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Yasei Collective 松下マサナオ、2020年代に託すミュージシャンのあり方「外に出て何でもチャレンジしたらいい」

リアルサウンド

20/1/18(土) 8:00

 バンド活動の一方で、メンバー個々でも活躍し、プレイヤーとして「ジャズ」を背景に持ちつつも、ジャンルレスなアウトプットを続け、2010年代を通じて国内外のミュージシャンと関わりながら第一線を歩んできたアーティスト……2010年代から2020年代へという時代の転換点で、この10年を「サポート」というキーワードで振り返るにあたって、Yasei Collectiveほどうってつけの存在は他にいない。

(関連:【インタビュー写真】Yasei Collective 松下マサナオ

  留学先のロサンゼルスから帰国後、松下マサナオを中心に「一人でも歩いていける者の集団」として、中西道彦と斎藤拓郎とともに2009年にスタートしたYasei Collectiveは、多数のライブアルバムやオリジナルアルバムを発表しつつ、NakamuraEmi、二階堂和美、藤原さくら、いきものがかり、あいみょん、KID FRESINOから東京03に至るまで、ときにバンドとして、ときにメンバー個々で、実に幅広いアーティストの作品やライブに関わってきた。他ではありえない多彩にして豪華なゲストが顔を揃えた10周年イヤーのキックオフパーティーは、彼らの特異性を改めて示すものであり、そのあり方は2020年代の指針にもなるはず。様々なアーティストとの関係性を紐解きつつ、松下マサナオに10年の歩みを語ってもらった。(金子厚武)

●「Kneebodyはヤセイの大きなモデルプランでした」
――Yasei Collective(以下、ヤセイ)は2009年の結成で、「一人でも歩いていける者の集団」という意味でバンド名が付けられたそうですが、今振り返ると、非常に2010年代的なミュージシャンのあり方を示すネーミングだったと思うんですよね。

松下:今はむしろ「一人でも歩いていける」っていう考え方を持ってないと、音楽を続けるのは厳しいんじゃないかと思います。もちろん、そのやり方にはいろんなスタイルがあってよくて、「俺たちはこのバンドしかやりたくないから、それをやるためだったら、他の仕事をするのも厭わない」という考えの人も多いと思うんです。ただ、自分が今まで培ってきたもので飯食ってけたら一番いいと思ったときに、俺にとって一番身近で、ずっと続けたいと思ったのがドラムだったっていうだけで。

――だからこそ、自分のバンドとは別に、仕事としてもドラムを叩いてきたと。

松下:でも「嫌だ」ってことに対する拒否反応は、うちのメンバーもそうだし、俺の周りにいるミュージシャンもみんな強いと思います。何でもかんでもやるわけじゃなくて、ちゃんと自分のブランディングも考えて、純粋にやりたいと思ったことか、やった方がいいと思ったことだけをやる。世代に関わらず、かっこいいなと思う活動をしてる人たちは、そこをすごく大事にしてますね。

――そういうミュージシャンとしての哲学が養われたのは、やはりロサンゼルスへの留学の経験が大きかった?

松下:ロサンゼルスに行ったことはもちろんすごく大きかったんですけど、「ダサいことをやるのは恥ずかしい」っていう感覚は、その前の大学のサークル時代(和光大学のジャズ研)ですごく植え付けられました。Gentle Forest Jazz Bandのリーダー(ジェントル久保田)、Yasei Collectiveのギターの(斎藤)拓郎、ZA FEEDOの沖メイ、当時SAKEROCKのハマケン(浜野謙太)とかも、みんなそこにいたんです。当時は泥水すすって頑張って生きてるような状況だったにもかかわらず、反骨精神とも違う、変なプライドがあったんですよ。「俺たちは他とは違うんだ」みたいな、勝手な選民思想が当時はあって、それが嫌だったんだけど(笑)、そこにいたことで研ぎ澄まされた部分は確実にあった。「クリエイティブなことをやっていくんだ」っていう基本姿勢は、完全に第二音楽室っていう汚い部室で植えつけられましたね。ただ、当時は卑屈な人間で、シャイだったし、人と全然しゃべれなかったのが、アメリカに行ったことで、オープンになったんです。

――ヤセイの結成に関しては、Kneebodyの影響が大きかったと常々話していますよね。彼らはまさにバンド活動の一方で、著名なアーティストのサポートで名を上げたわけで。

松下:Kneebodyはやめちゃいましたけど、カーヴェー(・ラステガー)なんてリンゴ・スターとやってますからね。まさに、僕はあれがやりたいと思ったんです。バンドでかっこいいことをやって、たとえそれがなかなか認知されなかったとしても、サポートで大きなことをやることで、それがバンドにも返ってくる。そうやってレピュテーションがついてくれば、上手くいくんじゃないかって。なので、Kneebodyはヤセイの大きなモデルプランでした。あのバンドはホント全員すごいんですよ。

――特にどんな部分に惹かれたのでしょうか?

