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小津安二郎的“明るさ”と“影の美学”の対比 20世紀から21世紀の“画面”の映画史

リアルサウンド

21/3/27(土) 12:00

21世紀映画の「明るい画面」と「暗い画面」

 この連載の第1回で、ぼくはつぎのようなことを述べていた。

 20世紀から21世紀にいたる映画の画面には、「明るい画面」と「暗い画面」と呼べるようなふたつの対照的な傾向(系譜)がある、そして、2020年代の「新しい日常」の映画では、そのふたつの画面の違いが顕著に現れてくるだろう、と。

 まず、「暗い画面」にかんしては、第2回を中心に、深田晃司監督の『本気のしるし 劇場版』(2020年)や三宅唱監督の『呪怨:呪いの家』(2020年)、ペドロ・コスタ監督の『ヴィタリナ』(2019年)などの作品群を例に見てきた(参照:プロセスの映画と連続/断絶の問題を考える 『本気のしるし 劇場版』の“暗い画面”が示唆すること)。コロナ禍のstay homeを露悪的に絵に描いたかのように薄暗い「密室」に世界が閉じ込められているこれらの映画では、――グレアム・ハーマンのポストヒューマンの哲学のように――「つながり」や連続性よりはむしろ断絶や孤独、非連続性の要素が過剰に前景化されている。

 こうした近年の映画の「暗い画面」たちは、ぼくの見るところでは、早くはゼロ年代の後半くらいから現代の映画やアニメーションの世界で台頭するようになった「明るい画面」の作品たちへのある種の対抗として理解できるものである。前回(第4回 大林宣彦、岩井俊二、新海誠、『WAVES/ウェイブス』ーー“明るい画面”の映画史を辿る)で中心的に検討したその「明るい画面」の映画とは、新海誠や京都アニメーションのアニメ、アリ・アスター監督の『ミッドサマー』(2019年)、トレイ・エドワード・シュルツ監督の『WAVES/ウェイブス』(2019年)、そして、ジョージ・クルーニー監督・主演の『ミッドナイト・スカイ』(2020年)といった作品群に典型的に表れている。あるいは、それは第3回で取り上げた小野勝巳監督のテレビアニメ『ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-』Rhyme Anima‬(2020年)が示すような奥行きを欠いたフラットな画面にもいえるだろう。

 そして、こうした現代映画の「明るい画面」の背景にはおもに、メディア史と映画史が絡まりあったふたつの文脈がかかわっていることも前回までで論じてきた。

 ひとつは、現代の「暗い画面」の映画たちが断絶や非連続性のイメージを打ち出していたように、これら「明るい画面」の映画たちはInstagramやSpotify、あるいはNetflixといった「つながり」=連続性や接続のイメージに基づくデジタルデバイス特有の「画面」の延長上にあるということだ。そしてもうひとつは前回見たように、ポストシネマ的とも呼べるそれらの「画面」は、1970年代の大林宣彦から1990年代の岩井俊二へと繋がる、「オルタナティヴ」な日本映画史の延長上にも捉えられるということである。すなわち、現代日本映画史では、撮影所システムの機能不全に伴って登場したテレビ的な「明るく」「わかりやすい」新たな「画面」に対して、あえて「暗く」「わかりにくい」「画面」を志向し、現代映画的な倫理を模索する監督たちの系譜が見出される。その「暗い画面」の現代映画史はいわばシネフィル的な映画批評における一種の正統的な系譜を形作る(その流れに、たとえば黒沢清監督『スパイの妻』[2020年]の「密室」や「暗い画面」もある)。しかし、現代の「明るい画面」の映画作家たちとは、そうした系譜からはさらに一線を画し、もうひとつのポストシネマ的な可能性を目指しているのではないだろうか、というのがぼくの仮説だ。「明るい画面」の先駆的作家である岩井俊二のZoom映画『8日で死んだ怪獣の12日の物語 劇場版』(2020年)の切り返しのないフラットな画面も、アニメ『ヒプマイ』同様、この「明るい画面」のパラダイムのうえにある。

「暗い画面」を取り巻くダークな思想群

 ところで、21世紀映画の「暗い画面」について、第2回でポストヒューマニティーズの哲学に含まれるハーマンや、そのルーツのひとつと目されるA・N・ホワイトヘッドといった思想家たちの議論を参照して論じた(参照:プロセスの映画と連続/断絶の問題を考える 『本気のしるし 劇場版』の“暗い画面”が示唆すること)。そこで、画面の「暗さ」といえば、読者のなかにはこれらの思想的文脈ともごく近い、近年脚光を浴びているいくつかの思想的動向をすぐに連想した方々もいるかもしれない。

