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『AKIRA』はなぜ映画と漫画で異なるエンディングに? 大友克洋が未来に込めた想いとは

リアルサウンド

21/2/6(土) 10:00

 「アキラはまだ俺たちの中に生きているぞ!」

 大友克洋の漫画『AKIRA』最終巻「PART6金田」の終盤で、同作の主人公・金田はそう叫ぶ。

 『AKIRA』は三度、終わりを迎えている。1988年に公開された大友克洋自身が監督を務めた劇場アニメ版『AKIRA』で、1990年に「週刊ヤングマガジン」誌上に掲載された最終回で、それからおよそ3年後の1993年に発売された同巻で。そしてその「PART6金田」の結末では、30ページ以上にわたって「連載時の結末」以降のエピソードが描き加えられている。冒頭で挙げたのも、その中での台詞だ。

 「週刊ヤングマガジン」誌上での最終回は、金田とケイがアキラの覚醒によって破壊されたネオ東京に昇る朝日を見つめるシーンで終わっていた。その時の読後感は劇場アニメ版を観終えた時とあまり変わらなかった。だが「PART6金田」で追加された部分によって、読後感が大きく変わった。

 このエピソードの追加について大友克洋は、1993年のラジオ番組で、劇場版制作のため連載を中断して気勢が削がれてしまったこともあり、早めに連載を終わらせて英気を養ったうえで改めて描き加えたと発言している。そこまでして描きたかった『AKIRA』のエピローグには、一体どんな意味が込められているのだろうか。

※本稿は漫画『AKIRA』、劇場アニメ『AKIRA』のネタバレを含みます。

 まずは漫画『AKIRA』と劇場アニメ版との違いについて、簡単に触れておこう。

 1982年(劇場アニメでは1988年)、関東地方で「新型爆弾」が炸裂したのを契機に、第三次世界大戦が勃発。それから38年が経過した2019年、翌年のオリンピック開催を控えた新首都ネオ東京では再開発が進んでいた。

 そんななか、職業訓練校の生徒・金田を中心とするバイクチームは、旧市街の高速道路を暴走中に不思議な能力を持つ少年・タカシと遭遇。その能力によって負傷した金田の仲間・島鉄雄が、軍によって連れ去られてしまう。鉄雄の行方を探すうち、反政府ゲリラのケイたちと出会った金田は、政府が隠蔽する、能力を持つ子どもたちの研究と、先の大戦の引き金となった謎の存在「アキラ」をめぐる争いに巻き込まれていく。一方、軍の研究施設で能力に覚醒し始めた鉄雄は、金田に対抗心を抱き、次第に対立を深めていく……。

 以上が極めて大雑把ではあるが漫画、劇場版に共通している序盤の展開だ。劇場版はここから単行本3巻「PART3 アキラⅡ」までの人物関係や物語を簡略にして再構成した上で、以下のようなラストを迎える。

 金田たちに先んじてオリンピック会場予定地であるスタジアム近くに封印されていたアキラの元にたどり着いた鉄雄だったが、金田たちの襲撃に合い、能力が暴走して自滅寸前に追い込まれる。その時、タカシたちが協力してアキラを覚醒させて、アキラの力で生じた新しい宇宙へ鉄雄やアキラたちと共に去って行ってしまう。残された金田は、崩壊したスタジアムを後にして、ケイたちと共にバイクで高層ビルが立ち並ぶネオ東京へと帰っていく。

 一方、漫画では軍と金田やケイたちによるアキラの争奪戦が繰り広げられた「PART3 アキラⅡ」の終盤で覚醒したアキラによってネオ東京が再び崩壊。4巻「PART4 ケイ」以降最終巻6巻「PART6金田」まで、被災して無政府状態となったネオ東京で、アキラを大覚に祭り上げて大東京帝国を結成した鉄雄と金田とケイたち、そしてネオ東京に潜入したアメリカ海兵隊たちを交えた乱戦が展開される。

 終盤の、力が暴走した鉄雄を食い止めるためタカシたちとアキラが力を発揮して、新しい宇宙へと連れていくという大筋は劇場アニメを踏襲。そして先述の通り、連載時はアキラたちが去った後、金田とケイがネオ東京に昇る朝日を見つめる後姿で終わっていた。