松下:いわゆるジャズバンドではないんだけど、ジャズメンと同じクオリティで、同じボックスで戦えるだけの技術がある。全員が音楽的なタレントで、それが集まったときに、爆発的に良くなる。しかも、ただのセッションじゃなくて、ちゃんとバンドとして昇華されている。80年代から90年代までのジャズのバンドって、とにかく有名なジャズメンが5人くらい集まって、スタンダードをやって、それぞれのソロを聴く、みたいな感じだったけど、そうじゃない形が00年代に確立されていったんですよね。ジョシュア・レッドマンとかもそうだけど、バンドっぽいジャズが増えて、その中でも、白人のやってるバンドっぽい感じが一番出てて、でもちゃんとジャジーでっていうのが、俺にとってのKneebodyだったんです……Kneebodyを語り始めると長いですよ(笑)。

――今のヤセイのメンバーは、藤原さくらさんからいきものがかり、KID FRESINOまで、知名度もジャンルも様々な、非常に幅広いアーティストと関わっているわけで、かつて目標としたKneebody的なあり方を、日本で確立していると言えますよね。

松下:ミチくん(中西道彦)なんかは認められるのが遅かったなって、俺は思ってるんです。もっと早い段階で、バンドマンの中では「あそこのベース超やべえ」って言われてたと思うけど、ミチくんは自分から発信していくタイプじゃなかっただけで。でも、今はいろいろやってて、リズムセクションとして俺とミチくんの2人に声がかかったときに、俺はNG喰らうことも結構あるんですよ。「ちょっと違かった」って思われるのか、2回目は呼ばれなかったり、でもミチくんはそこに残って、そこから繋がって、結果カースケさん(河村智康)と一緒にやってたり。たまには俺にキックバックがあってもいいんじゃないかと思うんですけど(笑)、それくらい素晴らしいミュージシャンなんです。拓郎は拓郎で、俺以上に「自分がやりたいこと以外はやりたくない」っていうタイプなんですよね。カメラとか映像も好きだし、必ずしも「音楽で食う」っていうのが中心にあるわけではないのかもしれない。ただ、あいつが一番ヤセイ。

●「(mabanuaは)俺がやろうと思ってたことをすでにやってるなって」
――2010年代を振り返ったときに、もうひとつ欠かせないバンドがOvallだと思っていて。彼らも00年代後半に活動を本格化させて、その一方では個々がサポートやプロデュースでシーンを下支えしてきた、まさに「一人でも歩いていける者の集団」だったと思う。そんな彼らが2010年代の終わりにひさびさの新作を発表したのも、時代を感じさせたし。

松下:新作(『Ovall』)が今までの中で一番好きですね。俺アメリカから帰国して、mabanuaっていう存在を初めて知ったときは、「すげえ、もうこんな人がいるんだ」って、めちゃ嫉妬したんですよ。年は俺より何歳か下で、今はホント大好きな友達だし、尊敬するドラマーの一人だし、クリエイターとしてもすごいと思うけど、最初はホント悔しかった。当時のトレンドで言うと、マバちゃんの方が僕よりクエストラヴ寄りで、僕はもうちょっとジャジーな方向っていう違いはあったけど、俺がやろうと思ってたことをすでにやってるなって。あと、同じくらい対馬さん(対馬芳昭/origami PRODUCTIONS主宰)と知り合えたのもデカかったんです。セルフでやっていくためのノウハウと、ドラマーとしての売り込み方を両方知りたかったから、対馬さんとマバちゃんと同時にコンタクトを取って、いつしか仲良くなって。

――mabanuaさんとの出会いはセッションですか?

松下:いや、Charaさんとの対談を読んで、動画とかもいろいろ観て、最初にFacebookでメッセージを送ったんですけど、そのとき外人だと思ったんですよ(笑)。だから、英語でメッセージ送ったら、完全に無視されて、もう一回日本語で送ったら、今度は返信をくれて。で、ライブを観に行って、挨拶して、イベントに出てもらったり。当時はそうやってナンパみたいにいろんな人に会って、ライブに呼んでっていうのをやってたんです。Kneebodyも最初はそんな感じで、ネイト・ウッドがウェイン・クランツのトリオでキース・カーロックと3人で来たときに、面識はなかったんですけど、無理やり会いにいきました(笑)。で、音源渡して、ライブに呼んでっていう、ホントそんな感じ。そうなったのは、DOPING PANDAの(稲葉)隼人さんが最初に俺をフックアップしてくれて、いろんなところに連れていってくれたからなんです。