 まずひとつは、アメリカの哲学者アンドリュー・カルプがジル・ドゥルーズの哲学について記した2016年の著作『ダーク・ドゥルーズ』である。カルプの本書での主張をこの連載の論旨に沿って要約することは難しいが、関連する部分だけ取り出すならば、ここでカルプは従来のドゥルーズ哲学解釈が描くリゾーム的かつ生産的な接続や連続性のイメージを否定し(彼はそれを「繋がり至上主義」と名づける)、破壊や憎しみといった「闇のドゥルーズ」を対置する。「喜びのドゥルーズ」と彼が呼ぶドゥルーズ思想の「繋がり至上主義」を批判するその態度は、繰り返すように、「つながり」や連続性に断絶や非連続性を対立させようとする深田やコスタの「暗い画面」の映画と呼応しているように見える(ちなみに、こうした『ダーク・ドゥルーズ』の観点は、本書の邦訳の帯文を手掛けている哲学者の千葉雅也のドゥルーズ論とも重なる)。

 さらにもうひとつつけ加えれば、まさにそのカルプが批判の槍玉に挙げている「暗黒啓蒙」である。暗黒啓蒙とは、イギリス出身の著述家でブロガーのニック・ランドが2012年にウェブに発表し、いわゆる「加速主義」や「オルタナ右翼(オルタ・ライト)」に大きな影響を与えたといわれる主張だ。また、『ダーク・ドゥルーズ』と同様、暗黒啓蒙もここまでに紹介してきたポストヒューマニティーズの哲学の代表的な潮流である「思弁的実在論」と深く関係していることでも知られている。暗黒啓蒙とは文字通り自家撞着めいた名称だが――知られる通り、そもそも「啓蒙enlightment」とは「暗闇が光lightで照らされること」を意味する――従来の近代的な啓蒙主義へのアンチテーゼを掲げた反民主主義的で反動的な動きである。暗黒啓蒙にインスパイアを与えた決済サービス「PayPal」の創業者ピーター・ティールによれば、2001年の「9・11」(ニューヨーク同時多発テロ事件)によって近代西欧のさまざまな「啓蒙」のプロジェクト(リベラル民主主義、人権主義、ヒューマニズム……)は完全に潰えたという。このティールの考えを受け継ぎ、反民主主義的な右派リバタリアンの態度を掲げるのが、ランドの暗黒啓蒙である。

 また、このランドが代表的論客とされる現代の社会思想に加速主義がある。加速主義については、ぼくも以前、リアルサウンド映画部の『天気の子』(2019年)公開時にレビューでごく簡単に触れたことがあるが(参照:『天気の子』から“人間性のゆくえ”を考える ポストヒューマン的世界観が意味するもの)、これは、2008年のリーマン・ショック後、資本主義に対する新たな戦略として打ち出されているもので、現代の資本主義システムに根本的な変革をもたらすために、むしろ資本主義の暴力的な力を脱領土化しより加速させることで、資本主義を自己破壊に導き、その「出口」(イグジット)を目指そうとするリバタリアン的な立場だ。これら暗黒啓蒙にせよ、その別称としての「新反動主義」にせよ、加速主義にせよ、ドナルド・トランプの支持者(オルタナ右翼)の思想的基盤となったこともあり、2010年代を通じて注目を集めていた。ちなみに、『ダーク・ドゥルーズ』でカルプは、「[註:<外>へといたる]プロセスを十分に考慮していない」(『ダーク・ドゥルーズ』大山載吉訳、89頁)という点で「全ての加速主義」を否定しているのだが、かつて下流社会の少年少女が生きる「ダーティな東京」を描いた『天気の子』に加速主義との親近性をぼくが認めたように、これらの2010年代の「暗い思想」が「暗い画面」の映画とどこか結びついていることは考慮しておいてもよいと思う。

シオラン思想とメランコリー

 とはいえ、21世紀の「明るい画面」と「暗い画面」の性質が、完全にまっぷたつに分かれるというものでもない。たとえば連載第3回(参照:『ヒプノシスマイク』の“明るい画面”はメランコリーを象徴? 現代アニメ文化における高さ=超越性の喪失)では、『ヒプアニ』の深みのないフラットな画面から、岩内章太郎の現代実在論をめぐる議論を参照しつつ、ぼくは「メランコリー」の時代感覚を見出してみたが、これなどはどちらかといえば本来は、「明るさ」というよりは「暗さ」に通じるセンスだろう。たとえば、「筋金入りの新反動主義者からすれば民主主義とは、たんに絶望的なものであるわけではなく、それ自体が絶望そのものであることになる。[…]そういった反政治的なものを駆動する地下水脈は、目に見えてホッブズ主義的なものであり、それ自体として一貫性をもった暗黒の啓蒙とでもいえるものだ」(『暗黒の啓蒙書』五井健太郎訳、講談社、26頁)とランドが記すように、「絶望」の感覚が明るさ=啓蒙のなかにも蔓延している状況に気づかされるのが現代なのだというべきだろう。

