ・ノワールの作品群は、「スクリーン」に対するわたしたちのリアリティの変容を擬態的に表すコンテンツであるとともに、メディア研究者の光岡寿郎が述べるように、「映像文化が、それを支える複数の変数の関係性として理解され」(「序章」、東京大学出版会刊『スクリーン・スタディーズ』所収)ざるをえないという、今日の新しいスクリーンのとり結ぶ間メディア的でメタ物語的な属性を浮かびあがらせるものにもなっているのだ。 (文=渡邉大輔)

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