 ラストの印象が大きく変わる単行本で加筆されたエピローグ部分のあらすじは、以下の通りだ。

 アキラの三度目の覚醒後、ネオ東京の治安の回復と難民救済のために国連から派遣された監査団の前に、武装した金田やケイたちが現れる。彼らは「大東京帝国AKIRA」の幕を掲げて「俺たちの国から出ていけ」と監査団に警告を放ち、冒頭の「アキラはまだ俺たちの中に生きているぞ!」と言い残して、バイクで去っていく。やがて疾走する金田とケイのバイクの横に鉄雄たち、いなくなったはずの仲間の姿が、そして崩壊したビルの向こうに新たなネオ東京の姿が浮かびあがり『AKIRA』は幕を閉じる。

 正直、このエピローグを読んだ時は困惑した。なぜ金田は、大東京帝国を再興しようとしているのだろうか? アキラはまだ生きている、とはどういう意味なのだろうか? と。しかし『AKIRA』の世界観は、大友克洋が再構成した、戦後から高度成長期の昭和が基になっていると考えればなんとなく見えてくるものがある。

 「この東京を別のかたちで語り直してみたいという欲望があったんだろうな。(中略)戦後の復興期から東京オリンピックの頃のような混沌とした世界を構築したかったんだよ」(『美術手帖』1998年12月号)

 先述したように劇場アニメ版『AKIRA』公開は1988年。そしてその翌年1989年に昭和は終わり、年号が平成へと変わる。それとほぼ同時に劇場版制作のため1987年の春から中断していた連載を再開。英気を養わなければいけないほど疲労しながら、連載を終えたのは更にその翌年の1990年だ。

 結果として劇場アニメ版は、その世界観の基となった昭和の終盤に完成し、漫画は昭和を失った直後に再開して完結を迎えた。それを踏まえて改めて金田たちの行動を中心に劇場アニメ版と漫画のラストを比較してみよう。

 騒乱と破壊を経て、アキラと鉄雄たちが新しい宇宙へと去った後、金田たちは、劇場アニメ版では被害を免れたネオ東京の新市街へと帰り、連載時の漫画の最終回では昇る朝日を見つめた。

 一方、単行本で加筆されたエピソードの金田は、外部の大人たちの介入を跳ね除け、アキラと鉄雄が遺した大東京帝国を仲間と共に新たに作りあげていくことを選ぶ。前者が日常への復帰を示唆するエンディングだとすれば、後者は未知なる世界への挑戦を予感させる。

 冒頭に挙げた金田の「アキラはまだ俺たちの中に生きているぞ!」という言葉には、昭和という自らの土台になった時代を失っても、過ぎ去っていった者たちが遺した礎の上に、自分たちは新しい世界を作り上げていくという、大友克洋の決意が込められていたのではないだろうか。「PART6金田」巻末の謝辞に、掲載誌である「週刊ヤングマガジン」の編集部と講談社の面々、スタッフ、読者に並んで、昭和の日本漫画界の代表的な存在であり1989年に亡くなった手塚治虫の名が挙がっているのを見ると、そう思えてならない。

 余談になるが2018年、NHKスペシャル「東京リボーン」の佐藤広記ディレクターが記した記事のなかで、同番組のタイトル映像を手掛けた大友克洋は、こう語った。

「(前略)これから東京は昭和の残滓を全部切り捨てて、新しいものを創り上げるべきなんだよ。新しい東京を、新しい人たちが創っていくべきだと思うね。それは昔のじいさんたちがやることじゃないんだよ。東京はいつもそんな風でなきゃいけないんだよ(後略)」

<東京リボーン>NHKが撮った「2020・ネオ東京」驚きの光景 より

 平成も終わり令和になった今、“アキラ”は若者に託されている。

■倉田雅弘
フリーのライター兼編集者。web・紙媒体を問わず漫画・アニメ・映画関係の作品紹介や取材記事執筆と編集を中心に、活動している。Twitter(@KURATAMasahiro

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