 そういえば、第3回でもその名前に触れたルーマニアの特異な思想家エミール・シオランのペシミズム思想が――いわゆる「反出生主義」との関係も含め――近年、にわかに注目を集めていることとも、それは無関係ではないに相違ない。シオランの思想にかんして知るには、さしあたり大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに――最強のペシミスト・シオランの思想』(星海社新書)がオススメだが、いまシオランのアフォリズムを読むとき、確かにそこには現代人のメランコリーの核心が表れているような気がする。曰く、「今朝、目を覚ますなり第一に考えたこと。すなわち、人間がかつて得たもっとも深い直観は、すべては気晴らしという直観であるということ。[…]あらゆる約束、あらゆる幻想にまさるもの、それは結局のところ、それが何になる? という平凡な、それでいて恐ろしいリフレインだ。この、それが何になる? は、この世の真理であり、端的に真理そのものだ」(『カイエ:1957-1972』金井裕訳、法政大学出版局、656頁、原文の傍点は削除)。「結局のところ、それが何になる?」――このシオランの吐露は、たとえば手持ち無沙汰でなんとなくNetflixを寝転がりながら観る現代の「Z世代」の若者の「chill out」なリアリティの一端(何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない……)を代弁しているかのようだ。そういえば、庵野秀明総監督の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021年)において、式波・アスカ・ラングレー(声:宮村優子)は、ニアサードインパクトを起こしたトラウマから気力をなくした碇シンジ(声:緒方恵美)に対していみじくも、彼は「生きたくもないし、死にたくもない」のだと口にする。この意味で、シンジはシオラン的なうつ、現代のメランコリーを体現しているのだといってよい(したがってぼくは、今回の新作の物語前半のシンジの姿を、90年代の旧『エヴァ』シンジのセカイ系/引きこもり的主体の反復と捉える解釈は的を射ていないと思う)。

 あるいは、シオランは、別のところで「人類はいまや絶滅しようとしている。これが、こんにちまで私の抱いてきた確信だ。ちかごろになって、私は考えを変えた。人類は絶滅すべきである」(『告白と呪詛』出口裕弘訳、紀伊國屋書店、190頁、原文の傍点は削除)とも書いているが、この「絶滅」の問題もまた、すでにぼくが「人新世」の問題とも絡めてあちこちで論じているように、ポストヒューマンな世界観に通じるものだろう。

「明るい画面」の「暗さ」――「空洞化」するデジタル画面

 ともあれこのように、現代映画の画面を二分する「明るさ」と「暗さ」はこの時代特有の本質を共有していたりもする。

 確かに、このような「明るい画面」特有の「暗さ」=「見えにくさ」という逆説は、ほかのところでも見られるように思われる。ここ数年、ぼくが参照することの多いアニメーション研究者の土居伸彰のいう現代アニメーションに見られる「空洞化」の議論は、このこととも関係しているはずだ。土居は、21世紀に台頭してきている新世代のアニメーションの紡ぐ物語や表現は、かつての20世紀に作られていた、ディズニーやスタジオジブリなどの伝統的なアニメーションと比較し、大きく変化してきている要素があると指摘する。

かつては一義的な意味しか持たなかったアニメーションの記号が、何も意味を持たない記号になり、それゆえにあらゆる意味付けに対応するようになる状況が目立ちはじめてきたのだ。[…]

 こういった作品[註:かつての20世紀に作られていたアニメーション]の作り方の背後には間違いなく、世界はこのようにあるべきだというある種の理想が潜んでいる。作り手自身に、強い意志で守ろうと考える思想があるのだ。[…]フレデリック・バックやポール・グリモー、そしてそれらの作家と思想を共有する高畑勲の作品がたとえばそうだ。[…]

 それは、価値判断や道徳を伴っていて、具体的な現実とつながっていて、それらを理想的なものに変えんとする意志がある。

 一方、『オー、ウィリー』[註:21世紀的な新しいアニメーション]の映像は、おそらく何も意味していないし、何の理想も隠していない。[…]

 それは、フレームの「上」での情報量の過剰を起こす。認知は豊かに蠢く表面でストップし、何が何を意味しているということを考える余裕を失わせる。(『21世紀のアニメーションがわかる本』フィルムアート社、146~151頁、原文にある傍点は削除した)