――5周年記念アルバムとして2014年に発表された『so far so good』には、ここまでの話に出てきたジェントル久保田さんやOvallのメンバーが参加しつつ、一方で今名前の挙がった隼人さんをはじめ、FRONTIER BACKYARDの福田”TDC”忠章さんや、ACIDMANの浦山一悟さんなど、パンク寄りの人たちも参加していて、その混ざり具合もヤセイの面白いところだなと。10周年キックオフパーティーの豪華メンツにしても、その延長線上にあると思うし。

松下:サウンドはパンクじゃなくても、ステージングだったり、「やりたいことをやる」っていうアティテュードに関しては、パンクからもかなり影響を受けてます。まあ、いわゆる「パンク」はそんなに聴いてなくて、メロコアとかハードコアですね。もともとは俺イエモン(THE YELLOW MONKEY)が大好きで、今でもいつか吉井和哉さんのバックで叩きたいって思ってるんですけど、その後にビジュアルとメロコアが来て、そこから洋楽に飛ぶんです。で、アメリカから戻ってきたら、AIR JAM世代の先輩たちがポップシーンで活躍してたんですよね。柏倉(隆史)さん(toe)が木村カエラさんのバックで叩いてたり、ハイスタ(Hi-STANDARD)の(恒岡)恒さんがチャットモンチーで叩いてたり、「こういう形もあるんだ」っていうのは影響受けました。野垂れ死ぬかっこよさとは違う、自分の中のパンクスを保ちつつ、いろんなシーンでやっていくっていう。

――近年ではHHxMMとしてユニットでも活動するなど、ストレイテナーのひなっちさん(日向秀和)との共演が目立ちますね。

松下:プライベートでもよく遊んでもらってて、兄貴って感じですね。でも、あの人とは一回もリハスタ入ったことないんですよ。『HINA-MATSURI』っていうイベントのバンドで、ちゃんMARIと、SPECIAL OTHERSのヤギさん(柳下“DAYO”武史)と一緒に曲の練習をしたことはあるんですけど、セッションをする上では一回もない。あの人は俺にリミッターをつけないし、俺も彼にはリミッターをつけないんです。普段だと「こういう感じで戦いましょう」っていうのがあるけど、全部オッケーでやるから、一回一回のセッションがすごく貴重で、お互いの成長にも繋がってるかなって。でも、ホントすごいですよ。どんな音でも、弾いた瞬間にひなっちの音だってわかる。いろんな意味で、ひなっちとミチくんはいないと困るし、ジェントルのデジくん(藤野俊雄)も今そうなってますね。パッとやってすぐ合う関係性で、全然違うジャンルのベーシストが3人いることで、僕の音楽人生がめっちゃカラフルになるんです。でもだからこそ、たまに違う人とやると、「めっちゃいい!」みたいにもなるんですよね。「ケイタイモさん、最高!」とか「鈴木正人さん、さすが!」とか。浮気じゃないけど(笑)、そういう瞬間もすごく楽しいんです。

――まだここまで名前の挙がってない人で、「この人のサポートをしたことが、自分の音楽人生に大きな影響を与えた」という人を挙げてもらうことはできますか?

松下:たくさんいるんですけど……二階堂和美さんかな。僕「歌ものには合わないんじゃないか」って言われてた時期があったんですけど、ドラムにめちゃくちゃうるさいニカさんが、めちゃくちゃ全肯定してくれたんですよ。しかも、「なんかいいんだよね」って言い方をしてくれて、あの人は感覚が鋭い人だから、それが余計に嬉しかった。それがプルーフになってるというか、今でもたまに思い出して、「大丈夫、俺やっていける」って思いますね。

●「日本にはいまだに“ここが最先端”みたいな思想が根深くある」
――ここまで同世代、あるいは上の世代について話してきましたが、近年は石若駿くんがCRCK/LCKSとしても活動しながら、今年(2019年)Answer to Rememberを始めたり、あるいはWONKのようなバンドもいたり、ジャズを背景に持ちつつ、ジャンル的にも形態としても非常に自由な活動をする下の世代が目立つようになりました。彼らのことはどのように見ていますか?

