Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play

“自分が正しいと思うこと”のための戦い。 映画『ペトルーニャに祝福を』監督が語る

ぴあ

『ペトルーニャに祝福を』 (C)Pyramide International

続きを読む

北マケドニアを舞台に主人公が自身の想いを貫こうと戦う姿を描いた映画『ペトルーニャに祝福を』が公開されている。第69回ベルリン国際映画祭のコンペティション部門でエキュメニカル審査員賞に輝いた本作は、先の読めないストーリー、魅力的なキャラクターで観客を魅了し、その結末が深く心に突き刺さる一作だ。本作を手がけたテオナ・ストゥルガル・ミテフスカ監督は「この映画は男性や女性に限らず、日本であってもマケドニアであっても多くの方に共感していただけると思っています」と語る。

本作の主人公ペトルーニャは大学で歴史を学んだのに、希望する仕事が見つからず、面接に行ってもロクなことがない鬱々とした日々を送っている女性だ。彼女はある日、ヒドい仕打ちをうけた面接の帰り道に、キリストの受洗(洗礼を受けること)を祝う祭りに出くわす。この祝祭では司祭が十字架を川に投げ込み、それを最初に発見した男性はその一年、幸福に暮らせるという。十字架は川へと投げ込まれ、なぜかペトルーニャの前に流れてきた。彼女は思わず十字架手に取る。

十字架を男性ではなく女性のペトルーニャが手にしたことで周囲は騒然。男たちは彼女から十字架を奪おうとするが、ペトルーニャは争奪戦をくぐり抜けて十字架を手に逃亡。しかし、やがて彼女は警察に連行される。ある人は言う。「この十字架は男性が取ると決まっている」。別の人は言う。「女性が十字架を手にするのは違法ですか?」。ペトルーニャは言う。「十字架は私もの!」連行された彼女の孤独な戦いが始まる。

本作では“男性だけが参加できる祝祭で女性が十字架を手にした”ことから物語がスタートするが、ここで描かれるのは男性と女性の対立ではない。この物語は終始一貫して“自分の信念をもって行動する人間”と“これまでの習慣やしきたりに何の疑問も持たずにただ従っているだけの人間”の戦いが描かれる。

「その通りだと思います。この映画は正義=自分が正しいと思うことのための戦いを描いているのです」とミテフスカ監督は語る。「ペトルーニャは不正に対して感じるものが強くある人間ですが、その気持ちに映画を観てくださる方は共感してもらえると思っています。人間は普遍的でグローバルな存在ですから、不公平や不正に対する想いは誰もが心の奥底にあるはずです。この映画は男性や女性に限らず、日本であってもマケドニアであっても多くの方に共感していただけると思っています。

ですから私はこの映画でペトルーニャを教養のある女性として描くことにこだわりました。それに彼女は歴史を専攻しています。というのも、歴史を学ぶということは、私たちがどこからきて、自分たちが何者なのかを知ることだと思うからです。知識があるからこそ、人は変化するチャンスに対してオープンでいられると思いますし、学ぶことで人と人のつながりや、変化に対して、小さい自分を超えた視点を持てると思うのです」

ペトルーニャは何も「男性が十字架を手にすることが許せない!」と怒っているのではない。「なぜ、女性が十字架を手にしたことにそんなに反対するのか、ちゃんと考えてみたことはあるのか?」と問いかけているだけだ。昨日もそうだったから今日も同じで良い。一度決まったことだから、それが不公平であろうと変化しようとは思わない。そんな人間たちがペトルーニャの前に次々と出現し、彼女を問い詰める。しかし彼らは彼女を説得できない。自分の考えや信念があるわけではないから。ペトルーニャだけが結果がどうなるにせよ、変化することに対してオープンでいるのだ。

「もちろん、映画を描く上では“変化”に対して心の準備がまだできていない人を簡単に裁いたりするようなことにならないよう慎重に作劇にあたりました。人間は誰しも恐怖心があるものですし、怖くて変化を受け入れられない人はいると思うのです。しかし、かつて“ギリシアの神々は人間に嫉妬している。なぜなら人間は自分自身で変化する力を持っているから”と言った人がいました。ペトルーニャがこの物語の中で発揮するのはそういう力なのだと思います」

そこでミテフスカ監督は本作を描く上で、ふたつの視点から場面を描き出していく。ひとつはカメラをしっかりと引いて、フレームの中心に主人公ペトルーニャが置かれている視点。もうひとつは、カメラが彼女に接近し、その息づかいや視線の動きを漏らさず描いていく視点だ。

「アップの構図を使ったのは、たとえそれが居心地の悪いものであったとしても、観客にペトルーニャと同じ感覚や気持ちを味わってもらいたいと思ったからです。そして、カメラを引いた構図を多用したのは、本作でペトルーニャを“聖人”のように撮りたいと考えたからです。宗教画やフレスコ画では、聖人は絵画の真ん中にいます。また、宗教画では繰り返し三位一体の要素が登場することにも留意してフレームを決めて、ペトルーニャを画面の中心に配置し、三つの要素が画面の中に並ぶようにしたのです。

もちろん、彼女が聖人のように立派な人間だということではありません。私はこの映画で彼女が起こす変化が“個”を超えたものとして観客に受け止めてもらいたい、そう思って宗教画のようなフレームと、アップの構図、このふたつのコンビネーションで映画を構成していきました」

警察に連行されたペトルーニャはさまざまな人々から十字架を返せ、変化を望むなと迫られ、彼女は変化を求めて戦う。その結末は単なる“物語の終わり”だけではない感覚を観る者に与えてくれるが、その結末は複数のバージョンを撮影した上で、現在のものが選ばれたという。 「どんな内容かは観ていただきたいのですが、結果的にあのような結末になりました。ペトルーニャは自分が掴んだ十字架には歴史があり、伝統があるとちゃんと理解していて、それが現在の私たちを形作っていることも十分に理解しているけれど、その上で自分のやり方で、それまでとは違った方法で自分自身を解放しようとする。それがあのラストなのだと思っています」

長く孤独な戦いの末にペトルーニャは十字架を手放すのだろうか? それとも死守するのだろうか? そして最後に彼女は何を決断するのか? 先の展開の読めない本作の結末は、多くの人の心を捉えるはずだ。

『ペトルーニャに祝福を』
公開中

アプリで読む