 まず、21世紀のアニメーションは20世紀と較べて、はっきりした理想や思想を掲げる作品がなくなってきていると土居はいう。そしてその傾向は、「画面」の印象にもはっきりと表れている。たとえば、ここで土居が例に出す細かい毛の一本一本の微細な動きまでハイビジョン映像で見せてしまうウェス・アンダーソンの人形アニメーションをはじめ、典型的には、高精細なフォトリアル表現を全面に打ち出す新海や京アニのインスタ映え的画面がそうだ。それら解像度の極限にまで上がったデジタル映像は、まさにぼくたち人間=観客にとって「情報量の過剰」(認知限界)を起こすがゆえに、逆説的にも「何が何を意味している」という「明るい」「見えやすさ」から遠ざかっていくというわけだ。つまりこれが、「明るい画面の暗さ=見えにくさ」とでもいうべきものである。

実写映画における空洞化した「暗い画面」

 とはいえ、ここで土居が現代アニメーションについて述べた事態は、じつは実写映画の世界にもはっきりとあてはまる。しかもそれは、「暗い画面」を持った現代映画にもあてはまるものだ。

 事実、土居自身もまた、ぼくとの対談(「2016年の地殻変動」、同人誌『クライテリア』第2号所収)のなかで、そのことを認めている。たとえばすでに別の原稿(「ポスト・シネマ・クリティーク」第20回、『ゲンロンβ18』所収)でも書いたことだけれども、クリストファー・ノーラン監督の戦争映画『ダンケルク』(2017年)などはそうだろう。それから、同じ戦争映画のサム・メンデス監督の『1917 命をかけた伝令』(2019年)。そして、フー・ボー監督の『象は静かに座っている』(2018年)など。

 先ほどの土居は、21世紀のアニメーションに起こっている変化として、「画面の空洞化」とともに、それとも通じる要素として、「私から私たちへ」というキーワードを出している。彼によれば、20世紀のアニメーションがアイデンティティのはっきりした「私」を描いていたとすれば、21世紀のアニメーションは、「「私」は深みを欠いて空洞化し、棒線画化していき、個性を失って、他の人と同じようになっていく」、「「私」よりも「私たち」と言うのがふさわしい」(『21世紀のアニメーションがわかる本』、106頁)ものに姿を変えているという。ひるがえって見た場合、『ダンケルク』や『1917』のイギリス陸軍の若い兵士たちも、『象は静かに座っている』の主人公たちも、確かに「深みを欠いて空洞化し、棒線画化していき、個性を失って、他の人と同じようになっていく」、集合的で匿名的な「私たち」と呼ぶにふさわしい存在として描き出されている。しかもそこで重要なのが、それらの映画の画面がやはりいずれも暗くて見えにくいということだ。『ダンケルク』の掃海艇や漁船の内部に無数の兵士たちがひしめき合うシーンや、『1917』の夜の闇のなかを煌々とした炎に照らされながら主人公の兵士が走るシーンはその点で印象深い。また、『象は静かに座っている』は、早朝を選んで撮影されたというつねに薄明の灰色がかった淡い色調の風景のなかで、極端に浅い被写界深度のカメラによって手前の人物以外の人間がすべて淡く暗く背景に溶かし込まれる独特の演出が凝らされている。その結果、本作でもやはり画面は過度に空洞化/匿名化した「暗さ」をまとうことになる。

草創期の「明るい画面」にもたらしたヘンリー・小谷の変革

 さて、以上までの論述で、コロナ禍を前後する21世紀の国内外の映画に「明るい画面」と「暗い画面」の到来という不可逆的な変化が起こってきており、それが現代映画を知るうえで非常に示唆に富むということが、さしあたりおわかりになっていただけたかと思う。そして、本稿では連載第4回を中心に、そのふたつの画面の対比を歴史的にも戦後から現代にいたる流れとして跡づけてみたのだった。

 ここまでで、この連載でのぼくの目的はだいたい達成できたのだが、本稿の最後に、この点をより広く俯瞰して一連の議論を補強することで締め括ることとしたい。

 ここで参照に値するのが、おそらくは日本映画研究者の宮尾大輔によって提起された「影の美学」と、同じく映画史やメディア史の研究者である滝浪佑紀が定式化する「<明るさの映画>」というふたつの議論である。

 たとえばよく知られるように、COVID-19が猖獗を極める現在からほぼ正確に1世紀を遡る1918年から20年にかけての時期にも、「スペイン風邪」という未曾有のパンデミックが世界的に起きていた。またつけ加えれば、(約10年の誤差はあるものの)やはりほぼ同時期には日本で大規模な震災も起きている。きわめて興味深いことに、いわば20世紀における「新しい日常」が幕を開けた1920年代から30年代にかけての日本(やハリウッド)の映画にも、じつは2020年代のいまと似たような「明るい画面」と「暗い画面」の興亡がはっきりと確認できるのである。