松下:単純に、羨ましいですよ。俺らが始めたときは同期ってほぼいなくて、先輩にも頼れなくて、ドラマーとしてもそれこそmabanuaくらいしか見つけられなかったから、俺たちだけで道を作っていかなくちゃいけないと思っていて。でも今は、WONK、CRCK/LCKS、ものんくるとかは、確かなテクニックがありつつ、それを武器にするんじゃなく、必要だから使うって感じで、自分たちのやり方でポップシーンにアプローチしてるし、メジャーシーンで言うと、King Gnuとかもそうだし。そういうバンドがいっぱいいて、ちゃんと横の繋がりもあるっていうのは、ホント羨ましい。

――SNSがより一般的になったり、時代性も絡む話でしょうね。

松下:やっぱり石若駿の存在はすごく大きいと思ってて、彼が灯台になってみんなの道を照らしてると思うし、彼は俺の道も照らしてくれたんです。俺はあいつのことを年下だと思ったことは一回もなくて、ツインドラムよくやるけど、死ぬ気でやらないと殺されると思うし、あいつの作品は全部聴いてるし、外タレみたいな感覚っていうか。年下で、一人のドラマーとして敵わないなって思うは、駿とビートさとし(skillkills)かな。他にも素晴らしいドラマーがいるし、今はさらにその下の世代も出てきてて、彼らともつながっていきたいと思うんですけど。

――変に持ち上げるわけじゃないけど、ヤセイであり、松下さんがやってきたことは、きっと石若くんにとっての灯台にもなってたと思うんですよね。

松下:だといいんですけど、みんな必死こいてやって来ただけだとは思うんです。それを後から見てみると、「こことここが繋がってて、あのときのあのライブがあいつらを繋げたんだ」みたいな、それは面白いですよね。まあ、歴史とも言えないくらい短い歴史だとは思うけど、でもこの10年は大きな10年だったと思うし、これから先を考えたときに、ここで間違った方向に行っちゃうと、ホントにアジアの中で取り残されると思う。日本にはいまだに「ここが最先端」みたいな思想が根深くあるけど、実際にアジアでツアーすると、向こうの方がリズムに対して圧倒的に強いんですよ。シンガポールとか韓国はそうだし、中国もフリージャズが盛り上がってるらしいし、このままだとどんどん差が付いちゃう。

――その意味では、ヤセイが海外のミュージシャンと共演してきたのは大きなことで、Kneebodyもそうだし、特に2017年にマーク・ジュリアナと共演したのは、外への意識、や距離感の変化を促した、非常にエポックな一日だったと思います。

松下:あれは自分たち的にもデカかったですね。みんなもっとフランクに世界のミュージシャンと関わっていけばいいと思うんです。ビザのこととかあるけど、そういうのは大人たちに任せて、まずはやってみればいい。俺らにできたんだから、もっとバジェットが大きくなれば、もっと面白いことができるはずだし、昔に比べれば、絶対イージーになってるはずなんです。あとはチョイスさえ間違えなければ、絶対もっと面白くなると思います。

――下の世代に対する意識は、昔以上に強くなっていると言えますか?

松下:今36歳なんですけど、僕がこれからやっていくべきこととして、自分が何を残せるのかっていうのはすごく意識するようになりました。これまで底上げをやってきたつもりだけど、ここからは今の俺たちのレベルを最低限にしていかなくちゃで、そのためにはもっと教育レベルを上げないといけない。国内で専門学校に行くんだったら、俺のところに先に来てほしいなって思います。力になれると思う。MONO NO AWAREのヤナ(柳澤豊)とか、木(KI)のナイーブ、ドラムテック始めた長島健は俺のところにローディーとして来てくれて、どこか目立つし、残っていくなと当時思った。そういう積極的なやつが増えてくれると嬉しいなって。

――アメリカから帰国した松下さんがいろんな人と繋がって、繋げていったように、それくらいの気合いを持って動けば、その分の結果もついてくるというか。

松下:とても失礼な言い方ですけど、先輩を道具として捉えた方がいいと思うんです。ポンタさん(村上“PONTA”秀一)にしろ、沼澤尚さんにしろ、超尊敬してますが、自分を高めていくためのツールとして歴史を作ってくれた存在として見てましたし、今でも海外のアーティストに対してそういう感覚を持ち続けてる。その人がドラマーとして培ってきたものを、どうやったら自分に落とし込めるのか。それをずっと考えながらいろんな人と接してきて、もちろん合わない人もいたけど、それってやっぱり実際に会ってみないとわからないんですよね。だからこそ、下の世代にとっても、SNSやYouTubeを使う一方で、「人に会いに行く」っていうことは絶対に必要だと思う。今はめっちゃフレッシュな動画が見れちゃうけど、実際に体験することで、何かに開眼して、人生が変わることってあるはずで。家にいて何でもできる世の中だからこそ、外に出て、何でもチャレンジしたらいいと思うんですよね。(金子厚武)

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