 映画における照明法の変遷というユニークな視点から新たに日本映画史の書き換えを試みた宮尾によれば、現代のコロナ禍から正確に100年前の1920年に、日本映画の画面を枠づける明暗表現にある決定的な変革がもたらされたという。

 この年に、1910年代から草創期のハリウッドでカメラマンとして活躍していたヘンリー・小谷(小谷倉市)が同年に創立された松竹キネマ(現在の松竹)の蒲田撮影所の撮影技師長として迎えられたことが、それであった。小谷は1922年に松竹を退社するまでのわずか2年のあいだに、日本の映画業界にハリウッド仕込みの撮影や編集技法、とりわけ立体的な照明法をつぎつぎともたらし、日本映画の画面を劇的に進化させたのだった。

 そもそもそれ以前の草創期(1910年代)の日本映画の「画面」は、きわめて単調な「明るさ」だけが支配するものだった。たとえば、日本で最初の職業映画監督であり「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三の遺した映画製作にまつわる有名なモットーに「一.ヌケ、二.スジ」がある(現在では「一.スジ、二.ヌケ、三.ドウサ」という言い方が一般的だが、宮尾によれば牧野の本来の表現は違っていた)。ここで牧野が映画にとってもっとも大事な要素だという「ヌケ」とは「画面の抜け」、要するに撮影・現像の技術による「画面の見やすさ=明るさ」のことであった。そこで当時の日本映画は歌舞伎の照明法の影響を受けた平板な正面からのライティング(まだレフ板の正確な使い方さえ知られていなかった)、光と影のコントラストの弱い照明法による、単調でフラットな「明るい画面」しか存在しなかった。そこに小谷がハリウッド直輸入のハーフトーンのグラデーションを伴った先進的な照明法(スリー・ポイント・ライティング)を導入し、日本映画の画面を近代化していったのである。

 その意味で、日本映画史では1920年代においてはじめて、「明るい画面」と「暗い画面」のコントラスト(グラデーション)が本格的に形作られるようになったといえるだろう。ここから、日本の映画文化、というよりも映像文化全体のなかで「明るさ」と「暗さ」をめぐる独特の文化的磁場が姿を現していくのである。

「明るく楽しい」蒲田調の「明るい画面」

 たとえばまず、先の小谷が日本にハリウッド由来の繊細な照明設計の技術を持ち込んだとはいっても、1920~30年代の日本映画のトップに君臨していた松竹の映画が、基本的には草創期の牧野的な画面を引き継いだ「明るい画面」であったことも重要である。

 その「明るさ」を象徴する典型的なジャンルが、なんといっても1924年に蒲田撮影所長に就任した名プロデューサー・城戸四郎が推進した「松竹蒲田調」と称された戦間期の一群の現代劇だ。蒲田調とは、それまでの松竹映画の主流だった保守的スタイルの新派メロドラマとは異なる、当時の近代化する東京の郊外を舞台にした、明朗快活で洗練されたモダンなスタイルを指す。小津安二郎監督の『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)をはじめとするいわゆる「小市民映画」が有名だが、ほかにも牛原虚彦監督と鈴木伝明主演のコンビによるスポーツ青春映画、斎藤寅次郎監督のナンセンスコメディなどが続々と作られた。そして、そうした松竹蒲田調のスローガンが、ほかならぬ「明るく楽しい松竹映画」だったのである。それは、「松竹としては人生をあたたかく希望を持つた明るさで見ようとする」(『日本映画伝――映画製作者の記録』文藝春秋新社、1956年、40頁)という城戸の表明からも如実に窺われる。

 さらに宮尾によれば、この蒲田調はそうした気分(趣味)としての「明るさ」のみならず、撮影=画面の「明るさ」をも意味していた。そして、蒲田調を作り上げた松竹のカメラマンたちが理想としていたのが、彼らが「パラマウント調」と呼んで尊敬していたハリウッドメジャーのパラマウントの映画が印象的に設計していた美しいハイ・キー・ライティングの画調だったのである。そして、このパラマウント(正確にはその前身会社のフェーマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオ)こそ、ヘンリー・小谷が所属し、巨匠セシル・B・デミルらのもとで「ラスキー・ライティング」と呼ばれる照明法を学んだ撮影所であった。そして、この蒲田調の「明るい画面」が林長二郎(のちの長谷川一夫)の時代劇映画の画面作りなどにも繋がっていくことになるのだ。

小津安二郎の「<明るさの映画>」

 また、一方で滝浪は、この松竹蒲田調の代表的監督でもあった小津安二郎のサイレント時代の作品をめぐる研究において、ほぼ同じ時期(1920年代後半)の日本映画にはハリウッド映画から影響を受けた、また別の「明るさ」の要素が存在したことを指摘している。それが、彼が「<明るさの映画>」と名づけるものだ。

小津が映画作家としてのキャリアをスタートさせた一九二〇年代後半日本において、ハリウッド映画の本質は<動き>と<明るさ>の性質にあると見なされていた。<明るさ(lightness)>とはここで、「重さ」にたいする「軽さ」、「暗さ」にたいする「明るさ(brightntss)、さらには「朗らかさ」、「快活さ」といった、ハリウッド映画が一九二〇年代後半日本における大衆文化という文脈のなかで持っていた感覚を指している。[…]

 時代としては、<明るさの映画(cinema of lightness)>は、「アトラクションの映画」[註:まだ物語のつかない、草創期の映画]につづく、一九二〇年代中盤から後半にかけてのサイレント映画最後期に存し、地域としては、第一次世界大戦以降のグローバルな政治経済システムの移行に規定された歴史的で地政学的な状況のために、とりわけ日本(および「狂騒の二〇年代」に沸いたアメリカ)においてもっとも明瞭に照らし出されていた。(『小津安二郎 サイレント映画の美学』慶應義塾大学出版会、14~21頁)。

 一般的にぼくたちがよく知る戦後の小津安二郎が『晩春』(1949年)や『東京物語』(1953年)など、しばしば日本的侘び寂びにもなぞらえられる、保守的なホームドラマ(いわゆる「小津調」)を量産していたように見られることに比較し、戦前(あるいはサイレント時代)の彼が、むしろエルンスト・ルビッチやキング・ヴィダー、ウィリアム・A・ウェルマン、ジョゼフ・フォン・スタンバーグといったハリウッド監督たちからの圧倒的な影響を受けた非常にモダンでスタイリッシュな作品を手掛けていたことは映画ファンならよくご存知だろう。

 滝浪によれば、小津を筆頭とする1920年代後半の日本では、こうしたサイレント時代のハリウッド映画のスタイルから大きな影響を受けていたが、そこで彼らが注目していたのはそれらの映画がいきいきと描き出す映画ミディアム特有の「<動き>」の印象であり、それを「明るさ」という語彙で表現していたという。「ここで注記したいのは、「明るさ」と「ソフィスティケーション」という語はともに、ハリウッド映画が大衆モダン文化の隆盛という歴史的文脈のなかで持っていた感覚、とりわけ憧れの対象としての「モダンなもの」に結びつけられた感覚を指していたということである。そしてこの感覚を名指すために、もっとも頻繁に使われたのが<明るさ>という語だった」(同前、36頁、原文の傍点は削除した)。たとえば、先ほどの牛原虚彦のスポーツ青春映画にせよ、そこでは男性主人公のスペクタクル的なアクション動作を介して、「健康的」な「<動き>」としての「明るさ」が表象されていたというのである。

 ここから滝浪はフランスのフォトジェニー理論を含むサイレント映画時代の映画美学とサイレント時代の小津の映画美学がいかに同時代的に共振していたかを巨細に解明していくのだが、いずれにしても、この滝浪の議論は、「明るく楽しい」松竹蒲田調の映画が一方で多様な「明るさ」をはらみながら製作され受容されていた実態の一端を垣間見させてくれるものである(また、そもそも戦後の小津調時代の小津作品の画面にせよ、『監督 小津安二郎』の蓮實重彦が「白昼の光線の作家」と呼んだように強烈な「明るさ」をまとっていた)。

『陰翳礼讃』と「影の美学」の出現

 以上のように、1920年代から30年代の日本映画は、同時代のハリウッド映画の多大な影響を受けながら、総じて「明るい画面」を志向していた。

 ただ、やはり事態がそう単純ではないのは、この松竹蒲田的な「明るい画面」や「明るい映画」が花開いていた時期に、そこでは対極的な「暗い画面」、あるいは宮尾のいう「影の美学」が産声を上げていたという事実である。宮尾が整理するところによれば、日本映画ではだいたい蒲田調が終わりを迎える1937年ころから松竹映画的な「明るさ」が映画批評家やカメラマンたちのあいだでこぞって批判され始め、反対に「影の美学」といえるようなものが声高に叫ばれ出したという。

 たとえば、松竹の美術監督を務めていた芳野尹孝は、後年の1970年代末――大林宣彦と角川映画が「明るい画面」を作り始めていた時代――に、この時代の日本映画に見られ始めた傾向を「陰翳の美学」という言葉で言い表していた(『映画照明』8月号)。この芳野の「陰翳の美学」という表現は、時代背景を考慮すると、その「元ネタ」にたちどころに気づくだろう。そう、「明るく楽しい松竹映画」全盛の1933~34年に発表され、1939年に単行本としてまとめられた谷崎潤一郎の文明論的随筆『陰翳礼讃』である。いまなお日本文化論の代表的名著として海外でも広く読まれているこの文章で谷崎は、よく知られるように、関東大震災後に急速に欧風化し古来の江戸情緒が消えゆく当時の日本社会を憂え、人工的に影を消していく西洋文化と比較し、むしろ自然の陰翳のなかで美を作り出す日本独特の芸術精神や美意識を称揚したのだった。

 しかし、彼がこの随筆を記した昭和初期の日本は、皮肉にも、じつのところ世界でも屈指のネオンサイン(電気照明)文化が成立しており、大都市では夜の闇を白く塗り替えるほどの煌々とした「明るさ」で満たされていた。すなわち、繰り返すように、1920年代から30年代の日本の映画・映像文化では松竹蒲田調からネオンサイン文化にいたる「明るい画面」の趨勢が絶頂を迎えた一方で、『陰翳礼讃』的な「影の美学」=「暗い画面」の価値が打ち出されていた両義的な時代でもあったのである。事実、ヘンリー・小谷に師事し、戦後日本を代表する名映画カメラマンのひとりとなった碧川道夫は、著書『映画撮影学読本』(1940年)のなかで谷崎の『陰翳礼讃』を映画カメラマンの「教養」として挙げた。

 さらに、この「明るい映画」から「影の美学」へのヘゲモニー移行は、ある側面で「松竹から東宝へ」のそれとしても表れた。まさに松竹蒲田調が終焉を迎える1937年に「東宝映画株式会社」となった東宝は、こうした戦時下へと向かって拡大していく「影の美学」をもっともよく体現するスタジオとなっていった。その事実を宮尾は、蒲田調の「明るい画面」を受け継いだ時代劇で松竹の大スターとなった長二郎が、本名の「長谷川一夫」に改名して移籍した先の東宝でいかに「影の美学」をまとって「暗い画面」のなかで演じたかを、山本嘉次郎監督『藤十郎の恋』(1938年)を例にたくみに分析している。

 いずれにせよ、ぼくたちはこの戦前の日本映画の「明るい画面」と「暗い画面」のコントラストの絡まり合う文化状況に、今日の同様の見取り図と非常に重なるものを認めることができるだろう。

 なんとなれば、さらにここには連載第1回のZoom映画の考察の箇所(参照:“画面の変化”から映画を論じる渡邉大輔の連載スタート 第1回はZoom映画と「切り返し」を考える)で触れた現代の映像文化におけるタッチパネル的な「ハンドメイキング」=触覚性の問題との共通性も見出せる。柳田國男の『明治大正史 世相篇』から松山巌の『乱歩と東京』まで、1920年代を「視覚優位の時代」として描き出す文献は数多い。しかし、じつはそれゆえに、著名な「触覚芸術論」が作中で語られる江戸川乱歩の短編小説『盲獣』(1931年)に象徴されるように、当時は「触覚」への関心が密かに高まった時代でもあったのである。

「影の美学」=「暗い画面」のゆくえ

 ともあれ、「映画撮影における「影の美学」は、一九三〇年代後半から一九四五年の間の主要な映画と批評の中にその姿を現した。「影の美学」は、戦時下の映画文化の複雑な状況を体現していたと言ってよい」(『影の美学――日本映画と照明』笹川慶子・溝渕久美子訳、名古屋大学出版会、170頁)と宮尾は書く。すなわち、日本映画の「影の美学」とは、もとよりハリウッド映画の美しいロー・キー・ライティングに憧れながら戦時下の厳しい機材不足などの状況下にあった当時の映画カメラマンたちが、国家主義に迎合する日本的なイデオロギーとしての「陰翳礼讃」を取り入れながら正当化した概念であり表現だったのである。

 そして、ここにはハリウッドの「暗い画面」=「暗黒映画」の典型的ジャンルである「フィルム・ノワール」の文脈も結びつく。フィルム・ノワールとは、1940年代から50年代にかけて、ハリウッドで量産された低予算(B級の)の犯罪メロドラマであり、ハードボイルド小説を原作として、映像面ではドイツ表現主義などの影響を受けた文字通り極端なロー・キー・ライティングの明暗表現で知られている。

 1934年にハリウッドから帰国し、東宝の専属カメラマンになった「ハリー・三村」こと三村明は、若いころに名カメラマンのグレッグ・トーランドに師事して撮影技術を習得し、戦時下の国内の劣悪な条件のなかで、山中貞雄監督の『人情紙風船』(1937年)などの名作の撮影で、のちにトーランドが本格的に開発するいわゆる「パン・フォーカス」(ディープ・フォーカス)などに代わる質の高い映像表現(「縦の構図」など)を実現させる。そして、このトーランドがパン・フォーカスを存分に駆使したオーソン・ウェルズ監督・主演の傑作『市民ケーン』(1941年)が、フィルム・ノワールの重要なルーツになったことは知られる通りだ。

 このあと宮尾は、宮川一夫が撮影を担当した戦後の市川崑監督『鍵』(1959年)――もちろん、原作はあの『陰翳礼讃』の谷崎潤一郎――にまでフィルム・ノワールとの共通性を見ようとする(同前、266頁)。そういえば最近、『市民ケーン』の脚本を担当したハーマン・J・マンキーウィッツの半生を題材にして、しかもパン・フォーカスをはじめとしたトーランドの同作の映像表現をそっくりそのまま再現してみせたデヴィッド・フィンチャー監督の『Mank/マンク』(2020年)がNetflixオリジナル映画として配信されたが、この『Mank/マンク』のモノクロの「暗い画面」にもまた、おそらくは映画史のさまざまな「陰翳」を読み取ることが可能である。

「画面」の映画史の過去・現在・未来

 ともあれ、『影の美学』の宮尾は、草創期から戦後にまでいたる日本映画の「影の美学」の系譜をたどってきたあとで、最後に、このように議論を締めくくっている。

一九六〇年代にカラー映画がモノクロ映画に取って代わってから、一九七九年に芳野が「陰翳の美学」は「奥深いところにじっと潜んでいる」と述べるまでの約二〇年間、「影の美学」は忘れられたかのように見えた。そうした忘却は、一九六〇年代の高度経済成長とかかわりがあったのかもしれない。日本の将来は、明るく朗らかに見えたのだ。そして見えやすさを重視するテレビの流行の中に、「影の美学」の居場所はなかった。しかし、例えば二〇世紀末にブームとなったJホラー(日本製ホラー)映画の作り手たちは、日本の空間の中にある暗さや影に魅かれると語る。デジタル時代のまっただ中において、そうした作り手たちの「影の美学」に対する傾倒が意味するものは何だろうか。(同前、277頁)

 明らかな通り、この宮尾の結論は、ぼくたちのこの連載の議論にとってもことのほか重要だろう。

 ここで宮尾は、「「影の美学」は忘れられたかのように見えた」戦後の「約二〇年間」の有力な時代的要因のひとつとして、「見えやすさを重視するテレビの流行」を挙げており、またその後、ふたたび「影の美学」に接近し、「日本の空間の中にある暗さや影に魅かれると語る」「Jホラー(日本製ホラー)映画の作り手たち」が現れたとの歴史的な見取り図を描くが、まさにこれは、ぼくたちが第4回の議論で参照した『フレームの外へ』における赤坂太輔の映画史観を正確になぞっている(ここでいわれる「Jホラー(日本製ホラー)映画の作り手たち」に黒沢清が含まれることはいうまでもない)。あるいは、他方の『小津安二郎 サイレント映画の美学』の滝浪もまた、彼の提起する「<明るさの映画>」や「<動き>の美学」をデジタルシネマの文脈と類比的に語っている。であれば、やはりここでの映画史的なパースペクティヴを、この連載で述べてきたコロナ禍のデジタル環境の映像と結びつけて考えることは有効だろう。

 このようにぼくたちには、おそらく100年単位の映画や映像文化の歴史のなかで、いまの「新しい日常」における「新しい」、「明るさ」と「暗さ」を伴った「画面」のゆくえについて批評的に検討することが求められているのだ。

■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部専任講師。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter

■公開情報
『スパイの妻<劇場版>』
全国公開中
出演:蒼井優、高橋一生、坂東龍汰、恒松祐里、みのすけ、玄理、東出昌大、笹野高史ほか
監督:黒沢清
脚本:濱口竜介、野原位、黒沢清
音楽:長岡亮介
制作著作:NHK、NHK エンタープライズ、Incline,、C&I エンタテインメント
制作プロダクション:C&I エンタテインメント
配給:ビターズ・エンド
配給協力:『スパイの妻』プロモーションパートナーズ
2020/日本/115分/1:1.85
公式サイト:wos.bitters.co.jp

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